
越前大野は、福井と岐阜を美濃を結ぶ美濃街道の要所で、織田信長の赤母衣衆だった武将・金森長近が、安土城建設の翌年天正4年(1576)から約4年をかけ築城された越前大野城の城下町。亀山を利用し天守を構え、麓に二の丸、三の丸があり、内堀・外堀をめぐらし城を守りました。大野城は従来の城のような軍事目的ばかりでなく、政治・経済・文化の中心、城主の力を示すために建てられたのです。また長近は城下町建設の名手で、町割りは京都のような碁盤目のような格子状の町並みとし、特に水の利用を重視し、城下町に上下水路を張りめぐらしました。今でもほとんど変わらない町割りには、敵から攻められにくくする工夫やいまでも利用されている排水路、寺町風情が残る寺院が集中する一画、湧水スポットも点在し、歴史を感じるスポットが満載です。「北陸の小京都」とも呼ばれている町並みを散歩してみます。
越前大野は、城下町建設で名高い金森長近が、天正3年(1575)越前一向一揆を平定し、恩賞で賜った大野郡の3分の2を与えられ3万石の領主として築いた町並みで、江戸時代の町割りがほぼそのまま残っており、全国でも数少ない、古絵図を片手に歩ける城下町です。江戸時代の城と城下町は、同心円状または階段状に配置されるのが基本で、城の外側に武家屋敷、町人屋敷、寺町が置かれます。大野の城下町はその先駆けともいえ、城の東側に武家屋敷、町人屋敷、寺町が並びます。城下町は、碁盤の目のように区割りされ、町人町は東西・南北それぞれ6筋の通りによって区切られていて、南北の道は二番通り、三番通り、東西の道は六間通り、七間通りと数字の付く通りの名前が多いのもうなずけます。
まずは城下町を散策します。北西部に位置する標高249mの亀山に立つ越前大野城は、城下町のあちこちから仰ぎみることができます。JR越前大野駅から、城へ続く六間通りを西へ向かう。徒歩でも約6分ほどですがまちなか循環バスも走っています。駅から城までは1.5kmほど離れているため再開発されなかったのでしょう。
六間通りは市街地で一番大きく大野城の麓まで続く通り。途中、越前一向一揆で討死した朝倉式部大輔景鏡の居城、亥山城(現日吉神社境内山王公園)の前から北へ入りと城下町東広場があります。ここの観光案内所で観光情報を集めましょう。
そのまま北側の七間通り(旧美濃街道)を西へ。弥生旅館の角を右に入ると寺町通りになります。城下町の東の防御壁として形成された「寺町」は、全国でも珍しく9宗派16ヵ寺が並び、中世から近世にかけて建てられた寺院が整然と並ぶ風情ある古い町並みを今に残した寺町通りになっています。これは城下を支配しやすいように各宗派の寺院を集めたものだと言われています。大野市観光協会で御朱印帳を購入すれば、16ヵ寺の御朱印が収集できます。(1冊1000円)
お寺には様々ないわれも多く、史跡や仏像など貴重な文化財なども数多く残っています。光玖寺は戦国武将朝倉隆景の弟光玖の屋敷跡、妙典寺の境内には水をかけると微笑むお地蔵さん、奥之院には酔った男に首を落とされたが何事なかったように首がつながっていた「首つなぎ地蔵」など。寺町通りに入ってすぐの真應山圓立寺は弘治2年(1556)創建の日蓮宗の寺で、松平直良(福井藩主松平(結城)秀康の六男)の菩提寺です。
光明山善導寺は、大野市唯一の浄土宗寺院で、永禄元年(1558)建立。天和2年(1682)に大野藩主となった土井利房以降、明治維新まで続いた大野藩主土井家の菩提寺であり土井家墓所があります。
寺町通りを挟んで寺の西側にある土井家墓所には正面の自然石に「柳 涯墓」と彫られた7代・利忠の墓で、柳神社の祭神にもなっています。その手前、左側が初代利房の墓です。
寺町通りから石灯籠通りを西へ進みます。古くは石灯籠小路と呼ばれ、通りの南側に石灯籠が並び、西側には金森長近が城下町建設の測量の基点として水縄を埋め地蔵尊を祀った場所に石灯籠地蔵があります。
