
約400年の歴史がある富山県高岡市を開いたのは、加賀前田家2代当主の前田利長。前田利家とその妻・まつの長男として尾張国に生まれ、父・利家とともに織田信長、豊臣秀吉に仕え戦国時代を駆け抜けた武将の一人です。利家の死後、豊臣政権の五大老の職を継いで豊臣秀吉の補佐役を務めますが、慶長5年(1600)の天下分け目の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方して加賀・越中・能登の3国を合わせて計120万石の最大の外様大名が誕生しました。政変の難局を巧みに乗り越え、利長は“加賀百万石”の生みの親となりました。そんな利長が慶長6年(1601)異母弟の利常に家督を譲り隠居城として慶長14年(1609)築城したのが高岡城です。
起点となるのはJR高尾駅北口ですが、その前に南口の瑞龍寺口にある前田利長の像にご挨拶します。利長公が慶長14年(1609)9月入城した際、中国の『詩経』の「鳳凰鳴けり、かの高き岡に」という一節に因んでこの地を「高岡」と命名されました。
高岡古城公園(高岡城跡)は、JR高岡駅北口の古城公園口から北東へ徒歩15分の距離にあります。慶長6年(1601)当主の座を退いた加賀藩2代前田利長が慶長10年(1609)3月の大火により富山城を焼失後、慶長14年(1609)に突貫工事の150日で高岡城を築きました。高岡は当時の前田家領のほぼ中心に位置するので、万が一金沢城が攻められることがあってもここが最後の砦になれると考えました。小矢部川、千保川、中田川(現庄川に挟まれた沼沢地はかつて關野と呼ばれ、城を築くのにちょうどよい小高い高岡台地(標高約15m)もありました。しかも背後には射水、砺波平野の穀倉地帯が控えていて、水運を使って物資の集散地として生かすこともできる。高岡こそが理想の地だと利長は考えていました。写真は大手からの登城口
慶長19年(1614)5月20日利長は死去し、高岡城は大阪夏の陣のあとの元和元年(1615)一国一城令により廃城となります。現在は土塁や石垣、そして総面積約21.8万㎡のうち37%を占める広大で美しい水濠などが残る城跡公園で、日本100名城に選ばれています。写真の大手口には、利長の依頼により高岡城の縄張(設計)をしたキリシタン大名・高山右近像があり、今も園内を見つめています。大阪高槻城址に建つ右近像と同じ格好です。高山右近は高槻2万石に始まり明石12万石まで出世しますが、秀吉のバテレン追放令により追放され、細川忠興の助力を得て加賀藩に迎えられました。その後徳川幕府のキリシタン追放令により国外退去となり、マニラへ渡ってまもなく病没。まさに数奇多難な生涯でした。
城跡は現在古城公園として整備され、標高15m前後の台地(城域は土盛りして20数m)に築かれた縄張形式は、本丸から二の丸、鍛冶丸、明丸、三の丸、現「梅林」、現「小竹藪」という7つの郭を土橋で繋げる「連続馬出」であり、郭の周囲は幅20m~30mの内堀、枡形堀、三の丸堀の3つの堀で構成され、ともに非常に高い防御力を持っていた築城当初の郭の形状や水堀のほぼ全てが完全な形で残っています。総面積21万㎡で、そのうち3割が水堀で特に水堀は100%の保存率という評価も高く、国史跡にも指定されています。この城跡からわかるのは隠居後の終の住処とするにはあまりにも立派な城だということです。春はさくら名所100選に選ばれているほど桜のトンネルができ、夏は緑茂る森、秋は紅葉、冬は白銀に映える椿、濠で水遊びをする鴨など、四季折々の色彩の移り変わりを見ることができます。写真は小竹藪から本丸をつなげる朝陽橋で、小竹藪の西端、遊漁船の乗場付近からです。緑色の本丸に濠の水面、そして朱塗りの曲線的な欄干が非常に美しいです。
最初の郭が鍛冶丸です。大手口からの攻め手の第一関門で枡形虎口が設けられていました。二の丸から細い土塁が続き、通路を折り曲げ見通しを悪くし、攻め手の勢いをそぎます。ここには神殿風の高岡市立博物館が建ち、高岡城100名城スタンプはここで押せます。ここから本丸への土橋に残り石垣が、西内濠から見ることが出来ます。
西内濠に沿って進むと、鍛冶丸の隣に現在動物園の明丸があります。動物園内には漫画家154名が描いたカッパの「絵筆塔」あり、カッパ姿のドラえもんを探してみてください。
このあたりの郭の周囲には枡形堀(塵不濠)と呼ばれる濠が囲みます。水の流れがここに集まっているようです。枡形堀は湧き水があるとされる堀です。築城時、堀の工事を進めても水が湧かず困っていたところ、その話を聞いた能登の廻船問屋の美しい娘、お光がどうしても見たいと両親とともに高岡へ。水のないお堀に突然お光が身をおどらせたところ、一気に空が曇り、お光が飛び込んだあたりに雷が突き刺さり、地面の割れ目から水があふれ、瞬く間に水がたたえられました。そして巨大な龍が現れ水の中に消えていったという龍女伝説が枡形堀に残っています。
動物園(明丸)前の内堀沿道をさらに歩くと三の丸です。ここは大手口に対して搦手口になり、侵入した攻め手を迎え撃つ広大な郭で絵図等から今枝民部直恒(小々将衆筆頭・1500石)の屋敷があったことから、「民部丸」とも呼ばれていました。利長のお気に入りで搦手を守る郭に配置されたと考えられます。ここには通称「民部の井戸」と呼ばれる慶長14年(1609)築城当時から続く井戸が残っています。高岡城には城内で多くの人々が生活するために飲水用として数か所の井戸が掘ってあり、この井戸はその中でも最も大切ものであったらしく、その後屋形を建てて今日まで保存されてきました。井筒は直径80cm、深さ8mで、屋形の高さ5.5m、大きさ7.3mあり築城当時の姿を偲ぶ貴重なものです。
