清流に心洗われ、水に憩い、水に遊ぶ。水の城下町・郡上八幡

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作家司馬遼太郎は『街道をゆく 郡上・白川街道』で「日本で最も美しい山城であり、隠国の城」と称えている郡上八幡城は、「古より、積もる翠の城也と、称へらるるは、さも然(あ)らむ。たたなづく青垣ごもれる城や美し・・・。」と古名を積翠城、郡城、虞城ともいい、郡上八幡市街地の北東にそびえる八幡山(古名牛首山)にあります。山の南側と西側にそれぞれ吉田川と小駄良川が流れて天然の濠とし、急峻な山陽は、防御に高く、山麓には城下町を構築する平地も備えるという理想的な条件を備える地です。郡上踊の夏、「水の城下町」との異名をもつ郡上八幡城とその城下町を心地よい水音をBGMに歩いてみます。

山の頂に立つ町のシンボル・郡上八幡城は、戦国時代末期の永禄2年(1559)標高353mの牛首山(後の八幡山)の上に遠藤盛数が砦を築いたのが起源です。盛数の長男慶隆がその跡を継ぎ、永禄9年(1566)にこの牛首山の山上に城を築きました。その後羽柴(豊臣)秀吉と対立する織田信孝傘下であった慶隆は追放され、天正16年(1588)に4万石で入った、豊臣秀吉の家臣稲葉貞通によって郡上八幡城は現在の姿に大改修されました。八幡山の麓に新たに濠を掘り、本丸に天守台を設け、石垣を高くして塀を巡らし、武庫と糧庫を増築し、鍛冶屋洞に面して大きな井戸を掘り、二の丸を増築して居館としました。この時の改修で近世城郭としての郡上八幡城の基礎が築かれました。

その後稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後は、遠藤慶隆が2万7000石を拝領して城主となり、その後は遠藤氏により城や城下町が整備されました。特に寛文7年(1667)6代城主遠藤常友の修復により幕府から城郭として認められています。

遠藤氏の後井上氏、金森氏と続き、宝暦4年(1755)に起こった農民による宝暦騒動「郡上一揆」の責任で金森頼錦が改易されます。ちなみにこの事件の吟味と評定判決に関わったことで幕政関与の足掛かりを得て、事件終了後も評定所への参加を継続し、次第にその影響力を幕府の政権の中に拡大していったのが、後の幕府老中の田沼意次です。

宝暦8年(1758)金森氏に代わって青山幸道が丹後宮津藩から4万8千石で入部し、以来明治維新まで7代111年間郡上八幡を治めます。東京都港区の青山は郡上藩青山氏の江戸下屋敷があったことに由来します。

安養寺の角から城山道を郡上八幡城へ上って行きます。明治期に三の丸跡地に移転した遠郷山安養寺は郡上御坊とも呼ばれ、郡上一帯における浄土真宗大谷派の中心的な寺院です。宇治川の戦いにおける梶原景季との先陣争いで知られる佐々木高綱の三男・高重が出家し西信と名乗って近江国蒲生郡に「安要寺」を創建。その後6世仲淳の時に美濃国安八郡に移転し、蓮如より「安養寺」と名を改められます。天正16年(1588)稲葉貞通が入封した際、郡上八幡へ移ります。明治14年(1881)に本堂が焼失したのを機に現在地に移転しています。

山麓の駐車場になっている本丸跡の城山公園には、山内一豊と千代の銅像があります。NHK大河ドラマ『功名が辻』でも取り上げられた内助の功で有名な一豊の妻・千代は、諸説あるものの、かつて城主だった遠藤盛数の娘といわれています。本丸跡が山頂よりかなり低い城山の中腹にあるのは、青山幸道が殿町に居館を築き、旧二の丸が本丸、旧本丸が桜の丸・松の丸と改められたためです。居館が城下の殿町に築かれていることからも、山上の城が不便となって、政庁を移転したと考えられます。

