難攻不落の越後の名城!上杉謙信の居城・春日山城ハイキング

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生涯で70数回合戦に赴き、敗れたのはわずか2回だけと、その強さから“軍神”と恐れられた越後国の戦国大名・上杉謙信が、生まれてから没するまで過ごした春日山には、日本100名城にも数えられる天下の名城・春日山城跡をはじめ謙信ゆかりの史跡が数多く残されています。謙信が本拠地としていたのが上越市にそびえる春日山城で、幼少期からここで過ごした謙信は天文17年(1548)に城主となると“天下の名城”と称えられるほど堅固な城に改修しました。彼の居城を中心に、周辺にあるゆかりの社寺を訪ねます。

別名“蜂ヶ峰城”とも呼ばれる春日山城は、築城時期や築城者は不明ですが、謙信の父越後守護代・長尾為景が本格的な城へと改修し、天文17年(1548)に春日山城主となった謙信が大規模に拡張・整備して完成させました。頚城平野の西縁に接する、標高約182mの蜂ヶ峰(春日山)山頂に築かれた山城は、山頂に本丸を置き、東西、南北ともに約2.5km四方で、険しい尾根や斜面を削り、大小200ヶ所以上の削平地を階段状に連結し、自然地形を巧みに利用し、数十ヶ所の堀切や土塁で山裾まで連続する屋敷跡の郭を構築しています。裾野には総延長1.2kmにもおよぶ堀と土塁の惣構えが巡らされた全山を要塞化した大城郭です。

当時西国で主流であった石垣を一切使わず、自然の地形を巧みに利用して築いた強固な土塁や空堀などが配された城は難攻不落の城でした。今も多くの郭(曲輪)や堀切をはじめ、空堀や土塁などが当時のままの姿で残り、国の史跡にも指定されている大規模な山城です。また天守閣をもたず、春日山周辺の峰々に東城塞や番屋口砦といったいくつもの砦や支城を築いて、より大きな城としての機能を持たせていました。こうした城の造りは戦国時代の山城としての特徴をよく表しています。

まずは春日山城の歴史をしるべく春日山城の北東の端にある「春日山城跡ものがたり館」を訪ねます。日本100名城のスタンプはこちらにあり、謙信の時代を予習していきます。館内には春日山城に関する資料を提示していて興味深くこれからの史跡めぐりに思いを馳せる。隣接して「春日山城史跡広場」があります。この付近には当時、楼門があったとされ、敷地内には上杉景勝の会津転封に伴い入城した堀秀治時代に家老の堀直政(監物)によって造られた全長1.2kmにも及ぶ監物堀や土塁、東城砦には番小屋などが復元されています。

歩くこと10分、史跡広場の西方、小高い丘に「春日神社」があります。越後上杉氏の氏神で春日山城全体の総鎮守として春日山城築城時に鬼門神として山頂から遷座したと伝わり、600年の歴史があります。奈良の春日大社の分霊を祀っていて、春日山城の名前の由来となっています。

天を突くように伸びる杉木立の参道と急勾配の石段が印象的で、境内に立つ苔むした春日灯篭は江戸時代の作といわれます。

春日神社から歩くこと10分、上杉謙信がまだ“虎千代”と呼ばれていた7歳~14歳まで名僧・天室光育より文武の修行を受けた場所が「林泉寺」です。明応6年(1497)謙信の祖父、越後国守護代長尾能景が父重景の菩提を弔うために創建した長尾家の菩提寺です。開山は曇英恵応禅師でそれから40年後、上杉謙信が六世天室光育大和尚に学問を学び、七世益翁宗謙大和尚について禅の教えを学び悟りを開きました。上杉家が会津に移封後は、かわって越後領主となった堀家、高田城主松平越後守家、榊原家の菩提寺となりました。

惣門は春日山城搦手門を移築したとされます。以前は苔むした茅葺きであったが2017年修復の際、銅板葺きの屋根になったといのも時代の流れでしょうか。

上杉謙信公寄進の山門は江戸末期の地震によって焼失しましたが、鎌倉時代の様式を取り入れた大正14年(1925)建立の名作です。掲げられている謙信が揮毫した「春日山」「第一義」の扁額は、かつて掲げられていた額を複製したもので、宝物館で実物が見られます。

山門をくぐり、正面本堂へ。平成9年()開創500年を記念して建立。本尊として釈迦牟尼仏、脇侍として文珠菩薩、普賢菩薩。右に大権修利菩薩、左には達磨大師像。脇間には開山曇英恵応禅師像ならびに五大名霊牌と大謙信公座像を祀ります。

