約400年の歴史がある富山県高岡市を開いたのは、加賀前田家2代当主の前田利長。前田利家とその妻・まつの長男として尾張国に生まれ、父・利家とともに織田信長、豊臣秀吉に仕え戦国時代を駆け抜けた武将の一人です。利家の死後、豊臣政権の五大老の職を継いで豊臣秀吉の補佐役を務めますが、慶長5年(1600)の天下分け目の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方して加賀・越中・能登の3国を合わせて計120万石の最大の外様大名が誕生しました。政変の難局を巧みに乗り越え、利長は“加賀百万石”の生みの親となりました。そんな利長が慶長6年(1601)異母弟の利常に家督を譲り隠居城として慶長14年(1609)築城したのが高岡城です。そして利常が利長の菩提を弔うために建立されたのが瑞龍寺です。加賀前田家を守り抜いた前田利長・利常の歴史と伝統に触れます。
北陸新幹線の最寄駅:新高岡駅とJR高岡駅の間にある国宝「高岡山瑞龍寺」に向かいます。加賀前田家・二代当主利長の菩提を弔うために三代当主利常によって建立された曹洞宗の禅寺で、二重の堀を持った壮大かつ豪華な大建築。約20年の歳月をかけて寛文3年(1663)に完成した江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されています。
総門は火災を免れ、正保年間(1645~1648)に建立された当時の姿を残しています。総門に立ち前方を見渡した瞬間、思わず感嘆の声が出るほどに整頓された建物、そして白い砂。清らかで歩を進め総門をくぐると、山門、仏殿、法堂がきりりと一直線に建ち並び、それらは回廊によってぐるりと結ばれ、仏殿を中心に円を描いています。禅でいう円相で、右の回廊に大庫裏、大茶堂、左の回廊に禅堂が置かれ、山門から法堂まで左右対称に配置されています。全体の構成に一分の迷いもない、身が洗われるような美しい秩序での禅宗様式の七堂伽藍です。大工棟梁は前田家に仕えて多くの名作を残した名匠といわれた山上善右衛門嘉廣です。
山門は延淳3年(1746)の火災後、文政3年(1820)に再建。当時珍しい和算を応用し、部材を精密に採寸しています。瑞龍寺は曹洞宗に寺院ですが、山号「高岡山」は黄檗宗隠元が揮毫しています。当時黄檗隠元がもたらした行事規範・大蔵経が曹洞宗に多大な影響を与えた時期だったことがあったためでしょう。※改修中
仏殿は万治2年(1659)建立。仏殿は最良材の総欅入母屋造、渋く華やぐ本瓦形鉛板葺き屋根になっていて47トンの重さがあります。瑞龍寺は高岡城の弱点の南に位置し万が一の戦時に城を守る砦としての軍事的な利用も考えられ、鉛の屋根は戦時に鉄砲の弾にしようとしたのではないかと思われます。
圧巻は内部で見上げる天井です。高さ6尺の須彌壇、創建当時の天蓋などがあります。須弥壇上には本尊の釈迦如来・脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩が安置されています。天井絵が流行した時代、山上善右衛門嘉廣は天井構造に技の粋を凝らしました。美しい曲線を描く“エビ虹梁”など複雑な組物でありながら乱れのない丹精な極上の工芸品、見えないような高さにも、獏などの彫刻が施され執念さえ感じる。ずっと見上げ続け、ふと外に目をやると広々とした境内に植えられた一面の芝から時折吹き抜ける風が気持ちいい。
法堂は明暦年間(1655~1658)施工。銅板葺き総檜造りで仏殿の2倍の広さをもち、方丈建築の中に書院建築の要素も見られます。内陣には利長の位牌が安置されています。2mほどの高さのある前田利長公の位牌がその威光を示しています。欄間彫刻は裏側も精緻に仕上がられている。
大庫裡は調理などを行うお堂。古図面から復元され、すす跡の形から、別の場所に移されていた韋駄天様もここに戻されました。
禅堂は座禅修行だけでなく、食事や睡眠の場でもある雲水の生活空間。幕末の改造で3分の1に縮小されるも、解体調査の結果、当初の姿と規模に復元されました。
七堂伽藍をつなぎ約300mの円相を描く回廊。敷居にうがかれた穴は、材木を腐りにくくするための水抜孔で、棟梁の卓越した技術とモノづくりへの執念に圧倒されます。
西南部回廊裏にある瑞龍寺石廟には、前田利長、利家、織田信長とその側室、長男信忠の五基の廟が並んでいます。前田利長公は本能寺の変後、織田信長公親子の分骨を迎えて、その霊を慰めたと伝わります。利長公の菩提寺瑞龍寺を造営した時、開山広山恕陽禅師が利長公親子も加えて同じ形式の五基を建造したのが、この石廟の由来です。廟の石材は淡緑色の凝灰石(俗称越前笏谷石)を用い壇上積の基礎の上に立つ切妻型石廟建築です。廟内の宝篋印塔は越前式の月輪装飾を施したもので、越前の国を源流とし、加越能三国に分布している。石廟は向って右から前田利長公、前田利家公、織田信長公(利長夫人王泉院の父)織田信長公側室、織田信忠公のもので、中でも利長公の壁面には二十五菩薩が刻まれています。
瑞龍寺と前田利長墓所とを東西に結ぶ参道を八丁道といい、その長さは約八町(870m)東にまっすぐ続く石畳の先にあります。114基もの石燈籠が並び、松並木と白い石畳が続きます。
