鯛茶漬けを堪能!米どころ新潟でお米の神様が住む・米山を登る

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米山は上越市と柏崎市の境に位置し、民謡の「米山甚句」や「三階節」で知れている一等三角点の秀麗な標高993mの山。その山姿の優雅さで“越後富士”とも呼ばれる霊峰で、文化元年の『日本名山図会に描かれている越後唯一の山です。古来信仰の山として開かれていて、「胞衣山」や「五輪山」とも称され、中越地方の農民、漁民にあがめ、親しまれてきました。泰澄大師の弟子「沙耶」が強欲な船主の船から積荷の米俵を五輪山の山頂に飛ばし、これを見た地元の人々が「五輪山が米の山になった、米山だ」と口々に叫んだことから山名の由来であると伝えられています。山頂にある薬師堂に祀られる米山薬師は日本三大薬師に数えられ、米山甚句に謡われる♬行こうか 詣らんしょうか 米山の薬師 一つ身のため ササ主のため ♬と米山山頂を目指します。

信越本線の柿崎、米山、青海川各駅からバスやマイカーで山頂を巡る5カ所の登山口へ行け、人気の大平コースや下牧コース、水野コース等がありますが、今回はNHKBS「にっぽん百低山」で吉田類さんが歩いた下牧コースを歩きます。北陸道柿崎ICから車で約20分、米山登山道(下牧口)にある下牧ベース993(標高208m)がスタート地点です。下牧登山口から標高993mの米山山頂を目指すベースキャンプという意味を込めて名付けられました。かつて小学校のあった駐車場は約30台と広く、宿泊施設ではありませんがトイレもあり登山の準備を整えます。下牧登山コースは山頂まで3488m、標高差785m、登り2時間30分、下り1時間30分、往復約4時間の行程です。

登山口正面の石段は、米山薬師御仮堂へと続き、登山の安全を祈願します。

お堂脇から登山道に合流し、杉林の中を通る緩やかな坂を登っていきます。

歩き始めて10分、しばらくすると少し開けた道の両側に頭に青や赤のバンダナがまかれた2体の石仏に出合えます。

杉林を抜けるとようやく登山っぽいきつい登り道になってきます。樹木の中をつづら折れの道が続き、「頑張れ岩」がさっそく励ましてくれます。「大平コース」の“ガンバレ岩”はコース後半のあるとのことですが、「下牧コース」は前半で漢字です。

スタートして20分、「水野登山口」からのコースとの合流点の休憩ポイントに着きます。標高430m、山頂まで約2.3kmのここは少し広めのスペースがあり、見晴らしの良いポイントです。山の南側に日本海が見え、上越市の町並みと山麓の田畑が広がります。

ブナ林の緩やかな道を進むとスタートから50分、駒ケ岳とよばれる地点に。標高580m、山頂までの約1.9kmに「こまのこや」というちょっとした休憩や雨宿りに良い建物があります。

勾配がきつくなりますが、こまのこやの少し先に「三十三観音」が整然と並んでいます。安置された石の彫物には「発願人」として水野村、布施・・・中村・・・の文字が読み取れるが何故、西国三十三観音なのか?は定かな言われは不明です。台座には寄進した集落名と豪農らしき氏名が読み取れる。当時「庚申講」の人々も「米山薬師」を信仰し五穀豊穣を祈願する農業の神として集落毎に信仰を篤くしました。

緑が鮮やかなブナ林の中、さらに道は険しくなりしばらくV字型にえぐられた粘土状の道が続きます。

泰澄大師の供養塔のある「水野林道コース」と合流する三俣(標高805m、山頂まで約1.0km)に到着。

泰澄大師は682年、越前国に誕生し、修行を重ねその後白山に登り山岳信仰を基に「神道・密教・道教」等を統合しました。和銅5年(712)弟子の沙弥を連れて修行行脚で当時「五輪山」と呼ばれていた米山に来た処「之、薬師如来の浄土なり」と悟り修行を重ねました。沙弥は、飛鉢の術を心得ていて、鉢崎沖を航行する船から修行するに必要最小限の米と塩を頂いていました。ある日、出羽国、上部清定が献上米を積んで京の都に向け航行していたところ、沙弥のいつものお願いを邪険に断ったことから、雁の如く船に積んであった米俵が五輪山に飛んで来ました。これが「米山」と呼ぶようになった由来です。

さらに稜線を進むと駒ケ岳から1時間、女人結界が設けられていた「女尸羅場(しらば)」に建つ「しらば避難小屋(標高810m)」に着きます。“しらば”とは戒めの場所という意味で、かつて女人堂があった場所です。米山は江戸時代女人禁制の山で、明治5年まで女性は山頂を望めるこの場所から祈りを捧げていました。今は木々の間から望める程度ですが、ここも広めのスペースがあり、休憩によい場所です。

標識に従って山頂へ進みます。一旦下り、前方の細尾根を鎖につかまりながら米山山頂目指してぐいぐい登っていいきます。

山頂近くになると階段が整備された道を進み、「あと100m」と書かれた岩に元気をもらいます。

頂上には薬師堂とログハウス風の避難小屋があり、マーガレットが咲き誇っていました。上越や頚城の山々の展望が素晴らしく、薬師堂の裏側、北側には柏崎の町が広がり、天気が良ければ遠く佐渡島や西蒲三山を望めます。

