
兵庫県南西部に位置するたつの市は、姫路市から西に約13kmの地点に位置する小さな城下町。ここには、戦国時代初期、戦国武将赤松村秀が築いた鶏籠山山頂付近にあち龍野古城跡と、後にその麓に築かれた平山城の龍野城跡があります。龍野は揖保川を介した水運や、山陽道・因幡街道にほど近いという立地から、古くから交通の要衝として栄えました。江戸時代には龍野藩5万3千石の城下町としてにぎわい、今でも武家屋敷や白壁土蔵にその名残を感じられます。またうすくち醤油発祥の地であり、醤油蔵が建ち並ぶ姿も龍野の昔ながらの風景として親しまれています。藩の恩恵を受けて根付いたうすくち醤油やそうめんの歴史に触れながら播磨の小京都を探訪します。
JR姫路駅で姫新線のワンマン列車に乗り換えて20分ほど、時に木立の間を縫い、時に田畑の中を走ってきた列車がトンネルを抜けたと思うと、一気に山と川に抱かれた人里の眺めが広がり、本竜野駅で下車。駅前には童謡『赤とんぼ』を象徴するモニュメントと母子像が建つ。ここは童謡赤とんぼの作詞者・三木露風の生まれた町です。
JR本竜野駅から西に向かって歩くと、豊かな水をたたえた揖保川にぶつかる。眼前には龍野古城のある鶏籠山(写真右の独立峰)がそびえ、橋を渡った先に広がるのが、龍野のかつての城下町です。町を取り囲む山と川に守られているかのように、昔と変わらぬ風景を留めています。
町歩きの手始めに龍野城を目指します。下川原商店街には風情ある民家や商店がならびます。どの道も奥が見通せないように造られているのが龍野城下町の特徴です。2019年、東西約560m、南北約850mにわたるエリアが重要伝統的建造物群保存地区に選定され、旅好きから一目置かれる播磨の小京都です。
路地のちょうど角にあるから「かどめ」と名付けられたかどめふれあい館を曲がります。明治後期に建てられた町家を改装した建物は金属の丸格子や黒塗り壁などが特徴的。
駅から歩く事約25分、龍野城に到着です。江戸時代の寛文12年(1672)に脇坂安政が信州飯田から入部した際には城、侍屋敷も壊されており「城郭の地ことごとく土人の田畑となるありさま」でした。時代は既に太平の世でもあり、山頂から山麓に機能を移し、現在の位置に御殿式の龍野城が整備され、以来明治まで10代200年間龍野を治めました。安政は、時の老中堀田正盛の次男であり、弟堀田正俊が大老の時、外様から願譜代に転じています。埋門まで直線の大手道ですが、本来は西にずれてくい違いになっていて、冠木門もありました。
明治4年(1871)の廃藩置県により、龍野城の建物は取り壊されましたが、脇坂家は昭和28年(1953)ごろまで龍野に住み続けました。大手門から冠木門に至る中間には裁判所が建てられ、現在の遺構は石垣のみですが、昭和50年(1975)から5年がかりで昔の絵図を元に隅櫓、本丸御殿、埋門、土塀、しころ坂門などが復元されています。霞城の異名を持つ龍野城。再現されたお城もしっくり周囲に溶け込んでいます。かつて幕府の老中として辣腕をふるった自藩の殿様を、「五万石でも脇坂様は花のお江戸で知恵袋」と謳った龍野の人々の誇らしい笑顔が城壁や門の陰に見え隠れするようです。
本丸へ通じる入口となっている埋門は本丸の南側にあり、重厚な造りが印象的。埋門は復元された櫓門で、右手に櫓が連続する形となっていて、隅部が綺麗な算木積みとなっている石垣の間の櫓門は堂々としていて迫力があります。
埋門を通ると左に折れるようになっていて虎口を形成し、横矢掛かかりが意識されています。
