これまで灘五郷や伏見の酒蔵を訪れ、いよいよ清酒発祥の地「伊丹」を訪れることにしたのであるが、それだけではもったいないので観梅も計画にいれることにしたのである。伊丹市は摂津国の中心で戦国期は惣構の城「有岡城」が築かれ、伊丹の鴻池は清酒発祥の地として知られる。その後、「伊丹郷町」は多くの文人墨客が訪れる、文化の薫り高い町として、全国に名を馳せているとのこと。
伊丹の北部、鴻池村に「我に八難七苦を与えたまえ」で有名な尼子遺臣・山中鹿之助の長男 新六幸元が遠縁を頼って住みつき、酒作りを始めたのである。最初は濁り酒を造っていたが、慶長5年(1600)に双白澄酒(もろはくすみざけ=清酒)の醸造に成功したことが、後の伊丹の酒の隆盛に繋がりました。当時濁り酒が主流を占めた日本酒の中に、透明な清酒が登場して特に需要の多い江戸に運んだところ、大歓迎されて巨万の富を築いたと言われている。鴻池村にちなんで鴻池姓を名乗った新六は、後に大坂に出て鴻池家の始祖となった。
鴻池新六の居宅跡に、「鴻池稲荷祠碑」があり、清酒発祥の地が記されている。その後、寛文元年(1661)伊丹町及び近隣11カ村を併せた伊丹郷町が、五摂家筆頭近衛家領となるに及び一層酒造りに有利となり、元禄時代には江戸には樽廻船で運ぶという一大流通革命と、杉樽の香りのする芳醇馥郁たる辛口の伊丹の酒は、丹醸、伊丹諸白と呼ばれ珍重されたことと将軍家の御膳酒となり、伊丹郷町の江戸積酒造業の隆盛を極めた要因だったのである。しかし、生一本の灘五郷の台頭で、伊丹の酒は衰退の道を辿っていたとのこと。現在は全国ブランドの「白雪」と「大手柄」、「老松」を数えるだけになった。
阪神西宮から2駅、今津乗換えで阪急今津線で2駅・阪急西宮北口へ、神戸線乗換えで2駅・塚口、また乗換え伊丹線で終点阪急伊丹駅に着くのであるが乗換えだらけである。「緑ヶ丘公園」へは、阪急伊丹駅の①番乗場からバスで約15分位、瑞穂小学校前停留所で降りて樹木が繁る方向に50mほど歩くと池が見えてくる。
そして梅林はその向こうに広がっていたのである。上池越しに見る梅林はまだ2~3分程度であったが優しい梅の香りと早春の自然美に心がほぐれる。
地元の人たちが足を運ぶ「緑ヶ丘公園」は昭和57年(1963)開設で、伊丹市で最も古い公園で7・8ヘクタールの広い園の中の梅林では、5600㎡にヒメチドリ、フジナミシダレ、ハクギョクなど50種、約400本の梅が楽しめる。松や桜の古木、春には大きな二つの池で遊ぶ野鳥の姿など、とても自然豊かである。
下池のほとりには、伊丹市の友好都市、中国・佛山市から贈られた朱塗りの中国式の東屋「賞月亭」があり、水面に映る姿が美しかったり、日本建築の伝統、技術の枠を集めてつくった「鴻臚館」など趣のある建物も見どころである。
ところが緑ヶ丘公園の梅林の梅にウメ輪紋病(プラムボックスウィルス)が見つかり、蔓延を防止するため3月9日を持って同公園の梅を全て伐採することになり、今年が最後の観梅なのである。残念。
公園の入る導線上に、延喜元年(901)に菅原道真公が大宰府へ向かう途中、この地で臂を枕に休憩されたので、臂岡の地名がついたといわれる「臂岡天満宮」がある。道真公の没後90年経ち赦免され、ここに社を建てられたことが当宮の起こりとされている。
国道171号をくぐり、県道13号から少し入った所に「辻の碑」がある。ここは西国街道と多田道とが交差する、所謂「辻」に建てられていて、山城国、播磨国、丹波国、和泉国の国境からともに7里(約28km)で摂津国の中心ということになる。伊丹郷町の北の入り口にあたる「北ノ口」から川西の多田神社への参詣道として栄えたのが多田道なのである。
伊丹緑道は171号線から旧西国街道の辻村近辺を経て猪名野神社まで続く約1・4KMの遊歩道で市民の散策路として親しまれており、いわば山辺の道である。並行して産業道路があるのが感じない程、静かな径である。HPの写真では、竹薮近辺は昼でも薄暗く、異次元空間に迷い込んだ錯覚もと・・・書かれていたが、住宅が建ったからなのか竹薮の姿はなかった。
途中には、建築道楽であった”日本一かっこいい男”として近年脚光を浴びる白州次郎の父文平が建てた屋敷の跡地がある。次郎は英国留学から帰国後結婚までの少しの期間すんでいたらしい。
「猪名野神社」の名称は明治2年(1869)の神仏分離により、「猪名野神社」と改称したもので、諸々の神を祀る伊丹郷町の氏神で、古くは「野宮」、「天王宮」、「牛頭天王」などと呼ばれていた。有岡城の北端に位置し、かつては惣構の城郭「きしの砦」跡と推定される土塁跡が残存している。
祭神は、猪名野坐大神(健速須佐乃男命)で、醍醐天皇延喜4年(904)に猪名寺の元宮から移され、本殿は、貞享2年(1685)造立である。
