堂が一直線に建ち並ぶ。富山・高岡山瑞龍寺が語る禅宗伽藍

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約400年の歴史がある富山県高岡市を開いたのは、加賀前田家2代当主の前田利長。前田利家とその妻・まつの長男として尾張国に生まれ、父・利家とともに織田信長、豊臣秀吉に仕え戦国時代を駆け抜けた武将の一人です。利家の死後、豊臣政権の五大老の職を継いで豊臣秀吉の補佐役を務めますが、慶長5年(1600)の天下分け目の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方して加賀・越中・能登の3国を合わせて計120万石の最大の外様大名が誕生しました。政変の難局を巧みに乗り越え、利長は“加賀百万石”の生みの親となりました。そんな利長が慶長6年(1601)異母弟の利常に家督を譲り、そして利常が利長の菩提を弔うために建立されたのが瑞龍寺です。加賀前田家を守り抜いた前田利長・利常の歴史と伝統に触れます。

北陸新幹線の最寄駅:新高岡駅とJR高岡駅の間にある国宝「高岡山瑞龍寺」に向かいます。瑞龍寺と前田利長墓所とを東西に結ぶ参道を八丁道といい、その長さが約八町(870m)のまっすぐ続く石畳の道であることから名付けられました。参道には高岡の開祖である加賀藩2代藩主前田利長の像も置かれています。

高岡山瑞龍寺は、加賀前田家・二代当主利長の菩提を弔うために三代当主利常によって建立された曹洞宗の禅寺で、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されています。利長は高岡に築城し、この地で亡くなりました。加賀120万石を譲られた異母弟である利常は深くその恩を感じ、時の名匠山上善右衛門嘉廣を大工棟梁として七堂伽藍を完備し、広山怒陽禅師をもって開山とされました。造営は正保年間から利長公50回忌の寛文3年(1663)までの約20年の歳月を要し、当時の寺域は3万6千坪、周囲に二重の濠をめぐらし、まさに城郭を思わせる壮大かつ豪華な大建築です。名匠山上善右衛門嘉廣は、利長の代より前田家に仕えて信任厚く、禅宗様建築を良くし。近世工匠の中でも一流の域に達した名工の一人でした。この瑞龍寺の他にも、能州滝谷の妙成寺、加州那谷寺の諸堂、越中大岩日石寺、能州一之宮気多大社。加州小松の天満宮等、多くの名作を残しています。

伽藍は鎌倉時代広く我国にもたらされた中国の寺院建築を模して建立されたもので、総門・山門・仏殿・法堂がきりりと一直線に配列され、左右に禅堂と大庫裡を置き、加えて四周を回廊でぐるりと結ぶ、厳粛且つ整然たる伽藍構成です。仏殿を中心に円を描く、禅でいう円相で、右の回廊に大庫裏、鐘楼、大茶堂、左の回廊に禅堂が置かれ、山門から法堂まで左右対称に配置されています。全体の構成に一分の迷いもない、身が洗われるような美しい秩序での禅宗様式の七堂伽藍です。写真の総門前に「不許葷酒入山門」の碑が建っていますが、これはお寺のの中は清らかな場所なのでネギやニラなどの匂いの強い野菜とお酒は持ち込んではいけませという意味です。

総門は火災を免れ、正保年間(1645~1648)に建立された正面三間の薬医門形式で、当時の姿を残しています。総門に立ち前方を見渡した瞬間、思わず感嘆の声が出るほどに整頓された建物、そして白い砂。清らかで歩を進め総門をくぐります。東大の赤門はこの総門を模して作られました。「梅鉢」紋は菅原道真を祖とする前田家の家紋。いろいろなところに付いているので探してみるとおもしろい。

山門は正保2年(1645)に建立され、万治年間に場所を変えて建直す。延享3年(1746)の火災後、文政3年(1820)に再建。当時珍しい和算を応用し、部材を精密に採寸しています。左右に金剛力士像を安置し、楼上には釈迦如来、十六羅漢を祀ります。

瑞龍寺は曹洞宗の寺院ですが、山号「高岡山」は黄檗宗隠元が揮毫しています。当時黄檗隠元がもたらした行事規範・大蔵経が曹洞宗に多大な影響を与えた時期だったことがあったためでしょう。