山頂の無料駐車場までは道幅が狭く、カーブを曲がりきれずに何度か切り返ししながら無事到着です。山頂の松の丸北側は現在の駐車場として利用されるまでは、この辺一帯は杉や雑木の生い茂った湿地帯で、北尾根を切断する巨大な堀切の跡で、一基の淺井戸が遺されていました。その昔はこの淺井戸は「首洗いの井戸」と言い継がれ、慶長の合戦(関ヶ原の前哨戦として遠藤慶隆と金森可重連合軍と稲葉貞通との戦い)に際して討ち取られた寄せ手の名のある武士の血や泥で汚れた首が洗い浄められ、首実検に供されたといいます。駐車場から帯曲輪を虎口に向かって進みます。

夏はまさしく緑深き積翠城です。石垣の沿って二の丸へ進んでいきます。天守台の石垣のほとんどは、天正16年(1588)ごろの稲葉貞通の大改修の際に築かれたもので、戦国時代の荒々しさを偲ばせる野面積です。天守台真下の三段の帯曲輪はその規模の最も大きな部分です。

二の丸には力石が置かれています。この二つの石は、寛文7年(1667)遠藤常友が城を改修するため城内から多数の人夫を集めた時、その中の一人である劔村(現大和町劔)の通称赤髭作兵衛が城下吉田川から重さ約350kg(長さ約1m・厚さ約30cm)もの大石をひとりで背負いこの地まで運びあげたという二つの石です。普請奉行の村上貞右衛門がその力量を褒め称えたところ、作兵衛は感激のあまりたちまち力尽きてその場で卒倒し息絶えてしまいました。哀れんだ奉行はこの石の使用を禁じましたが、昭和8年(1933)の城建設の折、放置されていたこの石が見つかり力石として安置されました。

隣にあるのがおよし塚といい郡上八幡城改修の際に人柱となった、神路村(現大和町神路)の娘“およし”を偲んで建てられた石碑です。城の改修の際、工事が難航を極め、ついに人柱をたてるることになり、白羽の矢がたったのが里の小町と言われた数え年17歳のおよしでした。用材となる大木の運搬を不思議な力で手助けをした噂が奉行の耳に入ったのでした。吉田川で身を清め白のりんずの振袖に白の献上の帯をしめ、城山の露と消えたといいます。

現在の天守は、昭和8年(1933)に再建された郡上八幡城の天守は、当時現存していた大垣城の天守を参考にしたもので、模擬天守とはいえ、4重5階建ての木造天守は迫力があり、現存する木造再建城としては日本最古の城です。大垣城の天守は空襲で焼失したため、それを模した郡上八幡城の天守は価値のあるものとなっていて、築城後90余年を経た天守や櫓は、周囲の自然や風景に見事に溶け込み、風格と歴史を語っています。写真は二の丸からのベストショット天守と南西隅櫓

城郭は防御をその目的に築かれたものですから松の丸、桜の丸へのいずれの虎口からの石段もその目的をもって急で不規則に築かれています。写真は松の丸への石段

松の丸に向かう。右手の天守台石垣には2代城主稲葉貞通時代に築かれた戦国時代の野面積の石垣が一部残ります。

天守台松の丸にあるのが凌霜隊の碑です。明治維新の動乱の中、慶応4年(1868)郡上藩は戊辰戦争に、藩士39名、小者6名からなる「凌霜隊」を派遣しました。関東・東北を転戦し、塩原や会津若松城では、白虎隊と共に戦いました。「凌霜」とは、霜を凌いで咲く菊のような強固な操の信念を意味する言葉で、青山氏の葉菊紋に由来します。

本丸門から登城します。

昭和8年(1923)に再建された模擬天守は、4重5階建て・高さ17mの層塔型木造天守です。昭和11年(1936)当時旧国宝だった大垣城を参考に再建されましたが、その大垣城は昭和20年(1945)7月29日の大垣空襲により焼失、昭和40年(1959)鉄筋コンクリート構造で郡上八幡城を参考に外観復元されているのが興味深い。

場内に一歩足を踏み入れると木の香りが感じられ、床板がきしむ音が聞こえてきます。1階から2階が吹き抜けになっているのも珍しい構造で、城内には戦国武将の鎧や城に関する資料の展示もあり、郡上八幡の歴史を学ぶことができます。コンクリートのお城では味わえない温もりと歴史ロマンが詰まっています。