越前大野は、城下町のいたるところに湧く名水にふれることができる名水の町です。この地は、日本百名山の荒島岳をはじめとした1000m超の高い山々に囲まれ、河川が集まる扇状盆地です。寒暖差が激しく、冬には雪が多く降り、土壌にも恵まれています。山々から流れ込んだ豊富な雨水や雪解け水は地下に浸透し、上質なミネラルを理想的なバランスで吸収しながら大野に運ばれてきます。
大野では湧水のことを「清水(しょうず)」と呼び、城下町には湧水地が点在します。城下町を歩きながらのんびりと清水めぐりを楽しみます。石灯籠通りの突き当り、観光客用の無料休憩所、“石灯籠会館”にある石灯籠会館清水、本町通りを南へ歩き平成大野屋には芹川清水と水舟をかたどった水舟清水と巡りますが、数ある清水のなかでも訪れておきたいのが,平成の名水百選「本願清水」と名水百選「御清水」です。本願清水は、大野城の築城時にここから城下町に湧水を導いて生活用水や防火用水としたという、大野の原点ともいえる清水。御清水は、城主のご用水として使われたことから殿様清水とも呼ばれます。さっぱりした味が特徴で住民の社交の場ともなっている。
結ステーション近くには、江戸時代武家屋敷と町人屋敷の境となった用水「芹川」に合流し、百間堀に流れる芹川用水にかつて谷や川から取水した水を利用するための貯水槽だった水舟清水がある。
また水の郷百選にも選ばれるなど、古くから水に恵まれた場所です。今でも地元も人はホームポンプを設置し、地下水をくみ上げそのまま飲み水や料理、お風呂の水など生活用水として利用されています。市街地には、福井のおいしい水に認定された湧水スポットがいくつもあり、安心して地下水で喉を潤せます。軟水で口当たりの優しい地下で水温は一年を通じて約15度と一定で、夏は冷たく、寒い冬には温かく感じるとのこと。
水に恵まれた城下町らしく、酒蔵が4軒あるのも魅力です。そのうち3軒が江戸時代続く老舗の酒蔵です。越前大野は雪深く寒冷な気候で、日本名水百選に選ばれし清水があちこちに湧き出て、高品質な酒米五百万石の名産地としても名高く、まさに醸造に最適の地なのです。福井県で初めて地酒で乾杯をする条例が制定されました。七間通りの石畳に溶け込むように風情ある佇まいをみせているのが「南部酒造場」。銘酒「花垣」の醸造元で、重厚な国の登録有形文化財の建物の前には「南部酒造場」が醸造用に汲み上げている七間清水が湧出。
他に平家の優雅さを甘味に、源氏の荒武者ぶりを辛みに例えて命名された「源平酒造」は延宝元年(1673)創業。江戸時代には大野藩御用達の酒として販売していました。越前大野城のすぐ前に蔵を構える約400年の歴史をもつ福井県屈指の老舗酒造「宇野酒造場」、五番通りには全製品吟醸規格の高級酒専門蔵「真名鶴酒造」の4軒の酒蔵があります。「真名鶴酒造」の向かいには五番名水庵清水が湧出しています。写真は老舗酒造「宇野酒造場」
七間通りは春分の日から大晦日までの間、400年以上の歴史を誇る七間朝市が開かれる石畳の通り。江戸時代、参勤交代にも使われた越前と美濃を結ぶ「美濃街道」にあたり、和菓子や酒蔵、味噌蔵に醤油蔵など様々な商店が軒を連ねます。昔から最も富豪が住み、大店が並び、お城に続く大手道として栄えた通りで、町家を見上げると、隣の家との間に“しきり”があります。これは袖壁と呼ばれるもので、屋根の軒を支えるとともに長屋のように隣接した家の防犯や延焼を防ぐためのものでした。
大野城の外堀の名残である百間堀が、城と武家屋敷との境目にあたり、武家屋敷と町人屋敷は、一歩でまたげるくらいの幅しかない芹川用水を境に東西に分かれるのがユニークです。百間堀のお城側が藩庁や御殿のあった二の丸で、いまは学びの里「めいりん」の敷地になっています。この施設に使われている石垣が二の丸の石垣群です。
