“高天神城を制する者は遠江を制する”徳川と武田の遠江争奪戦

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いよいよ戦国時代の戦いで心揺さぶられる「高天神城の戦い」の舞台へと向かいます。

高天神城は、掛川市の中央に位置する小笠山から南東に伸びる尾根の先端、標高132mの鶴翁山を中心に造られた山城です。東側の田園地帯から南側の遠州灘まで見渡すことができ、小笠山の北を通る東海道を牽制できる立地条件にある重要な城であったため、徳川と武田が争奪戦を繰り広げられ、「高天神を制するものは遠江を制す」とうたわれました。眼下には、下小笠川などの中小の河川が流れ、天然の堀を成し、尾根は三方が断崖絶壁、一方が尾根続きという天然の要害であり、「難攻不落の名城」と謳われている続日本100名城のお城です。

高天神城の築城は室町時代、今川氏が守護から戦国大名に成長する過程で築かれたとする説が有力です。今川氏に服属した小笠原氏が城代となっていましたが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれたのをきっかけに衰退。甲斐の武田信玄が駿河へ、三河の徳川家康が遠江への侵攻を開始します。永禄11年(1568)には武田信玄と徳川家康に攻め込まれ、翌12年今川氏の滅亡後徳川家康の持ち城となり、小笠原与八郎長忠(氏助信興)が引き続き城主となります。

高天神城は東西二つの峰を連結した「一城別郭」の巨大な山城です。東峰と西峰に分かれ、その二つが井戸曲輪でつながれています。東峰と西峰とではまったく別の城のような様相の違いがあることが、この城の大きな特徴です。東峰が居住エリアとするならば、西峰は戦闘エリアというイメージです。高天神城への道路上の案内板通りに向かうと城の北側、搦手門側に誘導されます。北口駐車場から見える鳥居は高天神城跡に鎮座する高天神社の鳥居です。

鳥居をくぐり木々が繁る整備された登城道端に「史跡 高天神城跡」の石柱が建っています。

高天神城の北側の入口・搦手門跡から長い階段を登ります。崖のようになったところの間をひたすら登っていくと東峰と西峰を繋ぐ井戸曲輪跡に出ます。

途中には三日月井戸があります。確かに三日月の形をしていて城の守りには欠かせない貴重な飲料水でした。

今回はやはり追手門(大手門)のある南側から攻略します。

木々が生い茂る中、階段をかなり登って追手門跡に到着です。元亀二年には武田信玄が来攻、城門を攻めた際には難攻不落とみて撤退したと伝えられ、天正2年(1574)の第一次高天神城の戦いでは、武田方の内藤正豊・山県昌景などの精鋭が城門に突入し、城兵75名が死傷、武田勢は253名の死傷者をだしました。天正9年(1581)の第二次高天神城の戦いでは武田方城兵総突撃に際し、徳川方の松平康忠が城門を破って突入し、追手門櫓を焼き落としたように数々の激戦の舞台になっています。

さらに坂を登っていくと城の東側を守る三の丸跡に向かいます。地平線の先にかすかに遠州灘の水平線が見える眺望が最高です。

右側がかなり傾斜のある坂道を登っていきます。この険しい斜面の上に御前曲輪跡や本丸跡があります。東峰の本丸跡の手前「御前曲輪」には城主小笠原与八郎長忠とその妻の顔出しパネルが模擬天守跡の前に置かれています。

ここからは遠州灘をバックに高天神城六砦のうち、火ヶ峰砦が良く見えます。綺麗にこんもり丸く山になっているのがそれです。

また曲輪跡内には元天神社が鎮座。高天神城は古くは平安時代から修験者の修行場だったという神域で、城が廃城となるまで城中守護の神社であった高天神社が鎮座していた場所です。江戸時代中頃に東峰の御前曲輪跡から西峰の西の丸跡に移されました。