本堂左手から謙信の墓へ向かいます。墓へは石段を上がっていくのですが、その苔むした自然の石を配した石段が美しく、墓の前で思わず立ち止まってしまいます。墓所入口の近いところから堀家の墓(手前越後春日山30万石堀秀治、奥祖父堀秀重、奥に父堀秀政)

石段を上がると川中島合戦の死者の供養塔があり、

その手前奥に謙信公の墓があります。

さらに奥に進んでいくと榊原政岺の墓所があります。越後高田藩の榊原氏は徳川四天王の榊原康政を祖とする家柄で姫路15万石を支配していましたが、政岺の江戸吉原遊郭での豪遊(高尾太夫の身請け)などが露見し、将軍徳川吉宗の享保の改革の政策・倹約令に反するとして強制隠居させられ、息子の政永が越後高田に表高15万石(実収5万石)で転封となり、榊原家はその後明治維新まで7代続いています。因みに赤倉温泉を開発したのが文化7年(1810)に藩主となった4代榊原政令でした。

城跡めぐりは春日山神社参道脇に立つ上杉謙信公銅像前から開始するのが一般的なコースですが、今回は林泉寺から歩いて10分程度のところにある愛宕谷公園(無料駐車場有)から搦手道を登っていくコースです。

春日山の北に位置する「愛宕谷」は戦国時代には堤防を築いて御館川を堰止め堀として敵の侵入に備えたという北側を防衛する重要な場所です。春日山城と林泉寺の中間にあり、交通アクセスも悪くないのですが目立たない位置にありここから登る人はほとんどいません。廃城後、堤を蓮田として再利用したことから名が付けられたちょっとぬかるんだ「蓮池」までのあぜ道から搦手道を登っていきます。

急な登り坂ですが階段状に整備されています。

蓮池の上部は雛壇状に整然と構築された御屋敷郭群があり春日山城北東部一帯の重要な機能を担っていたと考えれます。写真手前、雛壇の入口には「黒金門」があったとされ絵図には「倉か子門」とも描かれています。特に「御屋敷」と名付けられた大きな郭(60×110m)は、城主の館跡とされていて、その上下に右近屋敷その他の郭があって「根小屋」を形づくっています。

道は春日山神社鳥居前にでれますが、今回は春日神社参道の石段下の駐車場に出ることにしました。急な136段の石段を上ると、春日山神社鳥居前に到着です。

春日山神社」は、山形県米沢市の上杉神社より明治34年(1901)に上杉謙信の御霊を分霊された謙信を祭神とする比較的新しい神社です。日本近代童話の父と呼ばれる小川未明の父、旧高田藩士・小川澄晴が浄財を募って創建したものです。日本近代郵便の父・前島密の援助も受けたという神明造りの社殿は重厚です。これからの登城の安全を祈願します。

春日山神社鳥居前を左手に2分程行った先に「謙信公銅像があります。昭和44年(1969)、大河ドラマ「天と地と」の放映の折に制作され、高さ3m、重量約800㎏の銅像は、頚城平野を見下ろしています。銅像前のあたりは昔馬場があったところなので7、平坦でわりと広く、現在は駐車場と売店や茶屋が立っている。

銅像左脇から車道を歩いて三の丸から二の丸、本丸へと目指すこともできますが、今回は再度春日山神社前脇から上がるルートをとります。

5分ほど歩けば「千貫門跡」に出ます。春日山城の古絵図に必ず描かれている門で、千貫(約2t)の鉄が使われていました。

今では門が建っていたと考えられる部分の土塁が分断されていて、春日山神社からクランク状の道がここに通じています。

三方が土塁と土手に囲まれ、左に二本、一見道と思われる切通しがあるが、実は空堀のあとといった遺構が残っています。土塁にはシャガが群生しています。5~6月には白い花を咲かせるアヤメによく似たシャガは、すらっとした姿の葉が魅力で冬でも枯れない丈夫な性質をしていますが、根つきが浅く、土塁を登ろうと掴ると滑り落ちてしまうため防御のために植えています。

またいたるところにイラクサ科のカラムシが植えてあります。この茎から採れる繊維を「青苧」といい、古から「越後上布」の原料として珍重されました。謙信公も青苧商人や港に出入りする船から税を徴収して米、金銀と共に軍事と財政力を支えていました。カラムシは雨が多く、湿度の高い場所、そして風の弱い土地を好むため、越後は上質な青苧の産地なのです。

さらに5分、城の入口にあたる「虎口」から上ると上下三段の郭になった上杉家の重臣「直江屋敷跡」にでます。大河ドラマ「天地人」の主人公・直江山城守兼続の屋敷跡です。本丸に向かって右手が愛宕谷、左手が但馬谷となっている尾根上にあります。

