“山城密集地帯”東美濃の城リレー!女城主の堅固な岩村城

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戦国時代に美濃は、斎藤道三亡き後、織田氏によって統一されますがその後、東美濃は織田氏と武田氏の勢力争いの境界として幾度の戦火に巻き込まれました。その戦いの拠点となった山城が、「岩村城」「苗木城」「美濃金山城」です。岐阜県では、全国に通用するふるさとの自慢を『岐阜の宝もの』として認定しており、「岩村城跡と岩村城下町」「苗木城跡」「美濃金山城跡」が『ひがしみのの山城』として認定されています。なかでも幾重にも山が折り重なる岐阜県東部、中央西線中津川・恵那には、見応えのある有名な山城が2つあり一日でめぐることができます。戦国浪漫に包まれた険しい地形を利用して築かれた山城や、古い歴史が今も残る城下町を旅してみます。山城には山城ならではの魅力や面白さがあり、なぜこの場所に建てられたのか、城を攻略するにはどうしたらよいのか、当時を偲ぶ石垣を見ながら思いを馳せてみます。

2城とは中津川市にある苗木遠山氏が明治維新まで居住した苗木城と恵那市にある岩村遠山氏が築いた岩村城です。遠山氏は鎌倉幕府の有力御家人であった加藤景廉が文治元年(1185)美濃国遠山荘の地頭職を与えられ、その長男遠山景朝が岩村城を本拠として遠山姓を名乗ったことに始まります。景朝の長男景村を初代とする苗木遠山氏と三男景員を当主とした岩村遠山氏、次男景重の明智遠山氏(遠山三頭)など宗家の岩村遠山家を筆頭に美濃東部で遠山七頭が繁栄、土岐氏と並ぶ美濃の名族でした。

岐阜県南部、恵那市にある岩村城へはJR中央線恵那駅から明智鉄道に乗り換え岩村駅を目指します。中央本線のかつて中山道の宿場町(大井宿)として栄えた恵那駅で列車を降り、駅舎側のホーム北側に明智鉄道のディーゼルカーが発車を待っています。岐阜県の「恵那」から明智光秀出生地とされる「明智」を結ぶ全長25kmの短いローカル線『明智鉄道』は、40分から50分かけて長閑な山村を走っています。

2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』にちなみ、明智光秀がデザインされた車両、明智行き普通列車アケチ10形で、岩村駅目指して出発です。

恵那駅を出て列車にトコトコ揺られ約30分、「岩村駅」に到着です。岩村駅は何の変哲もないローカルな駅ですが、ここには江戸時代さながらの町並みが残り、突き当りの山中に堅固な石垣に守られた城跡がそびえます。戦国時代、運命に翻弄された女城主がいた岩村城です。

岩村駅から昭和、江戸の町並みが続く岩村城下町※「ロケ地巡りも楽しみ!岩村城跡の麓に佇む江戸の町並みを歩く」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/14942を抜け、歩くこと約1.7km、平成2年に藩主邸跡に復元された太鼓櫓や表御門、御殿茶室が現れます。戦国時代に尾張の織田、甲斐の武田が覇権を争った岩村城は、かつて織田信長の伯母が女城主として君臨した悲話で知られる城。江戸時代に近世城郭として整備され、山上には苔むした石垣や豪快な六段壁が今も残ります。全国で最も高い標高717m(比高150m)に築城されたことで日本三大山城のひとつ(大和の高取城・備中の高松城)とされ、「日本100名城」にも選定されています。高低差や地形を巧みに利用した要害堅固な山城であり、内陸性で標高が高く、秋から冬にかけて霧が多いこの地方特有の気象までもが城造りに活かされ、別名「霧ヶ城」とも呼ばれていました。

