山城の“破城の美観”!奥美濃支配の拠点となった美濃金山城跡

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美濃の中央に位置し、エメラルド色の木曽川を堀にし、東山道を眼下に見る要衝にある美濃金山城は、美濃統治のための重要な城でした。尾張を統一した織田信長が、美濃を攻略する際にまずこの城をおさえたのもうなずけます。森可成から4代35年にわたって森家が城主を務めたこの城は、慶長5年(1600)森忠政(可成六男)が海津城主として信州川中島13万石へ転封後、破城となりましたが、戦国のおもかげを追いながら歩いてみます。

美濃金山城の歴史は、守護代斎藤妙椿の持是院家の系譜を継いで、可児・加茂地域を中心に権力を持った、斎藤大納言正義(妙春)が斎藤道三の命により天文6年(1537)古城山に「掻き揚げ」の城・鳥峰城を築いたのは始まりです。永禄6年(1563)、小牧山に城を築き居城とした織田信長は、永禄8年(1565)に美濃への侵攻を開始し鳥峰城を攻略。森三左衛門尉可成に金山城主7万5千石を与え美濃国攻略の足掛かりとしました。

森可成は城の名を金山城と改め、以降金山城は森家とともに戦国史にその名を刻み、森忠政が信州川中島に転封するまで、東美濃の戦略拠点、木曽川の水運の要衝として城下町とともに整備されていきました。その間、歴代城主の初代森可成は、元亀元年(1570)9月浅井・朝倉連合軍との戦い「志賀の陣」の一部、宇佐山城の戦いで戦死、(長男可隆は同年4月金ヶ崎の戦いで戦死)、2代長可(次男)は小牧・長久手の戦い戦死、3代長定(三男蘭丸)は本能寺で弟四男坊丸、五男力丸とともに戦死、最後に天正12年(1584)忠政(六男)が金山城主となります。最終的には忠政が城主の時に織豊系城郭の典型といえる特徴を備えた城郭に拡張整備され、現在の遺構に見ることができます。

まずは可児市戦国山城ミュージアムで情報収集です。可児市兼山※明暦2年(1656)に「金山」は「兼山」に変更地区に残る国史跡「美濃金山城跡」と城主森氏をはじめ市内各地の山城を紹介しています。本施設は明治18年(1885)に竣工した兼山尋常高等小学校舎で、懸け造りの3階建てという造りが学校建築として極めて稀な貴重な建物となっています。平成30年(2018)リニューアルオープンしました。

戦国山城ミュージアムでいたただいた「美濃金山城跡 案内図」をたよりに先ずは出丸を目指します。車の場合は、城戸の信号を左折し、兼山小学校前から大堀切へ。三叉路を右手にとり直進すると出丸の駐車場です。徒歩では道標を辿りながら進む。同じく城戸の信号を左折し、城戸坂を歩く事約10分、第一駐車場手前を左折し桧の道を約15分登ると出丸に到着します。

美濃金山城は、標高276mの古城山に築城され、天守、本丸を中心に、西下に二の丸、北西下に三の丸、さらに西下に出丸、東に東腰曲輪、南東に左近屋敷といった各曲輪が配されていた梯郭式山城です。現在は駐車場として機能している出丸跡には礎石建物に使用されたと考えられる川原石が点在することから、門や多門櫓のような施設があったと想定されます。南側には東西約37m、高さ3~4mの野面積みの石垣が残り、北側には石垣を築かず、南側への監視、防御を意識していたことがうかがえ、大部分が戦国末期の遺構になります。出丸跡は現在美濃金山城の遺構が確認できる南端の場所で、西から南の眺望に優れています。西は木曽川の下流方向を一望でき、南はかつて存在した明智荘西部を見渡すことができます。

出丸跡から木道を上がり三の丸へ。北・西・南方向に石垣が築かれていました。礎石から建物があったことが分かり、岩盤を加工して虎口が造られています。虎口とは城の出入口のことで、ひとが出入りすることから、敵の侵入口にもなり城の弱点ともなります。そのためこの出入口を小さくしたことから「小口」、それが転じて「虎口」と呼ばれるようになりました。写真の三の丸虎口は、虎口全体を見渡せるように、右側の曲輪は高く築かれ、左側は自然の岩盤を削って壁にしています。

ここは水の手とも呼ばれ、これより水の手門を通り、水の手へ達します。平右衛門谷と称する断崖上にあり年中清水が湧出する城中生活用水の補給場所があったという伝承があります。また麓の城下町からの登り道がここに通じていたようです。※現在通行止め

慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、忠政が兄長可の旧領であった信州川中島13万7500石へ転封となり、金山は犬山城主石川備前守光吉の領有となります。翌1601年破城となり、天守や諸櫓を一切取り壊し、解体された金山城の建材は、筏に組まれ木曽川を下り、犬山へと輸送され、犬山城の増築・修理に使われたと伝わります(金山越)。