本丸南東には龍野歴史文化資料館があり、龍野が古代より山陽道・美作道が走り、中世には筑紫大道、近世には揖保川の水運により常に交通の要衝の地として栄えてきたことから、多くの文物が残されています。特に龍野城が築城された資料が多数あります。
南東隅には多門櫓で郭を囲んでいます。
本丸御殿は昭和54年(1979)に復元されたもので、龍野藩の政庁でもあり、藩主の住まいの役割も果たしていたと思われます。御殿の玄関は、藩祖脇坂安治が建立した京都妙心寺隣華院の玄関を参考にしたと言われています。
建物の間には中庭が設けられ、奥には上段の間、下段の間が設けられていて、城郭の雰囲気を感じることができます。
眼前に広がる甍の屋根、白壁とレンガ造りの煙突。美しき龍野城下町の礎を築いたのが歴代の龍野城主であり、今もこの町の象徴となっているお城です。
本丸南西に立つ隅櫓はかなりコンパクトで内部に入ることはできません。
本丸の西側の門が搦手に位置する錣(しころ)坂門で、切妻屋根本瓦葺の高麗門形式の門です。
錣(しころ)坂門を出て武者兜の錣に似た「しころ坂」から見る隅櫓は絶好の撮影スポット。本丸の南西に隅櫓が建てられていて、石垣や土塀が連なる様子は城郭そのもの雰囲気があり、龍野城を代表する名所です。
しころ坂を南に少し下ったところに家老門があります。家老門の建つ場所は、江戸時代の絵図によると脇坂久五郎屋敷地となっており、この門は家老屋敷の門と伝わります。高さは4.9m、屋根幅約5.4mあり、主柱と控柱の4本からなっており、大きな切妻屋根を載せた薬医門形式となっています。主柱の上に渡された幅広の冠木は縦に置き、重みのある門の姿を強調し、龍野城の貴重な建築物となっています。
龍野古城へは本丸御殿を回り込んだところから傍目にも勾配のきつさがうかがえる大手道跡があり、そこから険しい山道を約30分登っていきます。この道を歩くだけで戦国時代の生き残りをかけた戦いの厳しさを感じることができます。龍野古城は、別名朝霞城といい、標高211mの鶏籠山の山頂に明応4年(1499)に西播八郡の守護代を務めた赤松村秀によって築城されたのが始まりとされています。4代続きましたが、天正5年(1577)に羽柴秀吉の播磨侵攻によって開城になり、その後は蜂須賀正勝、福島正則ら、秀吉一門の武将が入り、その間に城が改修され、現在見られる城の構造や石垣などが作り替えられました。しかしながら万治元年(1658)京極氏が丸亀に転封となると破却されました。
山頂からは西側に下る別ルートで下山。紅葉谷と呼ばれる 呼ばれる緩やかな坂を行けば、聚遠亭などが立つ龍野公園にでます。
貴重な茶室や屋敷が脇坂家の栄華を示す聚遠亭は、ここから淡路島や瀬戸内の島々を眺めることができ、その眺望の素晴らしさから脇坂家の上屋敷跡一帯を「聚遠の門」と呼ばれ、茶室も聚遠亭と称されています。心字池に浮かぶように立つ茶室(浮堂)は、安政年間9代城主脇坂安宅が京都所司代の職にあって御所が炎上したとき、その復興に功績があったとして、孝明天皇から拝領し移築されたと伝わる書院造りを模した風雅な数寄屋風の建物となっています。池に突き出した浮御堂風の外観が庭園、池、杉垣などとよく調和しています。隣接しているのが、裏千家鵬雲斎千宗室家元に「楽庵」と命名された茶室です。
御涼所(別館)は、江戸時代中期に建てられた龍野藩主脇坂家の武家屋敷です。質素のなかにも風雅な趣があり、接客や居住部門などの間取りに特徴があります。また戦乱時に備えた床下の抜け穴等にも当時の面影があります。縁側から見た日本庭園に心が癒されます。