また藩主邸跡は駐車場になっておりその一角に岩村藩校、知新館の正門が木製の重厚な造りなど、昔の面影をそのままに移築されています。知新館は元禄15年(1702)藩主松平乗紀によって創立され、名称は論語の『温故知新』から採っています。美濃国において最初の藩学であり、全国的にみても古く十指に入ります。創立当時の岩村藩は二万石の小藩でありながら、文教政策に重点を置き、有能な藩士の育成を図りました。江戸末期には昌平黌を中心にして日本の学問をリードした林述斎、佐藤一斎等を岩村藩から輩出しています。知新館正門に向かって左側に釈奠の間があります。釈奠とは孔子を祀ることで、知新館における聖廟であり、常に孔子の像を配し、教授は礼拝してから授業に向かったといいます。

また藩主邸跡奥には岩村町800有余年の歴史をおさめる岩村歴史資料館があります。高床式の入母屋造りで、白壁の外観が特徴。岩村城や岩村藩の関係資料など、多数収蔵展示しています。

傍らに佐藤一斎座像が立っています。「この人がいなかったら、日本の夜明けはなかったかもしれない」とまで言われる幕末の大儒学者であり日本の孔子とも云われる人物。佐藤一斎の弟子には、佐久間象山、渡辺崋山など活躍した思想家も名を連ねます。一斎が半生にわたって執筆した随想録『言志四録』は指導者のための指針の書で、西郷隆盛の終生の愛読書だったといいます。岩村城下町の家々の軒先には彼の箴言が記された木札が吊られています。

岩村城は信濃と美濃の境にある要衝であり、甲斐の武田氏や尾張の織田氏から狙われ、戦国の世を経て、更に江戸時代には岩村藩として、元禄の頃からは松平氏が藩主として治め、300年間にわたり城と城主が連綿と続き、およそ700年もの間存続したのです。現在の遺構は慶長6年(1601)、松平家乗の入封により近世城郭として整備されたもので、明治の廃城令の発令により建物は現存していませんが、雛壇状の石垣・六段壁など残された石垣の積み方や今も水を湛える井戸、門など、古の巧を現在でも確認できます。岩村城の石垣の総延長は1.7kmにも及び、使われている石の数は約4万個にもなり3種類の積み方が一度に見られるは大変貴重だそうです。

登城口から山頂の城跡まで険しい坂道を上っていきます。現在の登山ルートは、江戸時代の追手道にあたる北側の尾根道です。

まずは標高580m本丸まで700mの地点から登り始め、藤坂から先、城跡への道は木漏れ日が差す鬱蒼とした樹林の中、すり減った石畳の登城坂が続きます。不自然に手を加えることなく残された道であることがわかります。一本道には、距離や標高が記された道標や解説板が置かれているので迷うことはありません。標高600m本丸まで600mの藤坂は岩村城大手の登城道のうち、藩主邸から一の門まで続く急な坂道をいいます。岩村城創築者加藤景廉の妻・重の井が輿入れの際に、生まれ育った紀州藤城村から持参した種から育てたと伝わる、フジの大木があったことがその由来です。

一直線に登ってきた登城坂(藤坂)は初門のところで行く手を遮るように地形に沿って鈎の手に大きく左に曲がりますが、あえて一度右に曲がるヘアピンカーブとしています。敵が攻めてきた時に一気に登れないようにする工夫で、有事の際にはここに臨時の門を構えて通行を遮断するようになっていたため初門と呼んだといいます。門はありませんが岩村城最初の関門です。

藩主邸からの登城道の最初に設けられた岩村城第一の門が一の門です(標高650m本丸まで400m)。二層の櫓門で、大手一の門とも呼ばれ、城に向かって左側には単層の多門櫓が構えられ、右側の石垣上も土塀で厳重に固められていました。前面左側には石塁が張り出していて、死角から敵が近づかないように工夫されています。内側には番所が置かれていました。

