徳川家康が岡崎から浜松へ本拠地を移したのは元亀元年(1570)、29歳の時。以降、駿府に移った天正14年(1586)、45歳までの17年間をこの地で過ごしました。この間、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどの数々の合戦で名だたる武将としのぎを削り合い、三河、遠江、駿河に甲斐、信濃を加えた5ヵ国を有する戦国大名へと飛躍を遂げます。その一方で嫡男信康と正室築山殿を死に追いやるという苦難を味わいながら出世の階段を駆け上っていきました。浜松城は、家康が征夷大将軍にまで上り詰める基盤を築き、後に続いた歴代城主の多くも江戸幕府の要職に就いたことから「出世城」と称されています。
静岡県南西部、天竜川と浜名湖にはさまれるように広がる三方ヶ原台地。今から450年前、日本史上残る戦いが三方ヶ原台地で繰り広げられました。元亀3年(1572)12月、当時最強と恐れられた戦国大名・武田信玄は、甲斐国から京都を目指して進撃します。この信玄の軍勢に立ち向かったのが、31歳の若き徳川家康でしたが、家康は大敗して、命からがら本拠地の浜松城へと逃げ延びました。この三方ヶ原の戦いに思いを馳せながら、浜松城を訪ねます。
今川家の滅亡後、三河国を統一した家康は、遠江国に侵攻を開始、同時期に駿河まで勢力を広げていた武田信玄の侵攻に備えるため、かつて今川領だった引間(曳馬)城を攻めて奪取します。当初は見附(今の磐田市)を本拠にと築城を開始しましたが、信玄の攻撃を受けた場合、天竜川を背にして戦うには「背水の陣」となり戦術的に不利だとの織田信長の助言もあり、引間城を取り込みながら城域を西南方向に拡大し、三方ヶ原台地の南東端にあらたに城の中心を築きました。西に浜名湖、東に天竜川、北に赤石山脈が走る天然の要塞に開けた平野にあり、そして地名も「曳馬」は「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いことから、かつてこの地にあった荘園名・浜松荘に因んで「浜松」と改めました。家康築城当時は南北約500m、東西約400mの規模があり、本丸曲輪、二の丸、三の丸が階段状に連なる梯郭式の城でした。城郭は、北に西池を天然の堀として、天守曲輪の東側に向かって本丸、二の丸、三の丸が配され、馬込川が天然の外堀として東側を守る形になっています、南側は清水曲輪や出丸が配され、城の南側に東西に通る東海道、北に向かう姫街道を使って出陣しやすい配置になっています。
現在復興天守が建つ天守曲輪は、本丸から独立した曲輪になっています。東西56m、南北68mのいびつな多角形ですが、これは自然の丘陵のかたちを反映されたものだと考えられます。最高所に天守曲輪があり、東に大手として天守門、西に搦手として埋門が配されています。周囲は鉢巻石垣と土塀で囲み、土塀には屏風折などの横矢や武者走りが設けられるなど防御性の高い設計になっています。天守曲輪の東側に10mほど下がって本丸が、さらに東側に3~4m下って二の丸(浜松城公園入口の現駐車場)があります。
南広場から若き日の凛々しい青年期の家康像に挨拶します。家康が愛用した兜に飾られたシダの前立を持つ。
櫓門と呼ばれ、平成24年~25の2年をかけて発掘調査と古絵図をもとに平成26年(2014)に木造で復元された天守門をくぐると、天守が眼前に迫ります。天守門の石垣には「鏡石」と呼ばれる巨石を配し、威厳を見せつけたとされます。
三層四階構造の天守閣がそび、天守閣に近ずくと、荒々しく積み上げられた石垣に目を見張ります。築城は元亀元年(1570)ですが、現在の浜松城は、家康が築いたものではありません。家康が在城した頃は、掘を掘って、土塁を積み上げた「土造りの城」でした。城郭の主要部分の整備は、天正18年(1590)に家康が関東に移封になった後、豊臣系大名の2代目城主の堀尾吉晴の時代におこなわれたといいます。堀尾吉晴が築いたとされる、自然石を加工せずに上下に組み合わせて積み上げる「野面積み」の石垣が代表的な遺構で、戦国時代の築城術を伝えています。表面に隙間があり、一見崩れやすそうに見えますが、奥が深く内側に小石や砂利を詰めているため、水はけもよく堅固です。浜名湖北岸で採れた硬質の珪岩を用いているため、野性味あふれる積み方に特徴がある。江戸時代初期以前まではよくこの方法が用いられ、現存する石垣では、彦根城、竹田城、安土城にも用いられていたといいます。
天守台は1辺約21mのややいびつな四角形で、西側に八幡台と呼ばれる突出部と、東側に付櫓(天守閣入口正面)と呼ばれる張り出し部分があります。写真は天守閣から見た八幡台
当時の天守の実態はわからず、現在の天守は昭和33年(1958)再建されたものの、予算の都合で規模が小さくなったため、天守台の東側の約2/3だけを使ってこじんまり建てられているので、天守台に対して小さく、実際には現在の天守閣の1.5倍ほどの規模の天守があったと考えられています。丸岡城天守が天守のモデルとされています。
館内には浜松や家康に関する展示物が並ぶ。B1Fには約400年前に造られ、天守に関する唯一の遺構であるえあzssxcddsxsdcx直系1.3m、深さ1mの大きさの井戸が発見されています。地下に井戸があるのは、堀尾吉晴が浜松城の後に築いた松江城と同じで全国に5個しかない天守に備えられた井戸。浜松城には計10本の井戸があったといわれています。
1Fには等身大の3D徳川家康公像が立ち、顔のシワや毛穴までリアルに再現されています。三方ヶ原合戦の説明映像と合わせて楽しみます。
3階への階段を上ると天井には、徳川家の「丸に三つ葉葵」など、歴代城主の家紋が描かれています。展望台からは浜松の街並みはもちろん、北に三方ヶ原古戦場、南に遠州灘、西に浜名湖、晴れた日には東に富士山や南アルプスまで見渡せます。。浜松城が三方原台地の南東端にあり、崖に守られた防御に適した立地であることにも気付かされます。
浜松入り2年後の元亀3年(1572)、武田信玄率いる推定2万5000の甲斐勢がすでに家康が平定していた遠江国に攻め入ってきました。二俣城を2か月の籠城戦ののちに陥落させると天竜川を渡って家康の本拠、浜松に迫ってきたのです。家康は織田信長の援軍3000を加えても8000程度だったようです。籠城戦を覚悟しましたが、信玄は浜松城を素通りし、三方ヶ原で位置を進んで西に向かいます。おそらく「どうする」かおおいに迷った末、出陣したのですが、徳川軍は総崩れ、家康自身、命からがら浜松城に逃げ帰ったのです。徳川家康三方ヶ原戦没画像は、家康が三方ヶ原での敗戦直後にこの像を自戒のため描かせたとする伝承のある絵画。「顰像」とも呼ばれています。