水の都・大津で路面電車に乗って三井寺巡礼さくら旅。

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琵琶湖の南西部に位置し、比良山や比叡山といった山々に囲まれる自然豊かな町・滋賀県大津。かつて天智天皇によって遷都された「近江大津宮」が存在した歴史深い土地でもあり、江戸時代には東海道と北国街道の宿場町、琵琶湖の港町として栄えた町並みが今も健在です。琵琶湖沿いの景勝地のみならず、「比叡山延暦寺」や「園城寺(三井寺)」、「石山寺」、「近江神宮」、「日吉大社」といった全国的にも有名な神社仏閣が町の至る所に残されていて見所が充実しています。もちろん、伝統的な郷土料理や鮒寿司や琵琶湖の魚を使った佃煮、近江茶をお土産に購入したり、古くから続く和菓子店でおやつを選んだりする楽しみもあります。観光するなら琵琶湖の湖岸沿いをドライブするのもよし、レトロな路面電車に乗ってのんびり観光地をめぐるのも良しです。今回は滋賀県大津の北側「坂本駅」と南側の「石山駅」を結ぶ京阪電鉄・石山坂本線に乗ってのんびり桜めぐりの旅にでます。見て、歩いて、食べて、買ってと充実した旅を堪能できること請け合いです。

京阪・三井寺駅に降り立つとすぐに、桜が咲き誇る疎水の風景に出会えます。明治時代中期に琵琶湖の水を京都へ送るためにつくられた琵琶湖疎水は、大津市三保ヶ崎から京都へと続く水路で、飲料水の供給はもちろん、国内初となる水力発電などにも役立てられてきました。国家的プロジェクトであり、明治23年(1890)の第一疎水竣工式には明治天皇皇后が臨席しています。当時最高の土木技術を結集した石造りのトンネルなどには、レトロモダンな趣があり、両岸の桜がいっそう美しく目に映ります。前方に小高い山が見えていますが、長等山という山で中腹あたりが桜色に染まっています。

約200本ものソメイヨシノと山桜が両岸を覆う桜並木の美しさ。三井寺へと続く疎水にかかる石橋「鹿関橋」からの眺めは、ひときわあでやかです。奥に第一トンネル水門が見えます。長さが2436mもあり、反対側の出口を抜けると、桜と菜の花の競演が美しい「山科疎水」に続いています。

橋の反対側は「大津閘門」といい、舟を通す役割を果たしています。琵琶湖の水位は疎水路の水位よりも高いため、舟が行き来するときに、水門を開閉して水位を調節しています。

疎水沿いを歩いた先には、うさぎ神社で有名な「三尾神社」の境内にあたりますが、ここは帰路に寄ることにして歴史ある桜の名所、三井寺を目指します。

琵琶湖の南西、長等山に開かれた通称「三井寺」の名で知られる長等山園城寺は、奈良時代に建立された天台寺門宗の総本山であり、広大な寺域の中に権力者達の栄耀栄華を今に伝える歴史的価値の高い文化財指定の諸堂が点在する大寺です。その歴史をひもとくと大津京を開いた天智天皇の孫にあたる大友与多王が、壬申の乱で叔父の大海人皇子(天武天皇)と戦って敗れた父・大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うために飛鳥時代の朱鳥元年(686)に創建し、天武天皇より「園城」の勅願を賜ったことに始まる。創建後、長らく荒廃していましたが、貞観年間(859~877)に唐から帰国した智証大師円珍が寺を中興。古くから東大寺、興福寺、延暦寺とともに本朝四箇大寺のひとつに数えられるようになりました。広重の名作「近江八景」の中で描かれたことでも知られ、情趣あふれる景観に多くの人が酔いしれてきました。

春爛漫の三井寺大門(重文)。三井寺の表門で、三間一戸、檜皮葺の楼門です。もとは甲賀(現湖南市)の常楽寺の門で、豊臣秀吉によって伏見城に移築されていましたが、徳川家康によって慶長6年(1601)浄域への表門として寄進されました。宝徳4年(1452)の建築になり、蟇股の彫刻や組物に室町時代の特色を示しています。門の両脇には康正3年(1457)に制作された金剛力士像が安置され、1300年余の歴史をもつ浄刹の表門としてふさわしい風格を備えています。

仁王門をくぐると境内は広く、ソメイヨシノや山桜、枝垂れ桜など約2000本の桜が迎えてくれます。桃山時代の名建築・金堂や三重塔など数ある重要文化財や国宝の建造物が、桜景色と重なり合うようにして美観を描き出し、実に見ごたえがあります。順路に従って拝観していくのですが桜のビュースポットが随所に現れ、目を楽しませてくれます。

仁王門から続く階段を上ると、三井寺の総本堂である金堂(国宝)が堂々たる構えで迎えてくれます。本尊の弥勒仏は天智天皇が信仰されていた霊像で、秘仏として静かに祀られています。また内陣には多くの仏像が安置されていますが、円空仏の一群に目を奪われます。生涯で12万体の仏像を刻んだとされる円空は全国各地に仏像を残していますが、そもそも三井寺で灌頂を受けた僧なのです。これらの仏像は初期の作品で、一切経蔵の中から見つかったそうです。

創建当時の金堂は、織田信長の焼き討ちの後、豊臣秀吉が比叡山延暦寺西塔の釈迦堂として移築してしまったため、現在の建築は慶長4年(1599)秀吉の北政所が再建したものです。桃山時代を代表する風格ある名建築物に圧倒されます。

琵琶湖の南西に位置する長等山に夕闇の迫る頃、遠くから入相の鐘が鳴り響く―。歌川広重の名所絵「近江八景」のうち「三井の晩鐘」に描かれた情景です。三井の晩鐘は日本三名鐘のひとつで、その音の美しさから「姿の平等院、声の三井寺、銘の神護寺」とも言われ、その荘厳な音色は「残したい日本の音風景100選」にも選ばれています。

