伊勢国の玄関口桑名!明治維新を語る“海道の名城”跡見聞録

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三重県の北端に位置し、愛知県・岐阜県の両県に接する桑名市は、木曽三川の水郷地帯や多度山の緑など、豊かな自然に恵まれています。桑名は古来より湊町として栄えた町で、関ヶ原の合戦後慶長6年(1601)、戦国最強武将と言われた本多忠勝が近代城郭を築き、その後も歴代城主は東海道と水運を利用した町衆のための街づくりを行いました。また江戸時代には東海道五十三次42番目の宿場町・城下町として栄えた面影に出会えます。街道唯一の海路、熱田神宮のある宮宿から桑名宿までおよそ4時間の船旅となる“七里の渡し”で伊勢湾を渡り、船着き場には伊勢国の「一の鳥居」が置かれ、ここから伊勢参りは始まり、“伊勢国の東の玄関口”と称され賑わいました。

今も江戸初期に築かれた桑名城の内堀・外堀と、当時の町割りが残り、宿場町は水郷の風情です。旧東海道沿いには、品の良い割烹や料亭が連なったりする古い建物が残り、通りを行き交う旅人の姿を想い起こさせます。かといって整備された観光地のようでなく、宿場町の情緒と生活感が混在するそんな桑名の町の歴史の面影を探して散策します。

青春18きっぷを使ってローカル線で関西本線を横断です。大阪からは大和路線で奈良を経由して京都府の加茂駅へ、ここから関西本線(西日本)で三重県の亀山駅に向かいます。6:54発の亀山行きは普通列車のディーゼルカーで2両編成です。加茂駅を出るとすぐに木津川の渓谷美が広がります。この木津川右岸に、聖武天皇が平城京から遷都した「恭仁京」があったとされています。笠置駅の目の前の河原ではBBQを楽しむ姿があり、更に木津川の山間部を走ること一時間22分亀山駅に到着です。ここから関西本線名古屋行き(東海)に乗り換え、48分目的地の桑名駅に9:28到着です。

JR関西本線・近鉄名古屋線・養老鉄道線の3線が乗り入れる桑名駅から八間通りを東へ進み海蔵寺交差点を左折してまずは「六華苑」を目指します。揖斐・長良川を望む約18000㎡の広大な敷地に、ひと続きの洋館と和館、「池泉回遊式」日本庭園を配した邸宅は、山林王と呼ばれた桑名の実業家の二代目諸戸清六(1888~1969)の住居として大正2年(1913)に建てられたものです。清六はわずか24歳、鹿鳴館の設計で有名な「日本近代建築の父」と呼ばれたジョサイア・コンドルが手掛けた邸宅のひとつで、依頼した実業家ではもっとも若かったといわれます。晩年のコンドルは上流階級の邸宅建築家として「和」と「洋」の懸け橋を担っていきます。コンドル最晩年の作品としては、大正6年(1917)竣工の足尾銅山などで財を成した古河家の3代目虎之助が住んだ旧古河邸(現大谷美術館)があります。当初3階建てで計画されていた洋館の塔屋は、「揖斐川を見渡せるように」という清六の遺構で4階建てに改められたといいます。曲線が美しい4層の塔、光がたっぷり差し込むベランダやサンルームなど、優雅で繊細な造りが印象的です。和洋折衷の明治・大正期を代表する近代建築ですが、これほど大規模な和館が併設された建物は珍しいとのこと。四季折々の表情を見せる庭園と建物の調和も見事です。

桑名のNo1ロケ地になっていて、近年主な作品でも「いだてん~東京オリムピック噺~」「人間失格」「太陽は動かない-THE ECLIPSE-」「黒井戸殺し」等、時代物からサスペンスまで映画やドラマ20作品以上になります。2階のサンルームから見える庭園の景色は絵画のようです。

主人・清六は、党の最上階に客を招き、眼下に広がる雄大な揖斐川の眺めを楽しんだといいます。

(国営)木曽三川公園桑名七里の渡し公園から揖斐川沿いの住吉浦を歩いていくと住吉神社があります。桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、木材や米などの集散する自由活発な商業都市として発展してきました。ここ住吉浦は、廻船の船溜まりで、全国から多数の廻船業者が集まっていました。これらの人たちによって航海の安全を祈り、正徳5年(1715)に摂津国「住吉大社」より勧請して建立されました。神社前の石鳥居や石灯籠は江戸時代の材木商たちによって、狛犬は明治中頃に備前・備中や阿波国の廻船業者たちによって寄贈されたものです。