仏殿は万治2年(1659)建立。山上善右衛門嘉廣の最も心血を注いだ力作の一つで、最良材の総欅入母屋造りです。屋根は渋く華やぐ本瓦形鉛板葺きになっていて総重量は47トンの重さがあります。これは全国においても金沢城石川門にその例をみるだけです。瑞龍寺は高岡城の弱点の南に位置し万が一の戦時に城を守る砦としての軍事的な利用も考えられ、鉛の屋根は戦時に鉄砲の弾にしようとしたのではないかと思われます。扁額「大雄殿」も隠元禅師作。ここは仏の宮殿であるという意味です。

圧巻は内部で見上げる天井です。高さ6尺の須彌壇、創建当時の天蓋などがあります。須弥壇上には中国明代の本尊・釈迦如来・脇侍に文殊菩薩と普賢菩薩、後方に達磨大師像などが安置されています。上層軒組は禅宗建築の純粋な形式であり、屋根裏には、天井絵が流行した時代、山上善右衛門嘉廣は天井構造に技の粋を凝らしました。扇垂木や美しい曲線を描く“エビ虹梁”など複雑な組物でありながら乱れのない丹精な極上の工芸品、見えないような高さにも、獏などの彫刻が施され執念さえ感じる。ずっと見上げ続け、ふと外に目をやると広々とした境内に植えられた一面の芝から時折吹き抜ける風が気持ちいい。

法堂は明暦年間(1655~1658)施工。建坪186坪、銅板葺き総檜造りで仏殿の2倍の広さをもち、説法の場であり境内第一の大建築です。構造は方丈建築の中に書院建築の要素を加味したもので、6室より成り立っています。

中央奥の内陣には二代藩主前田利長の位牌が安置されています。戒名は「瑞龍院殿聖山英賢大居士」で、印伝2mほどの高さのある前田利長公の位牌がその威光を示しています。この戒名から「瑞龍寺」の名前がつきました。中央二室の格天井には狩野安信作の『四季の百花草』が描かれていて、正面内陣の欄間には高岡の地名の由来となった鳳凰が刻まれ、その彫刻は裏側も精緻に仕上がられています。

東司(七間浄頭)は七堂伽藍の一つに数えられ、また禅堂、浴室とともに三黙道場の一つです。瑞龍寺の東司は寛文元年(1661)この場所に建てられたが、延享3年(1746)の火災で焼失し、その後まもなく再建されたと思われます。明治に入って、瑞龍寺は廃仏稀釈や加賀藩の援助停止によって経済基盤を失ったが、寺を再興するため本来東司の守護神で不浄を転じて清浄とする鳥瑟沙摩明王木像を禅堂に遷し、東司は解体されました。同時に禅堂は大改修の末に鳥瑟沙摩明王堂に改められましたが昭和60年から始まった復元修理工事によって再び禅堂に復元されました。瑞龍寺では、東司のことを七間浄頭と呼んでいます。これは便所の掃除や給水等の管理をする者を浄頭と称したことに由来し、その名の通り桁行7間、梁間4軒の規模を有していました。東司は、山門右脇手前に位置する浴室と相対してそれぞれ回廊で結ばれて両翼形をとっており、平等院鳳凰堂と同様の構成となっていました。平面は回廊取り付きの妻を入り口にして、右側に一間の四方を一室とした七つの厠を置き、左側を手洗い所としています。修理事業の伴う発掘で、七つの便槽と柱跡が確認されていています。便槽部分は長さ2m×幅70cm、深さ50cmあり、穴は側柱通りより外側へはみ出していることから、外部から汲み取る方式であったものとみられる。また、便槽の底板と側板の木片及び隅部の止め釘が出土しており、木製の便槽であったことがわかっています。

東司の守護神である鳥瑟沙摩明王木像の足元には、お釈迦様の修行の場をいたずらして汚してしまった猪頭天が明王様に叱られています。明王様はその汚物を怒りの炎で清められたことから東司の守護神といわれています。

七堂伽藍をつなぎ約300mの円相を描く回廊。窓枠の敷居にうがかれた穴は、材木を腐りにくくするための水抜孔で、棟梁の卓越した技術とモノづくりへの執念に圧倒されます。写真は大庫裡から大茶道に向かう回廊

