
時代や武器の変化によって城郭の形は変化していきました。古代の環濠集落から中世の土塁や空堀で造る中世城郭、そして鉄砲の伝来により堀の幅も広くなりました。戦国時代末期から江戸時代初期にかけて盛んに造られた石垣や天守を持つ近世城郭も太平の世には無用の長物に。そして江戸時代後期頃から、日本の城郭建築に劇的な変化が生まれます。日本に来航する外国船の出現です。幕末になると、各地の沿岸に大砲の時代に合わせて「台場」が築かれ、その姿を良好に残している北海道函館の名所「五稜郭」を訪れます。
五稜郭は安政元年(1854)の日米和親条約により箱館と伊豆の下田が開港されたことに伴い、幕府はそれまで松前藩領だった箱館を幕府の直轄地とし、箱館奉行所の防衛を目的に土塁・五稜郭が造られました。設計は箱館奉行所諸術調所教授役で庵学者の武田斐三郎が箱館に入港していたフランスの軍艦から得たヨーロッパ・フランスの城塞都市の情報を基に5つの稜堡が特徴的な日本初の西洋式の土塁を考案しました。大砲などの重火器に対応するためにヨーロッパで普及していた星形五角形の形状から五稜郭と呼ばれるようになりました。星形稜堡は、先が尖った形の張出を連続させて星形に造ることで、隣の稜堡からの攻撃の死角がなくなり、敵がどの城壁に取り付いても、側面攻撃ができるようになっています。安政4年(1857)に着工され、7年後の元治元年(1864)に完成し、幕府の外務省にあたる箱館山山麓にあった奉行所が移転し明治元年(1868)に新政府により箱館府が置かれました。
本来の目的とは異なり、戊辰戦争という内紛の激戦地として歴史に名を刻むことになりました。明治元年(1864)10月旧幕府艦隊の榎本武揚や元新選組副長土方歳三らが率いる旧幕府軍が城を占拠し(箱館戦争)、蝦夷共和国の拠点となりました。翌明治2年(1865)新政府は追討軍を派遣し、同年5月18日降伏。開城しました。およそ1年半に渡る戊辰戦争は五稜郭が最後の舞台となりました。
全景を眺めるため五稜郭タワーから先ずは一望したい。平成18年に新しくなったタワー高さ107mのタワーからの絶景が楽しめる展望室からは、広さ約25万㎡の日本初の星型の西洋城塞の全景を一望できその星型が把握できます。
写真の五稜郭下方に大手虎口と三角形の馬出しが確認できます。五稜郭は星型の頂点の部分に稜堡というスペースを5つ並べて、石垣、水堀、土塁で囲む稜堡式という形式です。正面にあたる星形の凹みの部分に、半月堡(馬出)という堡塁が設けられています。半月堡は最初の設計図では5カ所建設される予定でしたが。実際には1カ所しかありません。
お城を見て歩きます。函館市街地のほび中央に築かれ、水堀で守られた城の堀の内側は約12万㎡で、水堀の幅は最大薬30m、深さは4~5m、外周約1.8kmあり南西側に表門が位置します。
表門の前には三角形に「半月堡」が付いています。これは表門の防御を強化するためのもので、日本式の城郭で中世以来使われている「馬出」と同様のものです。当初の設計では各稜堡間の5カ所に配置する予定でしたが、工事規模の縮小などから実際には1カ所だけに造られました。北側中央部の土坂が開口部となっているほか、刎ね出しのある石垣で囲まれています。石垣上部に張り出して見える「刎ね出し」は、武者返し」・忍び返しとも呼ばれ、上から2段目の石が迫り出して積まれているため、外部からの敵の侵入を防ぐ構造になっています。
五稜郭の土塁は、掘割からの揚げ土を運んだもので、土を層状に突き固める版築という工法で造らています。築城する際の予算書には「亀田御役所土塁」とあるように、当初は土を盛って造る「土塁」の予定だったのですが、地質と北海道の寒さから土塁が崩れる心配があって石垣で築かれました。外側に石垣を積み、その上に土塁を設け、周囲を水堀が囲んでいます。写真は本塁と水堀の間にある幅約10m、高さ2mの低塁と呼ばれる土塁です。
五稜郭を形作る土塁は「本塁」といい、幅27mから30m、高さ約5mから7mで、郭内への出入口となる3ヵ所や通路となるところは、一部が石垣造りとなっています。この特に正面の出入口となる南西部の本塁石垣は、他の場所の石垣よりも高く築かれていて、上部には「刎ね出し」と呼ばれる防御のための迫り出しがあります。石垣には函館山麓の立待岬から切り出した安山岩や五稜郭北方の山の石が使われています。
また五稜郭内の出入口にあたる所には、外から五稜郭の中の様子を見えなくするための土塁の「見隠塁」があります。これら3ヵ所の出入口の正面と左右の両面に石垣が積まれ、大きさは長さ約44m、幅約14m、高さ約4mと3ヵ所ともほとんど同じような形です。
重火器による近代戦では、天守のような高層の建物は単なる標的になってしまいます。箱館奉行所は、文久2年に建築工事が開始され、マツ・スギ・ヒバなどの建築材木は能代で加工され、船で函館に運ばれて組み立てられました。元治元年(1864)に奉行所庁舎が完成し、同年6月には箱館山麓から奉行所が移転して蝦夷地における政治的中心となりました。
五稜郭に平成22年(2010)7月に復元された激動の歴史の舞台・箱館奉行所は、明治4年(1871)開拓使本庁舎の札幌移転に伴い解体された奉行所を発掘調査と古文書等で徹底的に分析を行い、屋根瓦の枚数まで当時のままの姿に復元されました。式台のある大名屋敷のような建造物で、屋根の上には櫓がのった個性的な外観です。箱館戦争ではこの太鼓楼が目印となって大砲の照準距離を計算され、新政府軍の艦砲射撃の的となりました。
箱館奉行所は、安政2年(1855)の開港に深く関わった場所で、今の外務省、財務省に役割も担っていました。4年の歳月をかけて甦った建物は、細部にいたるまで見る者を圧倒する壮麗さです。内部は襖を開け放つと72畳の広さになる大広間、奉行の執務室だった表座敷、太鼓櫓を見上げる中庭などが再現され、江戸幕府の蝦夷地統治から箱館戦争までの貴重な資料も展示され、歴史の潮流を感じることができます。
明治2年(1869)には新政府軍が榎本武揚率いる旧幕府軍を一掃した箱館戦争の舞台となり、旧幕府軍に加わった新選組副長、土方歳三もこの戦いで35歳の人生の幕を下ろしました。
戦争終結後、新政府は「箱館」を「函館」と改め、戦いの舞台となった城郭跡は、大正3年(1914)に公園として一般に公開され、公園内には往時を語る2門の大砲が現存する築城時の建物「兵糧庫」前に佇む。写真左クルップ砲は全長2m85cm、重量約1000kg、射程距離約3000m(推定)でドイツクルップ社製造。旧幕府軍軍艦蟠龍に撃沈された新政府軍軍艦朝陽の艦載砲と思われます。右ブラッケリー砲は全長2m55cm、重量約2500kg、射程距離薬1000m(推定)でイギリスオードナンス社製造。旧幕府軍が湾内攻撃のため、築島台場に設置したものと思われます。
函館にはミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで星付の評価を得たスポットが21ヶ所ありますが、五稜郭は二つ星の評価を得ています。