約10分歩くと小高い丘に謙信が合戦の必勝祈願行ったをという「毘沙門堂」が目に入ります。これは昭和初期に復元されたものです。

この御堂には謙信が信仰した毘沙門天像(青銅製、約50cm)が安置されています。尊像は嘉永2年(1849)の火災で被害を受け、昭和3年(1928)高村光雲によって修理されました。

その上段には護摩を焚いて戦勝や息災を祈願した「護摩堂跡」もあります。護摩の修法は、毘沙門天の信仰とともに謙信が真言密教を深く信仰していたことを物語っています。

さらに歩くこと約10分、標高182mの山頂付近に築かれた本丸、「天守台跡」に到着です。頂上は堀切で南北に分断されていて、北側が本丸、南側は天守台跡と呼ばれています。日本海を見るなら本丸のほうがよく見えます。

本丸のすぐ下にある二の丸越しに、謙信公も当時眺めていたであろう、頚城平野と直江津市街、北東方面には日本海が見え、海のそばに巨大な火力発電所も目にとまります。日本海から米山(越後富士)、尾神岳、黒姫山などの稜線の大パノラマが楽しめます。

ここからは下りになり西側すぐに「大井戸」があります。山城としては最大級の規模で、標高1000m以上の高所にかかわらず、廃城後400年以上を経ても涸れることなく、現在も満々と水をたたえる不思議な井戸です。

さらに5分、南側にもう一段下ると、謙信の死後、「御館の乱」で上杉景虎に勝利し上杉家の家督を継いだ「上杉景勝屋敷跡」です。上杉景勝は謙信の姉・仙洞院の子で直江兼続という知将を得て秀吉の五大老の一人までなりました。

さらに10分歩いてもう一段下れば謙信の重臣「柿崎屋敷跡」があります。春日山城で最も大きな郭のひとつで、柿崎和泉守影家の屋敷跡と伝わります。両屋敷跡とも総じて大規模で尾根を巧みに利用して段を削り出し、数段で一つの屋敷が形成されています。ここからそのまま下れば、南三の丸から大手道と呼ばれる道を辿り下山できます。

柿崎屋敷跡から少し戻って謙信公銅像の左手の道であった御成街道を約50分歩いて戻ります。「御成街道」とは、時の関白近衛前嗣が通ったことから呼ばれていて、前嗣は永禄3年(1560)謙信を頼って越後府中(直江津)に下向し、三年間滞在しました。

途中本丸より一段低い「二の丸」へ。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、本丸の警護として造作されたことを示しています。ここは堀切により独立した郭で、台所や笹井戸の遺構が残されています。一本のイチョウの木があり、11月下旬から12月上旬には黄金色に輝きます。

急な階段を下ると「三の丸」です。ここには北条氏康の七男で謙信の養子にとなった上杉三郎景虎の屋敷があった置かれていました。同じく謙信の養子となっていた上杉景勝との後継者争い「御館の乱」の際、景勝軍が山頂部の本丸と金蔵を占拠し、三の丸の景虎屋敷に鉄砲を撃ちおろしたともいいます。ものすごい至近距離の戦闘です。この三の丸と道を挟んで向かい側にある米蔵には最も良好な状態で土塁が残されています。

 

御成街道と銅像左手からの登り道との合流地点には、重臣「甘粕近江守宅跡」があります。あとは謙信公銅像から来た道を愛宕山公園まで戻ります。

今回は搦手道からの登城でしたが「大手道」からもと思い、車で大手道入口に向かいます。駐車場の手前に「御前清水」があります。

大手道は江戸時代に描かれた春日山城の古絵図に大手道と記載されており、春日山城の正面玄関と考えられています。ここから山頂の本丸までは約1時間のコースです。

大手道からの登城道沿いには春先、カキツバタが彩鮮やかに群生しています。

ここから春日山城に入ると最初に視野が開ける場所が「番所です。城があったころは、入場する人々を威圧していたと思われます。票柱のある小山は木戸が建てられていた土塁の跡で、門があったところです。

道は南三の丸や柿崎屋敷などを経て本丸に至ります。

最後に大手道駐車場から至近距離にある「上越市埋蔵文化財センター」で今話題の御城印(1枚300円)を記念に購入して締め括りにします。春日山を背にした上杉謙信の騎馬像が置かれています。

御館の乱を制した上杉景勝は天正7年(1579)から春日山城を居城としましたが、慶長3年(1598)に会津へ転封となり、春日山城には堀秀治が入城しました。慶長11年(1606)秀治が急死すると子の忠俊が引き継ぎましたが、直江津に福島城を築いたことで、春日山城は慶長12年(1607)廃城となりました。

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