一の門を過ぎると道の両側に石垣が見られるようになります。森の中にひっそり残る苔むした石垣の佇まいは幻想的ですらあります。

続いて岩村城第二の門が土岐門です(標高670m本丸まで300m)。内側は馬出状の曲輪になっていて、絵図では薬医門または四脚門として描かれています。城主遠山氏が土岐氏を破ってその居城の城門を奪いここに移築したという伝承からこの名がつきました。廃城後に徳祥寺(岩村町飯羽間)山門として移築され現存している。

藤坂からの要所に初門、一の門、土岐門といった兵士が詰める門扉の跡があり、息を切らしながら登っていくと石垣が見え始めます。きつい登りはここまでで、後は緩やかな道になります。

土岐門に続く第三の門が追手門で最初の見どころです。防衛の工夫が見られ、手前に土岐門、角馬出しがあり、大手の入口は高石垣と枡形門、三重櫓によって厳重に固められていて、追手門へ続くこの尾根で最大の前面の空堀にはL字形に架かる木橋を渡って内部に入るようになっていました。床板を畳のようにめくることができたことから通称畳橋と呼ばれ、戦闘時に外せるようになっていました。

追手門は、畳橋から棟門をくぐり直角に右に曲がって櫓門に入る枡形門です。脇には畳橋を見下ろすように三重櫓(橋櫓)が構えられていて敵を横矢で攻撃できるなど、何重にもわたる防御が考えられていました(写真右手石垣)。三重櫓は岩村城唯一の三層の櫓で天守に相当し、城下町の馬場と本通りはこの櫓を正面に見るように設定されていました。

追手門があった場所は標高680m本丸まで200m。三つの門と畳橋と三重櫓のあった戦略拠点を往時を想像して、しばし時を過ごします。追手門を過ぎると縄張りは三の丸の八幡曲輪、二の丸、本丸が続く連郭式の配置になっています。

右手の石垣に囲まれた曲輪には龍神の井があります。

追手門の先には「霧ヶ井」という井戸があります。岩村城は小高い山の頂にありながら、他の山城に比べて圧倒的に多い17箇所もの井戸があったとのこと。なかでも三の丸八幡曲輪にある霧ケ井は、城主専用の霊泉で、「巌邑府誌」という書物に、敵が攻めて来たとき、城内秘蔵の大蛇の骨をこの井戸に投じると、たちまちにして雲霧が湧き出て城を多い尽くし、城を守ったと記してあり、ゆえに岩村城は別名を「霧ヶ城」と呼ばれています。蛇骨は二の丸の宝蔵に収蔵されており、虫干しをした記録が残されている。雨の前後に忽然と霧に姿を潜め、あるいは霧を吐き出してみせる城は、女城主・織田信長・武田信玄・森蘭丸・秋山晴近など、永い歴史の中で主役を演じた人々や城普請に駆り出された名も無い多くの庶民や戦に散った兵士達の想いを優しく静かに包み込むように佇み、来訪者を古に誘い込んでくれるのです。

霧ヶ井から先、右手が岩村城最大の曲輪の二の丸で番所、役人詰所、朱印蔵、武器庫、米蔵などの施設が設けられていました。またその中心部には弁天池が配置されていました。左手は八幡曲輪へ続く道で江戸時代には家老や上級武士が住んでいました。居住性を優先して道がまっすぐに広くなっています。

八幡曲輪(標高690m本丸まで100m)には中世の城主遠山氏の氏神で始祖加藤景廉を祀る八幡神社が造営されていました。入り口に鳥居が建ち、中段には別当寺である薬師寺、最奥部に拝殿と本殿、八幡櫓がありました。棟札から永正5年(1508)には神社があったことが分かっています。明治5年(1872)に山麓の現在地へ移転しています。

しばらく行くと「六段壁」が現れますが、その途中に直線の登城道を塞ぐように菱櫓があります。山の地形に合わせて石垣を積んだので菱形になった山城特有のもので、この上にあった建物も菱形であったことから櫓櫓と呼ばれています。菱櫓は全国城郭にもその例はあまりなく中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的遺構です。