住吉浦の東端に「七里の渡跡」があります。桑名宿と宮宿の間は江戸時代東海道唯一の海路だったため、多くの旅人が船でこの町へやってきました。熱田・宮の渡しから海上七里(約28キロ)で桑名に着いたことから七里の渡と呼ばれていた船着き場です。七里の渡は、ちょうど伊勢国のの東の入口にあたるため、伊勢国の「一の鳥居」が天明年間(1781~1789)に建てられ、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名藩の中心として栄えました。20年に一度の式年遷宮毎に内宮宇治橋の鳥居の御用材を使い、この伊勢国一の鳥居は建て替えられます。大阪夏の陣で助け出された家康の孫・千姫と忠勝の孫・本多忠刻が出会ったのも七里の渡であったといいます。

桑名城には元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録され、そのなかでも、川口にある七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海道の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。

蟠龍とは天に昇る前のうずくまった状態の龍のことでです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられていて、蟠龍櫓についても航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物には「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚住ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。

鹿の角を象った兜をかぶり、6mもある大槍「蜻蛉切」を手にした本多忠勝銅像を仰ぎ見ながら挨拶をして桑名城本丸と二の丸跡に造られた九華公園に向かいます。関ヶ原の合戦後、慶長6年(1601)徳川四天王と言われた戦国最強武将・本多忠勝が築いた桑名城は、揖斐川を利用した水城で、かつて最大95の櫓を有する「海道の名城」と称えられました。

幕末は十五代将軍徳川慶喜、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬が幕府の中核として、政局を主導しましたが、鳥羽伏見の戦いで敗れ「朝敵」となる憂き目を見ます。抗戦か恭順か激論となりましたが無血開城となり、新政府軍は辰巳櫓を焼き開城の証としました。

辰巳櫓は桑名城本丸の東南角にあった三重櫓で、元禄14年(1701)天守閣が焼失後は、この辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在でした。なぜ現在大砲が置かれているかは由来等不詳です。

城は壊されましたが、昭和3年(1928)、元桑名藩士で造園家の小沢圭次郎が「九華公園」として整備されました。なお「九華」とはかつて「九華城」と呼ばれたことに由来します。

その手は桑名の焼き蛤」で知られる桑名といえば“蛤”。伊勢参りの前に『東海道中膝栗毛』で弥次さん喜多さんも食べたのが東海道桑名宿の名物・焼き蛤です。はまぐりを獲るのは赤須賀の漁師さんたちで漁は450年前から始まっています。美味の理由は、眼前の漁場が木曽三川(木曽・長良・揖斐)河口の汽水域なうえ、天然の干潟が広がっているからです。そのため桑名は国内有数のはまぐり生息地で、河口の赤須賀漁港がはまぐりの水揚げ基地です。お目当ての赤須賀の「はまぐりプラザ」に向かいます。

途中「赤須賀神明社」に立ち寄ります。赤須賀の地は、永禄4年(1561)に三河国市場村より移住して来た市場茂右衛門秀高とその家臣らによって開発された漁師町であり、産土神として永禄6年(1563)に三河国から移遷した神明社を祀っています。七里の渡に一番近い神明社であったことから海上安全の神社として崇敬されたといいます。

境内には昔話“生けどられた雷さま”の『雷井戸』が残っていいます。話の概要は、雷さまが調子に乗って大暴れしたところ、乗る雲をしっかりと作ってこなかったので、暴れた拍子に雲の薄いところが破れてお婆の家の井戸に真っ逆さまに落ちてしまいました。「助けてくれ」という雷さまにお婆は「人の家を何度も焼いてるくせに」と井戸に蓋をして閉じ込めてしまったといいます。「もう雷を落とさないから蓋を開けて助けてください」という雷さまに「蓋を開けてやるから何かおいてけ」というお婆に雷さまはへその佃煮を差し出したところ今まで味わったことのないおいしさでした。そこで作り方を教える代わりに井戸から出してやることにしました。お婆にはへそは手にはいらなかったので、代わりによく似た蛤の身を佃煮にさして市場で売るようになり、これが体操美味しかったので大繁盛したそうです。これが有名な桑名の時雨煮の始まりだそうです。

はまぐりプラザ」は漁業交流センターや公民館の複合施設ですが、11時半から13時半の間だけ食堂「はまかぜ」が開店します。ここでは、揖斐川を眺めながら、ふっくら柔らかい桑名産天然蛤を自分で焼いて食べられるということで、予約でしか食べれない炊き込みご飯セットの「はまぐり定食」を一週間前にTELするも売り切れで仕方なく当日食べれる「赤須賀定食」を注文します。焼き蛤3個と蛤とかぼちゃの天ぷら、サラダ、吸い物、ごはんとで2000円です。