百間堀通り沿いには大野城外堀の土居が庭に残る旧田村家と大正時代の数寄屋風書院の離れのある旧内山家と二つの武家屋敷があります。旧田村家は大野藩の家老を務めた田村又左衛門家の屋敷を解体復元した建物です。田村又左衛門家は初代央俊が宝暦9年(1759)に本家田村家から600石のうち100石を分知され、分家したことが始まりです。2代目俊強が本家同様に大野藩の家老職を務め、天保10年(1839)には300石に加増されています。雰囲気の良い庭園には、外敵の侵入を防ぐために造られた築山もある。
この時期屋敷の式台と庭園に季節限定で設置された風車棚。150個のカラフルな風車が涼し気にクルクル回る様子は情緒があります。
家の裏手に芹川用水が流れる旧内山家。この芹川用水を境に、西側に武家屋敷、東側に町人屋敷が並びます。
幕末期に大野藩の財政再建に尽力した兄の内山良休と弟の隆佐の偉業を伝えるため、内山家の屋敷を解体復元したものです。母屋は明治15年(1882)頃の建築、離れは大正時代に建てられたもので、数寄屋風書院からの日本庭園の眺めは」美しく、、四季折々の風景を楽しむことができます。内山兄弟は藩主土井利忠による藩政改革に尽力し、成果をあげました。兄の良休は、藩の直営店「大野屋」を全国に11店舗展開し、タバコや生糸などの地場産品を販売して利益を伸ばしました。さらに面谷銅山の新鉱脈の開発を行い、藩の多額の借金を返済。こうした取り組みが認められ、藩の家老となりました。藩は江戸幕府の蝦夷地開拓募集に手をあげ、弟の隆佐は藩建造の西洋式帆船「大野丸」で領地拡大を目的に北蝦夷地へ行き、調査しました。
離れでは季節限定で夏障子を設置。西方には障子越しに庭とお城を眺めることができます。
車で来たなら越前大野城のふもとにある観光拠点「越前おおの結ステーション」で車を停めるのが便利です。大野駅からは徒歩約15分。
お城の麓、結ステーションの西にある大手門広場に、漢字の「野」のモニュメントが設置されていて、横に立って手足を広げて「大」をかたち作れば、「大野」の文字が完成です。城を背景に記念撮影ができるフォトスポットです。江戸時代、この場所には、越前大野城の大手門や外堀がありました。大手門は外堀を越えて城郭内に入る門で、敵の侵入を防ぐ重要な役割を果たしていました。また外堀は百閒堀と呼ばれていました。
この広場の湧水地の水が流れ込む新堀川は、城の外堀の役割の果たしていました。
お城への登城口は3ヵ所。旧田村家に近い北登り口は上り始めは急勾配な石段ですが静かな木陰を通る緩やかな坂道で大野城まで約20分。
北側登り口には亀山西国33カ所石仏があります。大正12年(1923)地元有志により、一番から三十三番まで北登山道入口から亀山山頂までの登山道に建立されていましたが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風により観音堂が倒壊したため、現在はこの場所に収集され上屋をかけて保存されています。
赤根川沿いの西登り口は、急で長い階段が続きます。大野城まで徒歩10分です。お城へは、景観もよく登りやすい南登り口がおすすめです。名君といわれた幕末の藩主・土井利忠公が祀られる柳廼社は、その名前も利忠の雅号「柳涯」に由来しています。明治15年に創建されました。境内には拝殿があり、入母屋、桟瓦葺の建物で趣があります。
ちなみに柳廼社参道脇に「お馬屋池」があります。越前大野城の堀の一部が残ったもので、江戸時代に池の南側に大野藩の馬場と厩舎があり、馬の飲料水や身体を洗うのに使われていたことからこの名があります。
柳廼社の脇から南登り口の城門(搦手門)をくぐり坂道を登ること徒歩約20分です。坂道が続き、何度か折れ曲がりながら進むとやや広い郭に到着します。