裏門が切り取る絵画を見るような裏庭の一画。
さらに石段を上がった先には、文久2年(1862)、龍野藩9代藩主脇坂安宅が、藩祖脇坂陣内安治を祭神として祀った龍野神社が建つ。脇坂家初代の安治は豊臣秀吉の配下として、柴田勝家と覇権を争った合戦で賤ケ岳七本槍の一人として活躍した武将です。社宝の貂の皮製槍ざやは安治が丹波の鬼といわれた赤井氏を攻めたときの功によって譲られたとされています。
龍野神社境内横から近畿自然歩道の坂道を登ること15分、神代の昔、相撲の元祖であり、殉死の代わりに埴輪を考案したことで知られる野見宿禰を祀る野見宿禰神社があります。横穴式石室をもつ直径約20mの円墳の上に祠が建てられています。朝廷のあった大和国から故郷の出雲国へ帰る途中この地で病死した宿禰の死を悲しみ、出雲から多くの人が来て揖保川からリレー式に手渡しで石を運び墓を建てたと伝わります。野に人が建ち並んだことから「野に立つ人」「立野」といい、いつしか「龍野」になったそうです。この伝説は、龍野が古代から文化の先端地と深く結ばれていたことを物語っています。石の扉の紋章は野見宿禰と関わりのある出雲大社千家の家紋です。(野見宿禰は出雲国造家の13代当主と伝えらえています)
文学の小径から町の中心地に向かいます。途中耐久性の高い焼き板の外壁が連なっている武家屋敷資料館に立ち寄る。母屋は天保8年(1837)頃築とされ、寛政10年(1798)の絵図によると、鉄砲師の家系の屋敷だったといいます。表玄関にしつらえた式台や低い天井、控の間から接客用の座敷に至る構造に、格式を重んじた武家屋敷の特徴が表れています。
日本初の醤油博物館として昭和54年(1979)に開館したうすくち龍野醤油資料館は、ヒガシマル醤油の本社として建てられた木造造りながら外観はレンガ造り風のルネッサンス様式建物が印象的でガラス窓が美しいアーチを描いています。江戸時代からの醤油醸造用具や資料など計2415点を展示。建物は、昭和初期に菊一醤油によって建てられ、昭和17年(1942)に浅井醤油と合併して龍野醤油(後にヒガシマル醤油に社名変更)となり、その本社として使われていました。
龍野醤油醸造の始まりは、戦国時代の天正15年(1587)と伝えられ、寛文年間(1661~1673)頃にうすくち醤油が考案されたといいます。揖保川の伏流水は水量豊富なうえに鉄分の少ない軟水で、色の薄い醤油造りに適していたこと、播磨平野が育んだ播州小麦や近隣で獲れる三日月大豆、赤穗塩などの良質な原料に恵まれていたことが、うすくち醤油造りが盛んな大きな理由だったそうです。
“うすくち”の名は味の薄さではなく、色の淡さが由来。秘訣は原料づくりにあり、小麦の炒り加減は狐色になるよう、大豆は短時間で浅く蒸し、諸味の攪拌も過度にせず粘りを抑える。濃口よりも塩分は多めですが、調理時に塩が控えめになり、実は体に優しいのです。藩の保護もあって発展した龍野の醤油樽が、高瀬舟で次々と揖保川を下っていったのです。資料館の東側の基地を北にたどれば、趣のある白壁の古い醤油蔵が数多く残り、歩いているだけでも楽しい。