山頂にある薬師堂に祀られる越後の米山薬師は、三河の鳳来寺薬師、九州日向の法華岳薬師と並んで日本三大薬師のひとつに数えられています。薬師如来は、この世の病苦を取り除いてくれる仏様です。如来のなかで薬師如来だけが薬の入った壷を持っています。薬師様は十二神将を従えており、薬師十二神将とも呼ばれ、其の役目は薬師如来の手助けと如来を信仰する人々を守護すると言われています。

米山薬師は病気平癒だけでなく、五穀豊穣を祈る神として各地で米山薬師講が栄えました。又、海の沖合から位置を知る目的にと薬師様が明かりを灯すことで海に関係する人々からも篤く信仰を集めていた米山は、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢ふが紡いだ異空間」の構成遺産に認定されています。ここでお札とトウキの葉が配られていました。数多ある新潟の山の中でも、特に米農家に慕われてきたという米山には、トウキという薬草が自生し、この葉に虫よけの効果があることから、田んぼの近くにお札とトウキの葉を供えれば、虫が寄ってこず、田んぼに豊作をもたらすと信仰されました。江戸から昭和にかけては、田植えが終わるとお札とトウキを求めて、こぞって登ったといいます。

帰路は来た道を戻るピストン登山。お米の神様として広く信仰されてきた米山。薬師如来の御利益と虫を寄せつけない薬草の力で日本一の米どころをささえてきた霊験あらたかな山でした。米山山頂からふもとに5.4km下ったところところに位置する医王山米山寺密蔵院(米山薬師別当寺)を訪れます。裏手からは尾根伝いに下牧に抜ける米山古道ハイキングコースが整備され、緩やかな坂道を約60分歩くことができます。

奈良時代の和銅5年(712)泰澄大師の開山で、中世においても隆盛でしたが、慶長5年(1600)の上杉遺民一揆にあい破却されました。その16年後の元和2年(1616)中興開基、宥照法印が長峰城主牧野忠成ついで高田城主松平忠昌の庇護もあり再興しました。

文化14年(1817)再建の護摩堂は、江戸時代後期の御堂建築で、入母屋、銅板葺、平入、桁行4間、正面1間向拝付、組物や彫刻などに見所があり、特に堂の側面と背面を飾る中国の神仙や英雄を題材にした彫刻は雄輝、典雅を極め巧みな技法です。上越地方随一といわれます。「密蔵院護摩堂外壁装飾」として4面(1面210cm×260cm)高田万吉、又吉、重五郎、江戸淺艸茂左エ門作

さて柏崎の訪れたら食べておきたいのが各店舗の自信作「鯛茶漬け」です。柏崎から出雲崎にかけての沖合は、複雑に入り組んだ岩場のリアス式海岸でもあり、日本海でも屈指の良好な漁場として知られています。特に笠島沖は鯛の産卵場があると言われることから、天然物のマダイが豊富。柏崎の宴会の締めには鯛めしや鯛茶漬けが出されるほど身近な魚です。

柏崎で馴染みの深い鯛でご当地グルメを作ろうと、活動を始めたのが、旅館やホテル、民宿、割烹などを営むメンバーで構成された「鯛プロジェクト」。鯛茶漬けのメニュー開発を行い、2013年「全国ご当地どんぶり選手権」でグランプリを得築。柏崎を代表する名物グルメとなりました。この名物グルメを味わえる代表的お店が、日本海フィッシャーマンズケープ キーウェストにある海鮮自慢の店「福浦」なのですが、今回は安倍酒造を訪れることから、柏崎市半田にある「柏崎魚市場」の場内に2023年4月にオープンした「柏崎市場食堂 鯛乃や」で鯛茶漬けをいただきます。同店は柏崎市新花町にある「割烹いなほ」がオープンしたお店で、割烹で提供されるような「こだわりの料理」を気軽に食べられる食堂です。主にランチタイム限定のお店ですが、メニューも20種以上あり、どれにしようか悩んでしまうところですが、今回は「鯛茶漬け」一択です。

鯛めしに鯛の香り揚げといくらがのり、まずは鯛めしいただきます。やさしい鯛の旨味と風味がストレートに伝わってきます。次にいくらと一緒に鯛めしをほおばります。いくらの磯の風味と塩気が鯛めしにインパクトを与えてガツンとした味わいに。最後に岩海苔と三つ葉、わさびをのせて、鯛の骨と頭を焼いてとった出汁をかけて鯛茶漬けでいただきます。鯛の旨味全体が口の中に広がっていきます。今度は「福浦」の鯛茶漬けを食べてみたいと思います。

最後の文化元年(1804)創業の柏崎の酒蔵・阿部酒造を訪れます。6代目製造責任者・阿部裕太氏が2015年から立ち上げた新ブランド「あべ」シリーズ。この地域特有の軟水と地元産の酒米を中心に使用し、すべての酒を原酒とし、米の旨味と酸味を感じられる設計で醸しています。今最も注目の酒蔵なのです。

 

 

 

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