本丸跡は広々としていて、枡形虎口の残部の土塁跡があります。

的場曲輪跡に下ります。弓矢などの練習をしていた場所だと考えられていますが、武田と徳川の激戦のあった曲輪です。ここから本丸跡の真下にを回り込むように下った場所に石窟があります。ここは天正二年に武田勝頼により攻め落とされた際、城主小笠原長忠は武田方に降り、城兵たちは離散退去しましたが、軍艦大河内源三郎政局は独り留まって勝頼の命に服さず、勝頼は怒って幽閉しました。天正9年に徳川家康が奪還した際に救出されましたが、幽閉生活は足掛け8年に及び、歩行困難になっていたといいます。

的場曲輪跡から北口の搦手門から登ってきた道と合流し、ここから西峰に向かいます。左右の灯籠があり山城というよりは、神社の参道らしい雰囲気になっています。

この先が井戸曲輪跡で現在も井戸が残っています。高天神城は水源が乏しく、徳川方に城を包囲され兵糧攻めにあった際にここに「かな井戸」を掘って籠城中の露命を繋ぎました。また天正2年の勝頼率いる武田勢の猛進を必死の防戦に努めた場所とも伝わります。

東峰の御前曲輪跡から現在の場所に移された高天神社の階段を登ります。高天神社のご祭神は高皇産霊命・天菩比命・菅原道真公の三柱。この西の丸は武田方の岡部丹波守真幸が守備していた時期があり、丹波曲輪とも呼ばれています。この西の丸を中心とした部分は徳川との戦いに備えて新たに拡張した曲輪で東峰と違い、戦いを意識した造りになっています。

高天神社から馬場平に行く途中には堀切があります。攻め寄せる敵兵を防ぐために造られたものです。尾根伝いに降りて登っての急斜面ですが階段が整備されています。馬場は番場の当て字で、見張番所があったと考えられています。奥には小笠山へ続く唯一の脱出口「甚五郎抜け道」別名「犬戻り猿戻り」と呼ばれる難所の尾根道があります。天正9年(1581)の高天神城落城の際に、軍艦横田甚五郎尹松は武田勝頼に落城の模様を報告するため、馬を馳せてこれより西方約1000mの尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へ甲州へ逃げ去ったとのこと。この道はかなりの難所で両脇が崖の細道で登山上級者向けのコースと書かれていました。

西峰の西の丸から北尾根筋に続く二の丸からは3段に分れていて土木量が増し、高低差がはっきりします。二の丸から振り返ると、山のように高く崖のように鋭く切り立った、西の丸の切岸が立ちはだかります。ここには天正2年5月の武田勝頼侵攻時、城兵300騎を指揮して銃撃によって討死にした二の丸堂の尾曲輪主将本間八郎氏(享年28歳)・丸尾修理亮義清(享年26歳)兄弟のお墓があります。墓碑は元文2年(1737)後裔本間惣兵衛によって建立されました。

ここから連なる二の丸跡、袖曲輪跡から堂の尾曲輪跡、堂の尾曲輪跡から井楼曲輪跡へが、高天神城の最大の見どころです。曲輪の上を歩くと、西側だけに土塁が続き、徹底的に西側からの敵に備えています。普段は堀底から橋脚跡と考えられる穴が発見されていて、木の橋が架けられていたと考えられます。写真は二の丸と堂の尾曲輪を分断する堀切。

高天神城は北側・南側・東側は断崖絶壁になっているのですが、西側の赤根ヶ谷方面だけは傾斜が緩やかになっていて、天正2年の武田勢はこの西側から攻めてきました。武田家が高天神城を領すると、城の弱点である西側を補強するために、堂の尾曲輪から井楼曲輪の西側に総延長約100mとなる延々と続く幅約4m・深さ約2mの得意とする長大な横堀とそれに伴う高さ5mの土塁、高さ15mの切岸、そして各曲輪を遮断する幅約9m、深さ約6mの堀切を造りました。「土塁+堀切+切岸」の三重構造で敵を完全にシャットアウトしています。写真は堂の尾曲輪から井楼曲輪の西側に続く長大な横堀と土塁

高天神城は2度の大きな戦いで落城していますが、どちらもこの堂の尾曲輪が攻め落とされています。比較的傾斜が緩やかで、高天神城の弱点といえる場所であるため、周囲には堀切・横堀などの防御設備が施されています。写真は袖曲輪からみた堂の尾曲輪の堀切。岩盤がかなり削り込まれています。