疲れたら築100年の醤油蔵をスタイリッシュに改装したクラテラスたつののカフェでひと息。地元産の醤油や麹を用いたランチメニューや醸造をテーマにしたスイーツなど、地元の文化も伝えようと考案された料理が味わえます。併設されたアンテナショップでは、市内各地のお土産も揃っています。播州素麺揖保乃糸はもちろん、醤油三大銘醸のひとつであり、淡口醤油発祥の地である龍野で創業明治12年以来醤油づくりをつづけている末廣醤油の龍野淡紫 濃紫(さしみ醤油) 薫紫(スモーク醤油)は最適です。東京の百貨店で「日本一おいしいかけ醤油」と称され、日本テレビ「鉄腕!DUSH!」の究極ラーメン作りでスープのベースに使われて話題になった淡紫、卵かけごはんに最適の濃紫、ローストビーフのお店から頼まれて造られた薫紫はステーキやベーコンなどの肉に合います。
隣接して大正期に建てられた旧龍野醤油醸造同業組合の事務所が大正ロマン館としてリニーアル。明治13年(1880)に組合員27名で発足した龍野醤油醸造組合は、醤油産業発展の礎を築き、その後大正12年に龍野醤油醸造同業組合に改称、同年から建設に着手された組合事務所は、大正時代の雰囲気を感じられるモダンな洋館で龍野のランドマークとなっています。
醤油と並び、龍野のもう一つにの名物が播州手延べそうめん揖保乃糸です。そうめんの原型は遣唐使によって唐から持ち帰られた策餅という菓子で、播州のそうめんづくりは、約600年前の室町時代から始まりました。江戸時代の中頃、龍野藩が許可業種として奨励しまし、農閑期の冬の副業としてそうめんづくりが根付いたとのことです。そんなそうめんを味わうために、そうめん処霞亭ののれんをくぐります。
木を基調にした落ち着いた雰囲気の店内でいただくのがミシュランガイド兵庫にも掲載された看板メニューの霞亭にゅうめん1100円。麺は地元特産で質の高い揖保乃糸のなかでも、一年熟成させたコシの強い「いぼの古(ひね)」を使用。茹でた揖保乃糸の上に甘く煮た地元綾部産の「玉英」の大玉の梅干しや椎茸、錦糸玉子、かまぼこ、焼き穴子、湯葉など8種の具がのります。うすくち醤油と昆布、いりこ、タイのあらの特性出汁のやさしい味が、ホッと体を癒してくれます。
霞亭から徒歩数分のところに「三木露風生家」があります。童謡『赤とんぼ』の作詞者と知られる三木露風が6歳まで両親と弟、家族4人で過ごした場所。漆喰塗りの土塀、和瓦葺きの屋根など、昔ながらの町並みが残されています。
如来寺は松龍山如来寺といい、元は嘉吉元年(1441)播磨・備前・美作の守護・赤松満祐が室町幕府第6代将軍足利義教を殺害した嘉吉の乱の後焼失した神岡郷大義寺の本尊「阿弥陀如来像」が兵火を逃れ、当山の開基である賢正上人に託されたことに始まり、天文2年(1533)内山城主塩津新左エ門等によって龍野の地に開かれた寺院です。その後寛文12年(1672)龍野藩藩主である脇坂家の菩提寺として、現在も藩主・家中の位牌を安置しています。また三木露風の三木家菩提寺でもあり、三木露風の歌碑や筆塚等見応え充分です。
如来寺横を流れる浦川沿いの道は、鶏籠山そして龍野城を借景に、水路に沿って建つ白壁など播磨の小京都の風情を残して、龍野ロケに多用されています。江戸時代、幕府と太いパイプでつながった脇坂氏が藩主となり、またうすくち醤油という特産物を介して、京都・大阪との人の行き来も盛んになりました。そして江戸や上方との交流を通じ地域の文化も磨かれていったことが龍野が播州の小京都と呼ばれる所以です。
次回は春の満開の桜に酔うか夕焼けの美しい秋の日に赤とんぼの群れに出会えることを楽しみに姫路駅の名物駅弁まねき食品の「但馬牛 牛めし」を買って帰路につきます。おわずと知れた兵庫が誇るブランド牛「但馬牛」を関西のすき焼き風に甘辛く煮付けています。赤身と脂身のバランスがよく、みずみずしさと甘味が特徴の淡路産たまねぎも添えたベストセラー駅弁です。