大庫裡は調理配膳や寺務運営を行うお堂。真っ白な天井が漆喰で曲線になり防火と結露に配慮されている。古図面から復元され、すす跡の形から、別の場所に移されていた韋駄天様もここに戻されました。「韋駄天走り」とは、空を飛び釈迦の遺骨を盗んだ鬼から取り返したことから言われます。また食材を集めてくれることから台所の守護神とも言われるようになりました。

禅堂は座禅修行だけでなく、食事や睡眠の場でもある雲水の生活空間。延享3年(1746)に焼失も直ちに再建されました。幕末の改造で3分の1に縮小されるも、解体調査の結果、当初の姿と規模に復元されました。

全国で重要文化財の指定を受けている禅堂が三棟あり、京都東福寺の禅堂、京都宇治の萬福寺の禅堂と瑞龍寺の禅堂です。瑞龍寺の禅堂は古規僧堂として高く評価されています。古規僧堂では座禅をする場所(單)、法服寝具を収める棚(函櫃)、座禅のあい間に歩く廊下(経行廊)が備わっていることが大切である。瑞龍寺僧堂は凡てそれ等が整っていて、更に黄檗宗の影響が見受けられる。一、文殊菩薩(聖僧さま)の背後に来迎柱来迎壁が存在する。一、單にあがる際の踏み台(踏床)がある。又他にない特徴として、函櫃の上は明かり障子である場合が多いが壁となっている。構造として夏は涼しく冬は暖かく留意されており、採光はたそがれ時の明るさを保つよう工夫されている。

西南部回廊裏にある瑞龍寺石廟には、前田利長、利家、織田信長とその側室(正覚院)、長男信忠の五基の廟が並んでいます。前田利長公は本能寺の変後、織田信長公親子の分骨を迎えて、その霊を慰めたと伝わります。利長公の菩提寺瑞龍寺を造営した時、開山広山恕陽禅師が利長公親子も加えて同じ形式の五基を建造したのが、この石廟の由来です。廟の石材は淡緑色の凝灰石(俗称越前笏谷石)を用い壇上積の基礎の上に立つ切妻型石廟建築です。廟内の宝篋印塔は越前式の月輪装飾を施したもので、越前の国を源流とし、加越能三国に分布している。石廟は向って右から前田利長公、前田利家公、織田信長公(利長夫人王泉院は織田信長の四女永姫)、織田信長公側室(正覚院)、織田信忠公のもので、中でも利長公の壁面には二十五菩薩が刻まれています。

瑞龍寺から前田利長墓所とを東西に結ぶ参道を八丁道と呼ばれる約八町(870m)の参道を東にまっすぐ続く石畳の先に前田利長公の墓所はあります。114基もの石燈籠が並び、松並木と白い石畳が続きます。

石燈籠に導かれて前田利長墓所へ。3代利常が慶長19年(1614)に53才で生涯を閉じた利長の33回忌に造営されたもので、近世段階の墓域の総面積は約3万3千㎡(約1万坪)と広大で、大名個人墓所としては国内屈指の規模を誇ります。

二重の堀で囲まれた墓域の中心部には、幅15.5m、高さ5.0m(石塔上までは11.9m)の2段の石壇を築いた御廟=墳墓があり、その立面は狩野探幽下絵と伝承される130枚もの蓮華図文様が彫刻され、荘厳な印象を与えています。戸室石で全面を覆う外観は、方形土盛墳墓形式の前田家墓所とは異なるものです。また堀や土塁、石燈籠の配置等は正方形区画を意図し、初代利家墓(幅20m、高さ5.7m)を上回らない規模で築いています。武将のものとしては全国一という高さの堂々とした石塔であり、墓域も大名個人の墓として最大級といわれています。

前田利長公墓所をあとにしてJR高岡駅へ。南口の瑞龍寺口には八丁道に次いで2度目の前田利長の像にお目にかかれます。利長公が慶長14年(1609)9月入城した際、中国の『詩経』の「鳳凰鳴けり、かの高き岡に」という一節に因んでこの地を「高岡」と命名されました。

 

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