殻には光沢と茶褐色で「ハ」の字模様があり、身はやわらかくて甘い内湾の干潟を好む「ハマグリ」種です。目の前でアルミホイルに包まれた蛤を焼くと、ぷーんと磯の香りが漂ってきてたまらない。水分が沸騰し、貝殻がパカーンと口を開けたら出来上がり、この焼け具合の確認も楽しい。弥次喜多気分で、焼きはまからいただきます。殻が開いたらふうふうして汁を吸い、肉厚でぷりぷりの大きな身を舌へ、潮の香、旨味、甘みがさざ波のように押し寄せ、濃厚な味はやっぱり国産と大満足です。

七里の渡し跡近くの料亭「日の出」は泉鏡花作『歌行燈』の舞台エリアの川口町にあり、しゃぶしゃぶ仕立ての鍋から焼きはまぐりまで、地物の神髄を堪能できます。駅に戻る途中、三の丸地内、堀川東岸の城壁は、桑名城城壁の一部で延長約500mが現存しています。積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎの二方法によっています。

中橋を渡ると青銅の鳥居が目に入ります。「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱女郎」と歌われた日本随一の青銅鳥居は神社境内から東方25mm片町通に面して立っています。寛文7年(1677)、桑名七代城主松平定重が寄進、慶長金250両を費やし、鋳物師辻内善右衛門種次に命じて建立させてもので、高さ6m90cm、笠木の長さ8m10cm、柱回り57.5cmの大きさです。この鳥居の前には初代藩主本多忠勝が慶長7年(1602)に寄進した鳥居(木造)がありましたが、承応2年(1653)に台風で倒壊したと言われています。

左脇にある「しるべいし」は「迷い児石」とも言われ、人の大勢集まる所に立てられました。同じものが多度大社の鳥居の横にもあります。自分の子どもが迷子になると、左側面「たづぬるかた」に子どもの特徴や服装などを書いた紙を貼って、心当たりのある人が右側面の「おしゆるかた」へ、子どもが居た場所などを書いて貼ります。

鳥居をくぐるとこれも立派な楼門です。天保4年(1833)松平定永によって寄進された三間一戸・重層入母屋造りの楼門で、正面左右には左大臣、右大臣、裏側には金剛力士像が安置されていましたが、昭和20年(1945)の空襲により焼失、平成7年(1995)に再建されました。

地域からは「春日さん」と呼ばれ親しまれている桑名宗社(春日神社)は、桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)を合わせて桑名宗社といい、本殿は二宇あり、拝殿を共有する構造です。拝殿の礼拝所はそれぞれ本殿に対応する形で左右に分かれていて、向拝、鈴、賽銭箱等も一組ずつ設けられていて神紋も異なります。桑名神社は古来桑名の総鎮守として桑名首(上代桑名の豪族)の祖神を祀り、中臣神社が永仁4年(1296)、奈良春日神社から春日四柱神を勧請合祀したことをきっかけに以降は春日神社と呼ばれています。

境内を東にでたところに甘味どころ「しろざけや茂三郎」があり、看板につられてかき氷をいただきます。

三重天然水の氷「美里氷室」を使用したかき氷の完熟シリーズ2種類のうち完熟パインオレンジは果物を贅沢に使った酸味と甘味のバランスが絶妙の人気のかき氷です。

更に駅方向に向かい、駅を挟んで二か寺を訪れます。八間通りに面して入口のある200mのアーケードが美しい寺町通り商店街。三と八の付く日の名物朝市には、露店が並び食べ歩きや堀出し物発見も楽しみです。入口では桑名のイメージキャラクター“ゆめはまちゃん”が迎えてくれます。衣装の三本線は木曽三川を表現しています。

近くにあるのが本多忠勝墓所の「浄土寺」です。浄土寺は永承4年(1049)に海中から出現した地蔵尊を祀ったのが始まりとされる浄土宗のお寺で、慶長の町割りで現在地に移り、忠勝が病気のため死亡し、火葬された後、浄土寺と良玄寺(千葉県大多喜)に分骨されました。