石燈籠に導かれて前田利長墓所へ。3代利常が慶長19年(1614)に53才で生涯を閉じた利長の33回忌に造営されたもので、近世段階の墓域の総面積は約3万3千㎡(約1万坪)と広大で、大名個人墓所としては国内屈指の規模を誇ります。
二重の堀で囲まれた墓域の中心部には、幅15.5m、高さ5.0m(石塔上までは11.9m)の2段の石壇を築いた御廟=墳墓があり、その立面は狩野探幽下絵と伝承される130枚もの蓮華図文様が彫刻され、荘厳な印象を与えています。戸室石で全面を覆う外観は、方形土盛墳墓形式の前田家墓所とは異なるものです。また堀や土塁、石燈籠の配置等は正方形区画を意図し、初代利家墓(幅20m、高さ5.7m)を上回らない規模で築いています。武将のものとしては全国一という高さの堂々とした石塔であり、墓域も大名個人の墓として最大級といわれています。
高岡古城公園は、万葉線急患医療センター前電停から本丸橋までなら徒歩3分の距離にあります。慶長6年(1601)当主の座を退いた加賀藩2代前田利長が富山城焼失後、慶長14年(1609)に突貫工事で150日で高岡城を築きました。高岡は当時の前田家領のほぼ中心に位置するので、万が一金沢城が攻められることがあってもここが最後の砦になれると考えました。小矢部川、千保川、中田川(現庄川に挟まれた沼沢地はかつて關野と呼ばれ、城を築くのにちょうどよい小高い台地もありました。しかも背後には射水、砺波平野の穀倉地帯が控えていて、水運を使って物資の集散地として生かすこともできる。高岡こそが理想の地だと利長は考えていました。
慶長19年(1614)5月20日利長は死去し、高岡城は大阪夏の陣のあとの元和元年(1615)一国一城令により廃城となります。現在は土塁や石垣、広大で美しい水濠などが残るのみの約21万㎡の広大な城跡公園で、日本100名城に選ばれています。写真の大手口には、利長の依頼により高岡城の縄張(設計)をしたキリシタン大名・高山右近像があり、今も園内を見つめています。
城跡は現在古城公園として整備され、標高15m前後の台地(城域は土盛りして20数m)に築かれた郭や3つの堀が、築城当初のまま完全な形で残っています。総面積21万㎡で、そのうち3割が水堀で特に水堀は100%の保存率という評価も高く、国史跡にも指定されています。この城跡からわかるのは隠居後の終の住処とするにはあまりにも立派な城だということです。春はさくら名所100選に選ばれているほど桜のトンネルができ、夏は緑茂る森、秋は紅葉、冬は白銀に映える椿、濠で水遊びをする鴨など、四季折々の色彩の移り変わりを見ることができます。
また本丸の周囲に7つの郭と土橋からなる「重ね馬出」という堅固な縄張りは、当時の最強クラスだといいます。迷路のようにくねくねと曲がった道が続いたり起伏があったりと城跡ならではの楽しさがあります。二の丸から本丸に渡る土橋の両側には、築城当時の石垣が残っています。内堀側の石材は高岡から氷見の「海岸で切り出される砂岩が4割、残りは県東部で切り出される花崗岩や安山岩が用いられています。石には岩を断ち割る際にクサビを打ち込んだ「矢穴」のほか、60種類余の文様・記号を刻み込んだ「刻印」を見ることができます。
本丸跡に鎮座する「射水神社」は、古来二上山の麓にあり、霊山である二上山そのものを祀る社でしたが、明治8年(1875)に古城公園内に遷座されました。五穀豊穣、商売繁盛のご利益があるといい、奈良時代の創建といわれ、越中文化発祥にゆかりの深い守護神として古くから崇拝されてきた越中国一宮です。射水神社の祭神は、伊勢神宮に祀られる天照大神の孫神様で祖母の御名代として葦原中国に降臨された「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」です。拝殿前にある「第一鳥居」は伊勢の神宮の豊受大神宮(外宮)の御正宮の奥「板垣北御門」を特別に譲り受けて建てられた木曽檜製の神明鳥居で高さ約4.8m、幅約6.5m、間口約3.8mです。
社殿は明治35年(1902)に2年前に起きた高岡大火からの再建で、設計は明治神宮や築地本願寺の設計で著名な伊藤忠太氏、施工は16世紀から加賀藩に仕える宮大工・松井家の棟梁松井角平氏です。簡素ながらも直線美が特徴の伊勢神宮の社殿「唯一神明造」の型に基づいています。現在は銅板葺ですが、軒肘の形態からももともとは杮葺の荘重な屋根を持つ社殿だったと思われます。拝殿の堅魚木(鰹木)は4本ですが、本殿の屋根のは6本の堅魚木が載っています。外拝殿正面に掲げられている扁額は、第12代加賀藩主前田斉公の筆によるもの。
廃城後も加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、軍事拠点としての機能は密かに維持されました。これは加賀藩の越中における東の拠点であった魚津城も同様でした。街道の付け替えの際には、濠塁がそのまま残る城址を街道から見透かされるのを避けるため町家を移転して目隠しにしたといわれます。瑞龍寺や周囲に堀を備える利長の墓所自体も高岡城の南方の防衛拠点としての機能を併せ持つものとして配置されたと考えられ、徳川との万一の備えた百万石外様大名の防衛意識を垣間見ることができます。