郭には幕末の大野藩7代藩主・土井利忠像が立っています。8歳で家督を継ぎ、大野藩主となり19歳で大野へ。藩政改革によって藩財政を立て直し、身分を問わず優秀な人材を登用するなど名君として知られます。
越前大野城の標柱
さらに最短ルートで天守へ向かう石段を登っていきます。
城下から移築された主郭城門をくぐり、
天守の隣にある初代藩主・金森長近の正室・お福にちなんだお福池を見ながら天守台へ。ぐっと本丸らしい雰囲気になります。お福は斎藤道三の娘で織田信長の正室・濃姫の姉妹という話もあります。
石段を上がった先に武具蔵跡があります。武具蔵は越前大野城を守るために必要な武器を保管していたと考えられる建物です。武具とは、鉄砲や弓、槍のほか、鎧などの具足のことをいいます。古文書などから城には、大筒なども置かれていたことがあります。この場所は、本丸を守るための武具が大切に保管されていた場所でした。
目の前に昭和43年(1968)鉄筋コンクリート造りで再建された天狗の間に復興された小天守が現れ、さらに進むと大天守になります。天守は茶色の下見板に漆喰の白が映える豊臣型の天守で、小天守と連立しながら建っています。お福池から武者登りへと連なる石垣。
織田信長の家臣・金森長近が、越前一向一揆を平定し、天正3年(1575)恩賞で賜った大野郡の3分の2の3万石を与えられ、天正4年(1576)頃から約4年をかけて築いた城です。標高約249mの亀山山頂を削って平坦にして多門塀を周囲に巡らせた本丸を造り、その南東、山麓部に段差下がりに二の丸や三の丸を持ち、内堀、外堀を巡らし城を守っている梯郭式平山城です。天守台は野面積みの石垣
越前大野は、越前と美濃を結ぶ美濃街道が通る要衝。本願寺の勢力がもっとも発展した北陸諸国と、同じく本願寺が勢力を持った美濃・三河・尾張など東海諸国を結ぶ要地でした。美濃街道は古代以来、白山修験の道で、戦国大名や一向一揆軍にとっては北陸道の裏街道として使われていました。組織化された一向一揆の再発防止、安定支配拠点としての役割を大野城は担っていました。
右手の石段は駕籠道といい、天守への御城主の緩やかな石段になっています。
天守は江戸時代の安永4年(1775)の大火で焼失、現在の天守は昭和43年(1968)に再建されたものですが、本丸周辺に累々と残るいかにも古い風情がある石垣は当時のままで、約1km離れた戌山城の城石や亀山で採石した石を使用したと伝わります。自然石を積み上げた野面積みと隅角部の未発達な算木積みという工法で造られていて大変堅固にできており、440年以上のものとされる貴重な史跡となっている。
大野城が築城された年は、信長が安土城の築城を開始した年にあたります。信長によって初めて本格的に高い石垣が導入された年と同時期であり、大野城の石垣も全国の中で先駆的といえるでしょう。天守台南西側の通路のような石段は、武士が駆け上った天守へと続く戦国時代を彷彿させる武骨な「武者登り」と言われる急な石段で、天守と連動する櫓が前面に突き出す形で建っていたであろうと想像させる。戦国時代からの姿を今に伝える貴重なものです。
当時の天守閣は、望楼型の2重3階の大天守に2重2階の小天守と天狗書院と呼ばれる付櫓が付属していました。
城主は江戸初期に松平氏、1682年から明治まで土井氏が務め、2層3階の天守館内には、第4代利貞所要の胴具足や歴代藩主の書など土井氏の貴重な遺品を鑑賞できます。
城の内部をカラフルで豪華絢爛な和柄で装飾。繁殖力の強いうさぎは、平和な時代にはお家存続が一番大事なのです。
子の階段の中にハートが5つ隠れているとのこと。探してみてください。
4階展望室からの眺めは圧巻で、城下町はもちろん、好天なら標高1523m、日本百名山の荒島岳なども見えます。越美国境をつなぐ美濃街道から九頭龍川沿いに北陸道へとつながる勝山街道へは、城下の七間通りを分岐点としています。写真右のひと際高い山が荒島岳