浄土寺には、「まんが日本昔ばなし」でも放映された飴で子供を育てた“幽霊飴”の伝説があり、地蔵盆の時には幽霊飴が売られます。物語は、浄土寺の門前に「飴忠」という飴屋があり、その店に毎夜一人の女の人が飴を買っていくようになりました。すると売り上げを勘定するときに銭に混じって必ず木の葉が一枚入るようになりました。主人は女の人の置いて行ったお金が木の葉に変わるのだと思い、ある夜女の人の後をつけたところ、浄土寺の墓地に消えました。翌朝、寺の住職と共に墓地に行ったところ、真新しい墓の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきたので、驚いた二人が墓を掘ると、飴を買いに来た女の人に抱かれた赤ん坊がいました。幽霊が飴で赤ん坊を育てていたので、母親を哀れんだ住職と飴忠の主人は、女の人を手厚く葬り、赤ん坊はその後すくすく育ったといいます。幽霊が買いに来たという噂で飴忠は有名となり、地蔵盆には飴に小麦粉をまぶしたものを売りこれを「幽霊飴」と呼びました。

線路を跨いで500m先にあるのが久松松平家菩提寺「照源寺」です。寛永元年(1624)、桑名藩主・松平定勝(徳川家康の異父弟)の死去の際、2代将軍徳川秀忠の命でその子松平定行が建立したお寺です。山門は寛永元年(1624)建立で棟高710cm、軒先高410cmの切妻、本瓦葺、一間一戸の四脚門、総欅造です。

定行は伊予松山へ移封しましたが、弟定綱が藩主を継ぎ、「松平定綱及び一統之墓所」には藩主ら28基の墓石があります。

東海山照源寺と山号と寺号の頭文字を取ると東照となり、これは東照大権現を祀っているからです。つまり桑名藩は御三家筆頭である尾張藩の防御、西への備えとして末代まで徳川家を支えるという忠誠を示しています。(寺門も葵の御紋で、徳川家康の位牌も安置)境内には定綱が摂津の天台宗金龍寺から分植した金龍桜があります。

桑名駅に到着。まだまだ時間のある方は養老鉄道でトコトコ揺られること13分、多度駅に降り立ち、20分歩いて多度大社に参ることをおすすめします。「お伊勢参らばお多度もかけよ お多度かけねば片参り」と謡われてきた古社。地元では「お多度さん」と慕われている神社であり、北伊勢地方の パワースポットとして名を馳せているのがここです。多度大社は、五世紀後半の雄略天皇の御代に御社殿が建てられたとされていて、それ以前においても、標高403mの多度山全体を神様として仰いでいたとされます。多度大社の御祭神である天津彦根命は、伊勢神宮の御祭神である天照大神の第3子でこの関係から、伊勢の神宮に対して、「北伊勢大神宮」とも呼ばれ、北伊勢地方の総氏神として崇められており、多くの人が伊勢神宮とセットでお参りに訪れていました。元亀3年(1572年)、織田信長の長島一行一揆の際、兵火によって御社殿をはじめ全ての御建物と御神宝・諸記録などのすべてが失われましたが、江戸時代に入り、桑名藩主本多忠勝公により莫大な寄進を受け、再興されました。於葺門をくぐると荘厳な雰囲気に包まれます。

最奥部左手に天津彦根命を祀る本宮「多度神社」があり、木々に囲まれた場所に静かに佇み、その左手には滝が流れ落ち、神聖な印象を受けます。向かい合って右手に別宮「一目連神社」があり、天津彦根命の御子神・天目一箇命を祀ります。岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造られたとあります。清らかな風と水の音、木々の香りに心が癒されます。

社殿が丹塗りも鮮やかな摂社「美御前社」は天津彦根命の妹神・市杵島姫命を祀ります。女性の守り神で参拝すると心身共に美しくなれるそうです。

神の使者である白馬が人々に幸せを運んでくるという「白馬伝説」や毎年5月の「上げ馬神事」など馬との関わりが深い神社で、境内には参拝者の幸せを運ぶ神馬がお仕えしていて”物事の成就”に御利益があるとされています。出迎えてくれるのが神馬の「錦山」号。白い馬体に、愛くるしい表情で参拝者を和ませてくれます。お守りには「うまくいく御守」と馬が9頭描かれた馬をあしらったお守りがユニークです。

※桑名では、8月第一日曜日の本楽とその前日の土曜日の試楽には30数台の祭車が鉦や太鼓を打ち鳴らす勇壮無比な祭「石取祭」が行われます。桑名南部を流れる町屋川の清らかな石を採って祭地を清めるため春日神社に石を奉納する祭です。ユネスコ無形文化遺産登録「山・鉾・屋台行事」に登録されていますのでこの時期に行くにもいいです。

 

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