戦国大名の多くが重用した陰陽学の「北へ高く、南へ低い。東から水が運ばれ、西から食料が届く」という四神(青龍・白虎・玄武・朱雀)相応の地であることからこの地に城が築かれました。天守閣の最上階に上がる天井に示されいます。北東鬼門には八坂神社、南西裏鬼門には岸劔神社が鎮座しています。

最上階からは町の全貌が一望でき、重なり合うような奥美濃の山々のうねりと狭い盆地にびっしりと軒を連ねる城下の家並みが見事な眺めを見せ、町の中央を流れる吉田川の瀬音が聞こえてきそうです。郡上鮎で知られるこの町が、上から眺めると町全体が鮎の形をしているように見えます。

本町通りに飾られる揃いの提灯には、日本三大盆踊りに数えられる郡上踊の文字が。郡上八幡の城下町で、浴衣姿の人々が夜通し踊り続けり郡上おどりは、諸説ありますが、江戸時代に郡上八幡城主の遠藤慶隆が、領民の親睦を深め人心の懐柔をはかるため、あちこちで踊られていた盆おどりを城下に集め、「盆の4日間は身分の隔てなく、無礼講で踊るがよい」と奨励したのが発祥といわれます。よそ者だって運動オンチだって全然関係ありません。

昼食は吉田川沿い宗祇水近くのそば平甚でいただきます。昭和の初期に開業し、創業90年とい老舗。郡上の名水と国産そば粉を使用した打ち立ての二八蕎麦はもちもちとした歯ごたえのある食感で、カツオ節をベースとしたつゆとの相性もよい。

おすすめが飛騨牛自然薯ランチです。ざるそば/飛騨牛丼/郡上産自然薯のセットメニューです。驚きの粘りが自慢の郡上産自然薯は、野趣に富んだ濃密な味わいで自然薯自体が美味。蕎麦つゆに入れるとしっかりと蕎麦にからみ、しかもまったくつゆの溶けず蕎麦の味をくっきりと浮かびあがらせます。飛騨牛丼にかけても牛の味を引き立て、楽しさ2倍!

観光地として知られる郡上八幡の城下町は、とにかく水が豊かで町中に水路が走る、名水の町です。町名に職人町、鍛冶屋町といった江戸時代の名残がり、碁盤の目のような町割に沿って縦横に水路が流れています。水路は、寛文年間(1660年頃)に城下町を整備した城主の遠藤常友が、承応の城下町大火(1652)を教訓にして防火対策として4年がかりで築造したものと伝わります。主幹水路となって城下の下御殿や家老屋敷にも水を供給したことから、御用用水と呼ばれるそうです。柳町をはじめ、職人町、鍛冶屋町には、家々の軒先の下を洗うかのように清冽な水が流れています。現在でも用水として利用されている、国の伝統的建造物群保存地区に選定された情緒あるスポットです。写真はいがわのこみちの鯉

なかでも有名な宗祇水は、文明年間連歌の宗匠飯尾宗祇が、東常縁から和歌を学ぶため、この泉のほとりに草庵を結び、この清水を愛用したところから名付けられました。祠から常に澄んだ水が流れています。昭和60年(1985)全国名水百選の一番手として指定を受けました。

宗祇水の畔にあるお抹茶所 宗祇庵で“かき氷”をいただきます。お店の暖簾をくぐり、階段を上がるとそこはお茶の香りに包まれた癒しの和カフェ。縁側から宗祇水のそばにある清流を臨むことができます。この時期はかき氷が季節限定メニューとして追加されます。

注文した梅かき氷。柔らかく煮た果肉の甘さが、氷の奥でやさしくほどけていきます。火照りをしずめてくれる涼やかな一品です。

郡上八幡は長良川の上流に位置し、奥美濃の山々から流れ出た吉田川、小駄良川などが出会う場所にあります。川底を覗けば小石まで見えるほど、川の水は透明で清らか。吉田川に沿った遊歩道から見上げる、山上にそびえる郡上八幡城の天守が素敵です。吉田川は木曽三川の長良川最大の支流で、新橋から子供が飛び込むのも夏の風物詩。秋口までは、腰まで川につかり鮎釣りをする人の姿も見られます。写真は宗祇水が流れ込む北町の小駄良川親水ゾーンで、赤い欄干は清水橋