三の丸や小竹藪から本丸東郭(現梅林)を通って本丸へは、庄川の伏流水が水源とされる濠に朱色の欄干が緑に映える朝陽橋を渡ります。築城時ここには貫土橋が架かっていました。慶長期の絵図には、「半分足掛け/半分車橋」と記載があり、火災などの際は非常口として有事には車輪の付いた橋を引き込み侵入を防いだと考えられる全国的にも珍しい形式の橋でした。
城北にある小竹藪という郭は、まさに利長の隠居城としての遺構が見事に残っています。様々な種類の樹木が植えられ、内堀にある中の島には休屋「緑翠亭」もつくられ散策を楽しめるようになっています。写真は朝陽橋から内濠を見て、奥に見える東屋が内濠に浮かぶ中の島の「緑翠亭」。
迷路のようにくねくねと曲がった道が続いたり起伏があったりと城跡ならではの楽しさがあります。朝陽橋から階段を上れば本丸です。本丸広場の北端には高岡城を建てた初代加賀藩主・前田利長の騎馬銅像が立つ。これで3基めの利長公の銅像です。
本丸跡に鎮座する「射水神社」は、古来二上山の麓にあり、霊山である二上山そのものを祀る社でしたが、明治8年(1875)に古城公園内に遷座されました。五穀豊穣、商売繁盛のご利益があるといい、奈良時代の創建といわれ、越中文化発祥にゆかりの深い守護神として古くから崇拝されてきた越中国一宮です。射水神社の祭神は、伊勢神宮に祀られる天照大神の孫神様で祖母の御名代として葦原中国に降臨された「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」です。拝殿前にある「第一鳥居」は伊勢の神宮の豊受大神宮(外宮)の御正宮の奥「板垣北御門」を特別に譲り受けて建てられた木曽檜製の神明鳥居で高さ約4.8m、幅約6.5m、間口約3.8mです。
社殿は明治35年(1902)に2年前に起きた高岡大火からの再建で、設計は明治神宮や築地本願寺の設計で著名な伊藤忠太氏、施工は16世紀から加賀藩に仕える宮大工・松井家の棟梁松井角平氏です。簡素ながらも直線美が特徴の伊勢神宮の社殿「唯一神明造」の型に基づいています。現在は銅板葺ですが、軒肘の形態からももともとは杮葺の荘重な屋根を持つ社殿だったと思われます。拝殿の堅魚木(鰹木)は4本ですが、本殿の屋根のは6本の堅魚木が載っています。外拝殿正面に掲げられている扁額は、第12代加賀藩主前田斉公の筆によるもの。
二の丸から本丸に渡る土橋の両側には、築城当時の石垣が残っています。石垣の積み方は乱積みという素朴ながら堅固な方法を用いていて、本丸土橋だけで1700石以上の石垣材が使われています。内堀側の石材は雨晴海岸の義経岩や女岩周辺、虻が島、灘浦海岸などで切り出された砂岩が4割、残りは県東部で切り出される花崗岩や安山岩が用いられています。石には岩を断ち割る際にクサビを打ち込んだ「矢穴」のほか、60種類余の文様・記号を刻み込んだ「刻印」を見ることができます。
橋の下に降りることができ、そのまま北に進むと池の端濠(西外濠)に架かる本丸橋を渡り、対岸から内濠の向こうに石垣を望むことができます。(鍛冶丸から見た石垣の反対側)
本丸橋から南外濠沿いに歩いて左手に二の丸に架かる赤い橋が駐春橋でなかった橋です。高岡のシンボル高岡大仏から高岡古城公園を目指すとことらから入ることになります。二の丸は本丸へ敵勢を侵入させない要の郭で、広大な敷地に鈴木権之助の屋敷と門と隅櫓が2棟があったとされ、高い場所から鉄砲で迎撃する態勢をとっていました。鈴木権之助は、利長と正室・永姫(玉泉院)から信頼が厚く、二の丸を任せられたと考えられています。本丸の入口も大御門を通ると枡形虎口が設けられていました。
前田利長が入城して5年、慶長19年(1614)利長公は亡くなり、その翌年元和元年(1615)一国一城令により廃城となりました。しかし廃城後も加賀藩三代当主・前田利常は、水濠を埋めたてせず、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、軍事拠点としての機能は密かに維持されました。これは加賀藩の越中における東の拠点であった魚津城も同様でした。街道の付け替えの際には、濠塁がそのまま残る城址を街道から見透かされるのを避けるため町家を移転して目隠しにしたといわれます。瑞龍寺や周囲に堀を備える利長の墓所自体も高岡城の南方の防衛拠点としての機能を併せ持つものとして配置されたと考えられ、徳川との万一の備えた百万石外様大名の防衛意識を垣間見ることができます。
「堂が一直線に建ち並ぶ。富山・高岡山瑞龍寺が語る禅宗伽藍」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/18937
高岡城の廃城により、家臣団は金沢本城に引き揚げ、続いて町民たちも高岡を離れ城下町として発展しつつあった高岡はたちまち活気を失っていきました。衰退する高岡に心を痛めた加賀前田家3代利常は利長がつくったまちを存続させようと高岡の立て直しに積極的に取り組み、城下町から商業都市への転換を推進しました。
「ドラえもんトラムで行く歴史の町高岡と港町を結ぶ万葉線の旅」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/4237