菱櫓の反対側には八幡曲輪の東面に設けられた俄坂門があったといいます。二層の櫓門が構えられ、大円寺、水晶山方面を遠望監視していました。戦国期まで400年間岩村城の大手門(正門)だったと考えられていて、この先に遠山氏の菩提寺・大円寺があり、城下町だった可能性があります。実際は裏手の門で、普段は使わないが落城等の非常口として用いられ、俄坂もその意味があります。写真は菱櫓を東から見たものです。

六段壁は本丸虎口脇の北東面に築かれた石垣が雛壇状に六段積みになったものです。元は急峻な地形に最上部のみの高石垣でしたが、崩落を防ぐため前面に補強の石垣を積むことを繰り返した結果、現在の姿になりました。石垣の城・岩村城の中でも、圧倒的な存在感で迫ってきます。

岩村城を落とすのは容易ではなく、街道が交差し交通の要衝であった岩村は、戦国時代に甲斐の武田氏と美濃の織田氏の抗争地となった時はいずれも攻城に苦労しています。なかでも「女城主」の悲劇がよく知られています。元亀3年(1572)8月遠山氏最後の岩村城主遠山景任が病没し、その夫人で織田信長の伯母「おつやの方」が、養子として迎えていた信長の五男御坊丸がまだ幼少であったことから実質的な城主として領地を治めていました。同年10月第一次岩村城の戦いで武田方の重臣・秋山虎繁(信友)との婚姻を条件に降伏、天正3年(1575)第二次岩村城の戦いでそれに激怒した信長によって半年の籠城の末に処刑されました。

本丸は上下2段の曲輪からなり、下段は東と北に長局と呼ばれる細長い曲輪が付属していました。下段から上段に入る門は三カ所あり、防御は重要視されておらず、本丸御殿の格式を整えることを重視していました。長局埋門は両側の石垣の上に多聞櫓を載せ、石垣の間に門を設けた櫓門。門の内側の細長い曲輪が長局で、入って左手の本丸に入る内枡形状の通路は東口門で、本丸の正門です。

本丸長局の東側一段下に設けられた曲輪が東曲輪で、本丸に対する外枡形的機能を持ち、二重櫓が構えられていました。正門は東曲輪側の東口門であり、石垣に導かれるように本丸へ到着します。内部中央には施設はなく、詰めの空間となっていました。

本丸には納戸櫓など二重櫓2棟、多聞櫓2棟、門が三基石垣上に構えられていました。標高717mの山頂にある本丸からは遠く御嶽山や木曽駒ケ岳、恵那山を望むことができます。本丸の周囲は数百年を経た原生林に囲まれ、朝霧、や夕霧に包まれるまさしく霧ヶ城になります。天守閣などなくても十分に歴史ロマンを感じることができます。

本丸から望む出丸に建てられた休憩所。出丸は岩村城の南西部に突出して構えられた、本丸を守る重要な曲輪でした。

本丸から下りは本丸の北側、搦手になる埋門を通ります。両側と奥の石垣の上にすっぽりとかぶさるように櫓が載せられ、石垣の間のクランクした通路には三つの扉が設けられています。門の右側には納戸櫓(二重櫓)が構えられていました。また左側の石垣は江戸初期の築城当初のものと考えられ、野面積み、切込み接、打込み接の3種類の石垣の積み方が見られる珍しい場所です。

南曲輪は外側に厚い土塀を巡らし、城兵の移動も迅速にでき、本丸防衛に重要な曲輪でした。堀切は中世に造られたものです。

岩村城は急峻な山城であるにもかかわらず、関ヶ原後も廃城になりませんでした。徳川家康は尾張の北の美濃に大きな藩を造らず、有事の後方支援のために、東美濃の岩村に譜代大名を置きました。譜代の格付けと有事の備えのために、幕府は2万石の小藩に大きな城を造らせたのです。登城道を岩村駅に向かって戻ります。

 

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