高天神城西峰、尾根の北側先端に位置するのが井楼曲輪です。見張りのための櫓である「井楼」があった場所として伝えられています。

翌天正3年(1575)の長篠・設楽原の戦いで武田勝頼が大敗し衰退。家康は高天神城を奪還すべく、高天神城六砦(小笠山砦・獅子ヶ鼻砦・中村砦・能ヶ坂砦・火ヶ峰砦・三井山砦)を構築して高天神城を包囲しました。なかでも最大規模の小笠山砦は、東海道から高天神城への間道を押さえる位置にあり、今川氏真がこもった掛川城との連携を断つべく築かれ、天正6~7年(1578~1579)に高天神城攻略のために北側の拠点として再び徳川勢が布陣した陣城です。

天正6年(1578)7月大須賀康高に命じて西に横須賀城を築き、ここを基点に高天神城包囲網の城砦群への兵站基地としての役を担いました。この包囲作戦が功を奏し、天正9年(1581)第二次高天神城の戦いで兵糧攻めの末、高天神城を奪い返しています。家康の高天神城奪還は遠江から武田氏を駆逐する決定打になると同時に、後詰に向かわなかったことから武田家分裂を決定づける一撃となりました。武田氏滅亡の本格的なカウントダウンがこの戦いから始まったのです。

横須賀城は遠州灘につながる広大な潟湖の入口に位置していて、横須賀湊があり、横須賀を拠点に物資の輸送や兵站のルートを確立しました。さらに武田水軍を牽制し、その動きを遮断するのにも貢献しました。築城当時この入江は掛川城の外堀となっている逆川の河口だったことから横須賀城と掛川城は船で直接行き来することが出来たと考えられています。掛川城が陸の大動脈東海道の押さえであったのに対して、横須賀城は小笠山の南を通る浜筋道の押さえであると同時に海上交通の押さえでもありました。また家康みずから縄張りをした最初の城だともいわれています。

訪れると目に飛び込んでくる光景は、中枢部の本丸や西の丸の石垣が復元されているとはいえ、河川を流れて角が取れた玉石、つまり川原石を積み上げています。曲輪の各面は主として直線で構成され、石垣の勾配も直線的ですが、そこに積み上げられているのは角のとれた丸い石ばかり。直線による幾何学的な造形が角のない丸い石で構成され、ほかの城では決して見られない美しさです。近くに石材の産地がないかわりに周囲の丘陵はかつて大井川河畔が隆起した礫層で構成され、山から玉石が採れるのでそれを使ったのです。

玉石による石垣で囲まれた本丸と西の丸から歩きます。南側の低地から進んで石段を上ったところには、かつて櫓門があり、その奥は三方が石垣に囲まれた枡形になっています。櫓門をくぐった敵は、三方からの攻撃にさらされるということです。

左手の石段を上ると西の丸で、右手の階段上は本丸です。中世城郭と近世城郭の特徴を併せもった平山城で本丸と西の丸が現状のように石垣で固められた近世城郭として整備されたのは天正18年(1590)の家康が関東に移封になり、豊臣秀吉が渡瀬繁詮をここに配置して以降のことと考えられています。

本丸の北東にはやはり玉石が積まれた低い天守台があり、奥の高い土塁に乗るように四重四階の天守が建っていました。城はその後、内海に沿って東西に拡張され、17世紀の半ばまでには東に三の丸が、17世紀後半には西に二の丸が整備されました。こうして東西に618m、南北は東方で289m、西方では184mと東西に細長い縄張りが構成され、その周囲に水堀が巡らされました。普通ひとつしかない大手門が東西にあることから「両頭の城」といわれます。

本丸の北側には北の丸があり、その北東にはさらに高い丘がある。小笠山丘陵の先端部で標高26mと周囲でもっとも高い松尾山で、家康による築城当時はこの松尾山が城の中心だった。また本丸の石垣に向かって右手にある三日月池は築城間もないころの外堀の名残といわれ、やはり家康が設計したものである。

関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)松平(大須賀)忠政*榊原康政長男が再び城主となり、以降譜代大名の居城となり、江戸中期から明治まで西尾氏8代の支配が続きました。

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