JR福知山線伊丹駅前の公園になっているのが2014年NHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」で、当時の城主であった荒木村重が天正6年(1578)織田信長に謀反をおこし、説得に来た黒田官兵衛を幽閉した城として有名な「有岡城跡」を訪れた。鎌倉時代に伊丹氏によって築城されたといわれ、荒木村重が城主の時に有岡城へ改名し、東西0・8Km、南北1・7Kmに及ぶ日本最古級の城下町を取り込んだ惣構の城に大改修しました。石垣上が本丸跡。
城跡は現在、ほとんどが市街地化されていますが、戦国時代に広く築かれた強固な城の一部であるとされている土塁や空濠が発掘調査で見つかり、当時の面影を深く感じさせる。本丸に残る石垣には、石仏や墓石など多くの転用石が使われているのがわかります。本丸には井戸跡と説明されている穴が、いくつか残されています。
さて喉も渇きレストラン直行である。創業天文19年(1550)で460有余年の歴史を持つ小西酒造の酒蔵を改造したレストラン「白雪ブルワリービレッジ長寿蔵」で日本酒ならず地ビールをいただくことにした。
「小西酒造」は、文亀永正の頃(1501~1520年)丹後国丹波郡吉原庄(現在の京都府中郡峰山町)奥吉原城に拠り細川藤孝と戦った守護一色氏の陣代小西岩見守を始祖とし、その猶子小西宗雄が民間に下り、天文19年(1550)伊丹に出て薬種商を営むかたわら濁酒造りを創めた。その後文禄元年(1592)清酒業を本業とし規模も大きく営むようになり、慶長17年頃(1612)始考新右衛門宗吾が江戸への駄送りを開始、寛永12年頃(1635)2代目新右衛門宗宅が江戸へ酒樽を運ぶ途中雪を頂いた富士の気高さに感動し 富士の「白雪」と名づける。
約200席ある広い店内で梁や柱は当時のままに、かつての酒蔵ならではの高い天井も開放感たっぷりである。店の奥にある工場のつくりたての地ビールが味わえるので4種類の「白雪麦酒」テイスティングセット850円を注文する。同時に日替り前菜三種盛合せ 500円も頼む。左から順に淡白でフレッシュな喉越し「ブロンド」、お米の甘味とスッキリ後味「穂和香」、フルーティーな香りと風味「スノーブロンシュ」、コクのある味わい「ダーク」と飲んでいく。小生の好み的には最初の「ブロンド」がやはり一番であった。
前菜はさやえんどう豆、ムール貝のマリネ、煮昆布の三種であった。
最後に、江戸時代延宝2年(1674)に建てられた国内最古の酒蔵として国重要文化財である「旧岡田家住宅」を含む、伊丹の歴史と文化を知ることができる江戸時代の風情が漂う郷町館などの集合施設が「みやのまえ文化の郷」に寄っていくことに。伊丹の有岡城の城下町である伊丹郷町は、酒造の町として発展し、当時の伊丹郷町を形成する伊丹村は27町からなり、旧岡田家は伊丹村中心部にあたる米屋町にある。
この店舗の最初の所有者は、松屋与兵衛であったが、店舗の北に建つ酒蔵は正徳5年(1715)ごろに増築され、酒造をおこなったものと考えられている。松屋は享保7年(1722)ごろから衰退し、享保14年(1729)には酒造家鹿島屋清右衛門が松屋から酒蔵を買収しています。鹿島屋は買収後に店舗の東隣に酒蔵を増築し、伊丹の酒造最盛期には千石蔵を増築して生産を拡大するが、明治9年(1876)に廃業しました。その後、安藤家がこの酒蔵を取得して、明治33年(1900)に岡田正造に売却しました。岡田正造は翌年大規模な改造を行い、以後は昭和元年(1925)に伊丹酒類興業、昭和43年(1968)に大手柄酒造と引き継がれ、昭和59年(1984)に廃業となりました。
JR伊丹駅から阪急伊丹駅に至る道筋の有岡城跡と三軒寺前広場に囲まれたメインストリート「伊丹酒蔵通り」を歩いて帰ろうとすると「老松酒造」にであった。酒銘のいわれは、千載の齢を経ても緑を保つ松の老木にあやかって「老松」と命名されたと伝える。江戸幕府は伊丹の酒屋のうち大手24軒に帯刀を許し、幕府の「官用酒」としこれを「御免酒」と称した。「老松」はその御免酒の中でも最も格式が高く、宮中奉納酒として又将軍の御
膳酒としても名高く、その伝統の技と品質を今日まで保ち続けているとのこと。文久年間(1861~1863)赤根屋和助(武内姓)の創業にして、赤根屋利兵衛が継承せる酒銘「老松」は江戸積銘酒名寄番付に東方大関としてトップにランクされるなどその評判は高かったとのこと。
伊丹酒の仕込みには、井戸水が使われていて、「老松丹水」は、この場所で酒造りが行なわれていた当時の井戸から汲み上げているとのこと。
駅はもう少しである。
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