小天守越しに見る眺望は、見晴らしがよく、ここから眺めると大野は1000m超の高い山々に囲まれ、いくつかの河川が集まる扇状盆地なのがとくわかります。
火薬などが保管されていた本丸の北西隅の位置する「塩硝蔵跡」。塩硝とは、火薬の原料となるもので、「煙硝」と書かれることもあります。また火薬そのもののことをさす場合もあります。江戸時代、この場所に火薬などを保管する塩硝蔵という建物がありました。当時、火薬を製造するには、かなりの労力と時間が必要としたため、大変貴重なものでした。落雷や火災などで爆発する恐れがあるため厳重に保管されていました。ここから東に向かって尾根を下りていきます。写真は塩硝蔵跡から見た本丸の石垣
帰路は、天守郭から本丸に下る急な階段をおりると本丸になり、初代藩主・金森長近像と遠くに白山を眺めることができます。ここから江戸時代大野藩の侍たちが藩庁から城の本丸へ上がる唯一の道だったつづら折りの百閒坂を下り南登り口へ。金森長近は本能寺の変の後、豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586)飛騨国を与えられ、大野から飛騨高山へと移り、その地で再び城と城下町を建設しました。
百閒坂の登城は、階段が多く、昔にタイムスリップしたような感覚にさせてくれます。今の百閒坂以外の遊歩道は、明治以降に整備されたものです。ただし遊歩道を整備する際には堀に使われていた石を再利用しているため、戦国時代の石、明治の石垣職人の技は見ものです。
北登り口に一番近い櫓跡が「麻木櫓跡」です。江戸時代この場所に麻木櫓という建物7がありました。櫓とは、近世の城郭に建てられた矢や鉄砲を発射するための建物のことです。越前大野城には4棟の櫓があったようですが亀山の上に建てられた2階建ての櫓はここだけだったようです。城下を見下ろすことのできる場所にあり、城を守る上で重要な役割を持っていました。現在は休憩所となっていまsす。
大野城のある亀山は大野盆地内の独立丘陵であるため、朝霧が発生する冬季に雲海に浮かぶ日本三大天空の城(後は竹田城と備中松山城)として一躍有名になりました。撮影スポットは城の西、約1kmにある標高324mの戌山城址南出丸跡。近年木々が伐採され眺望もよくなり人気です。同山にはこの地域の要の城であった戌山城址があり、山城ファンは郭や竪堀などの遺構が楽しめます。一番登りやすいのは国道158号」の側道から登る鍬掛コース約20分。
福井といえば「越前おろしそば」。希少性の高い大野の在来種で打たれた、越前そばは必食です。地下水の味が生きるだしでいただきます。大根おろし入りのだしをかけて味わう越前おろしそばは、シンプルながら奥深い福井の郷土料理。香り高く喉ごしのよい越前のそばとさわやかな大根の辛さを味わう。おろしそばが福井に登場するのは江戸時代。関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601)、福井藩祖・結城秀康の附家老で府中(越前市)の城主となったそば好きの本多富正が、金子権左衛門というそば師を伏見から同行させたのが始まりとされています。城下の医者と相談して、大根おろしと一緒に食べるそばを工夫し自身も好んで食べたいい、これが越前おろしそばのルーツとなりました。
今回食したのは「そば処 梅林」のおもてなし膳。地元大野でも香り高いと評判の阪谷地区の在来種玄そばと名水「御清水」が織りなす香り、のどごしのよいこだわりのそばを、刻みネギ、鰹節をのせ、大根おろしがたっぷり入ったそばつゆを食べる直前にかて食べます。名物の里いももついています。
越美北線(九頭龍線)「結の故郷 越前大野」のラッピング車両