城を故意に壊して再び城が築かれないようにすることを破城といい、破城の跡が多く残っているのも美濃金山城の特徴です。すべての石垣は、自然の石を加工せずに積む、野面積みで、石垣の裏側に排水のための裏込め石が詰められています。角は強度を増すために長方形の石を交互に積む算木積みが残っていますが、天端(一番上)と角が崩される破城の痕跡が残っています。特に三の丸跡には、崩れた石垣とともにはっきりとその痕跡が残っています。

石段を上って二の丸に入る周囲は土塁囲らしく、二の丸門、侍屋敷、物見櫓などの諸施設がありました。二の丸の南端に位置する物見櫓跡は、敵状監視の最適地です。南方にひろがる丘陵に明智光秀の居城長山城跡、西方に中山道太田宿、東方に久々利浅間山や恵那方面が一望です。二の丸から石段を北へ上り本丸へと向かう。

上った先にあるのが三方を石垣に囲まれ、桝の形(方形)に造られた大手桝形虎口で城の出入口です。桝型は、攻め寄せてきた敵の進む勢いを鈍らせ、方形の空間を設けることで、敵が侵入した場合には門を閉じて三方から一気に攻撃できるように設けられた正方形の平地です。普段は登場する武士たちへの威厳を示すためのもので、ここまで登ってきた武士はここで呼吸を整えながら、本丸へ上るための衣服などを整える場でもありました。

この虎口は右に折れており、右利きの敵兵の防御が薄くなる左側から攻撃しやすいように工夫されています。虎口の門の跡には、主柱と控柱の礎石が残っています。犬山市瑞泉寺の表門と裏門はここにあった大手門と城門を移したものと伝わります。写真は大手門跡から見たもので右手の二の門跡から本丸を目指します。

天守があったと想定される本丸は、本丸を囲む斜面に石垣がみられ、自然岩盤と石垣を組み合わせた総石垣造りだったと考えられています。発掘調査で、四棟の建物礎石と排水溝が確認され、周囲から瓦が出土したことから、居住性のある御殿のような建物があったと思われます。高石垣、建物礎石、瓦という三つの要素がセットで城用いられるのは、織田信長、豊臣秀吉やその家臣たちが造った城の特徴です。森忠政が城主であったことから、この城には天守も存在したと想定されてています。写真は本丸跡に立つ石碑

本丸跡から眼下を一望。美濃金山城の北側を流れる木曽川は、物流や交通に利用されました。城下町周辺には木曽川に面した「兼山湊」の跡が残っています。室町時代末期(1530)頃から記録に登場し、木曽川を使った木材の輸送や森家の軍事的要衝として利用されるにとどまらず、城下町経営のため、経済・交通手段の拠点にもなりました。永禄11年(1568)織田信長が京都へ上洛の際、京都御所修築用木材を木曽から馬荷駄で運び、兼山湊で船積みしたといわれていています。

南側にある本丸虎口正面の石垣沿いには、4つの柱の土台石である礎石が確認されていています。このことは、石垣沿い、もしくは石垣よりもはみ出して、虎口全体を覆うような建物があったと想像させます。石垣には等間隔で縦置きした石も配置され、入って来る人に見せる石垣であったことをうかがわせます。

本丸虎口を東側に出て搦手門へ回ります。井戸跡があったといわれる東腰曲輪があります。

東腰曲輪は搦手の最終防御線で土塀や侍屋敷の礎石があります。上に本丸が見える曲輪で、破城の際に捨てられた石材や石組みなどが見つかっています。

搦手の左近屋敷から東腰曲輪へ入る重要な門で丸石はその礎石です。東の搦手側は森氏の重臣細野左近に由来する曲輪があるだけです。

本丸虎口へ戻り南腰曲輪を通って二の丸方向に戻ります。石垣沿いの歩道は下りに通るとよい。

戻る途中にある天守台西南隅石。長形の角石を交互に組合せ算木積にしたものでこれによりいっそう堅固になっています。

出丸駐車場への道路の入口にある大堀切は、南北約50m、幅約4~7m、高さ約10m。搦手左近屋敷の防御施設で峰を切り開いたものです。

『岐阜の宝もの』として認定されている東美濃の山城は、可児市の美濃金山城跡以外にも恵那市の岩村城跡と中津川市の苗木城跡があります。これら3城は、県下を代表する山城でありとともに、日本100名城・続日本100名城に選定されています。         「“山城密集地帯”東美濃の城リレー!岩盤と石垣の絶景苗木城」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/14910         「“山城密集地帯”東美濃の城リレー!女城主の堅固な岩村城」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/15097

 

 

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