小駄良川をはさみ、対岸に見えるのが尾崎町の住宅。川べりに家がびっしりと連なり、暮らしに生きる“水の風景”が多数みられます。

郡上の美味しい水と豊かな食文化を後世に伝えようと、地元のシニア世代が結集して設立した「食」を伝えるテーマパークが水のまち流響の里です。江戸時代宝暦のころ、唯一成功した百姓一揆「郡上一揆」の熱い血を受け継ぎ、それを誇りとしてふるさとの文化発展を願う有志らの活動が結実し、地元農業関係者や婦人会などの強力を得て、総菜や豆腐、郡上米のおにぎりをはひめ、レストランメニューや土産商品が並びます。

1階は郡上や飛騨地方のお土産などの商品が並ぶショップで、郡上八幡最大の土産品売り場面積と種類豊富な品数を誇ります。2階レストランでは、料理長が腕をふるい郡上の食材を生かした郷土料理から鮎、朴葉味噌、奥美濃古地鶏など旬の季節限定メニューが好評。地元の自然薯を使った「麦とろ」や「とろろ蕎麦」、飛騨牛サーロインステーキや郡上の郷土料理「鶏ちゃん」などメニューも豊富です。

温泉で疲れを癒し、「鶏ちゃん」を食べるために下呂へ。江戸時代に家康の顧問を務めた幕府の儒学者、林羅山が「有馬・草津とともに天下の三名泉」と称賛した下呂温泉は、『飛州志』によれば天暦年中(947~957)に、現在の場所から一里程度離れた湯が峰の山中で泉源発見されたが、文永2年(1265)に突然湯がとまってしまう。翌年地下水脈が益田川の河原に移動したとき、河原に舞い降りた一羽の白鷺により温泉が発見されたといい、1000年以上の歴史を持つ温泉地です。

白鷺の湯は大正15年(1925)から続く洋館風のレトロモダンな建物が目をひく伝統的大衆浴場で、地元の人から観光客まで幅広く愛されている温泉施設です。ひのきの内湯のみですが、飛騨川と山々を眺めながらゆったりくつろげば、滑らかな湯で肌はつるつるに、お城行脚の疲れを癒してくれます。

鶏ちゃん」は南飛騨・奥美濃・東農を発祥とする、岐阜県を代表する郷土料理のひとつ。かつて廃鶏を貴重なタンパク源として調理したのがルーツと言われ、一口大に切った鶏肉を味噌や醤油、塩をベースとしたタレで味付けし、キャベツや玉ネギなどの野菜と一緒に炒めながら食べる料理で、地域やお店によって、そのこだわりも味付けも千差万別。今回訪れたのは白鷺乃湯の近く「お食事処 萩屋ケイちゃん」。テレビ東京土曜スペシャル「大久保・川村の温泉タオル集め旅18 」(2025年5月31日放送)で岐阜下呂温泉から長野諏訪。蓼科を目指す道中でこのお店で鶏ちゃんを食べていました。

メニューは萩屋ケイちゃん定食で、鶏肉の種類、若どり、親どり、奥美濃古地鶏の3つから選び、それに味付けを味噌、しょうゆ、しおの3つから選び、トッピングをチーズ、生卵、温泉玉子・みぞれからひとつ選びます。今回は奥美濃古地鶏を一番人気のみそ味でいただきます。トッピングは下呂といえば温泉ですから温泉玉子をチョイスしました。コンロの火をつけ、焦がさないように自分でお箸を使って混ぜます。下から上へと鍋の縁から縁へと大きく混ぜていくのがコツです。地元産小鉢3種とみそ汁、ご飯に下呂の漬物そして最後にミニソフトのデザートがつきます。

奥美濃古地鶏とは、昭和16年(1941)国の天然記念物に指定された岐阜地鶏を品種改良したのが奥美濃古地鶏です。十分に運動できる、ゆったりとした環境で丁寧に育てられた奥美濃古地鶏の肉は、赤身を帯び、歯応えがよく、コクのある旨味が特徴。ブロイラーに比べ飼育期間は長くかかる(約80日間でブロイラーの倍)が、ストレスが少なく健康に育つので、味の」バランスが良く美味しい鶏肉となります。

 

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