目当ての梵鐘は金堂の南東に建つ桃山様式で切妻造り、檜皮葺の鐘楼(重文)に吊るされています。高さ208cm、口径124cm、重さ2.25トン。撞木が当たる撞座の意匠は蓮華文で鋳造は慶長7年(1602)とあり、広重が描いた「三井晩鐘」と変わらぬ鐘です。今も大津市街にその音を響かせています。冥加良800円で鐘を一回撞くことができます。

金堂の裏手に天智・天武・持統の3天皇が産湯に用いたとされる湧き水「閼伽井屋の湧水」は今でも滾々と湧き出ていて、「御井戸=三井」が寺の名前の由来となっています。閼伽とは仏に備える水のことで、この霊泉を護る覆屋として慶長5年(1600)に建てられたのが閼伽井屋です。細部意匠にまで桃山時代の優美な特色を表しています。ことに正面の蟇股にある左甚五郎作の龍の彫刻が有名です。この龍が夜ごと琵琶湖に出て暴れたので、甚五郎自らが龍の目玉に五寸釘を打ち込んで鎮めたという伝説があります。年に10日、丑の刻になるときにだけ姿を現す九頭龍神が棲むといわれる。

金堂西方の霊鐘堂に安置されている弁慶ゆかりの伝説が残っている「弁慶の引摺り鐘」も見ごたえがあります。奈良時代の作とされ、俵藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神からもらった鐘を三井寺に寄進したと伝えられている。その後延暦寺との対立が激化し、当時延暦寺の僧兵だっ武蔵坊弁慶がこの鐘を奪って比叡の山頂まで引摺り上げて撞いたところ「イノー、イノー(関西弁で帰りたい)」と鐘が響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか」と怒って谷底に投げ捨ててしまったという逸話が残ります。またこの鐘は寺に凶事がある際には撞いても鳴らず、吉事の際には自然と鳴るといった不思議な話が伝えられています。

一切経堂は室町時代の建築で、慶長7年(1602)、戦国大名毛利輝元により山口県・国清寺より移築、寄進されました。洞内には高麗版一切経を納める回転式の八角輪蔵があります。

唐院は智証大師円珍の廟所として最も神聖な場所です。唐院の名は智証大師が入唐求法の旅で持ち帰った経典類を納めたことに由来します。現在の書院は、正面に土塀をめぐらせた区域に四脚門を建て、西側の山手に向かって灌頂堂、唐門、大師堂が一直線上に建ち並びます。

聖域への表門である唐院四脚門は、寛永元年(1624)に建築されました。当初は棟門形式でしたが造営後に控柱を添えて四脚門形式に変更したものです。門前の石畳の参道に配された探題灯籠とともに聖域への入口として清浄な雰囲気を醸し出しています。

室町初期に奈良県吉野の比蘇寺で建立された三重塔は、豊臣秀吉により伏見城に移築、さらに慶長6年(1601)徳川家康より寄進されました。軒深く、三重の釣合も美しい仏塔です。唐院の一角にはあり、参道は灌頂堂の前から唐院四脚門に出ます。

唐院への石畳の参道を下ると金堂へ通じる参道にでますが、右に折れ勧学院の美しい石垣の築地塀の手前にある石橋が「村雲橋」です。昔、智証大師がこの橋を渡ろうとされた時、ふと西の空をご覧になった時、大変驚かれ、大師が入唐の際、学ばれた長安の青竜寺が焼けていることを感知されたのです。早速真言を唱え橋上から閼伽水をおもきになると、橋の下から一条の雲が湧き起り、西に飛び去りました。のちに青竜寺からは火災を鎮めていただいた礼状が送られてきたといい、以来、この橋をムラカリタツクモの橋、村雲橋と呼ぶようになったと伝えています。

勧学院の美しい石垣の築地塀に三井寺の提灯がずらりと並び、その提灯を覆うように桜が枝を伸ばして咲いている参道をすすむと「微妙寺」突き当ります。三井寺の五別所のひとつとして994に創建。本尊は十一面観音。現在は湖国十一面観音霊場の第一番札所となっています。

曲がった先には創業明治2年の歴史ある大津名物「三井寺辯慶力餅」の本家力軒のお店があります。慶安の頃に三井寺と弁慶の怪力に因んだ名の餅を三井寺境内で商う者がいました。これが三井寺辯慶力餅の始まりです。国産きな粉に抹茶と和三盆を加え、柔らかくコシのある求肥餅を合わせた昔ながらの味。三井寺境内だけでいただけます。

桜の名所でもある敷地内の西国三十三観音霊場の十四番札所観音堂は、境内の南の端にあり、山内でも一番眺望のよいところ。元和2年(1689)に三井寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に建立され、昭和31年(1956)に解体修理にともない現在地に移築された極採色の小堂、毘沙門堂から上っていきます。

参道の途中にも見上げれば桜のトンネルが続きます。山の中腹に観音堂があるため、かなりの石段の数を上っていきます。

観音堂のある高台からは桜とともに眼下に茫洋たる琵琶湖を一望でき、気持ちが自然と華やいでいきます。

観音堂は後三条天皇の病気平癒を祈願して延久4年(1072)の創建し元禄2年(1689)再建されました。ご本尊は33年毎に開扉される秘仏・如意輪観音坐像ですが、両脇侍の愛染明王と毘沙門像が特別公開され、堂内の諸仏も間近に拝めます。琵琶湖を眺望する境内にはの観音堂を中心に諸堂が並び札所伽藍を構成しています。写真手前から御手洗・明治14年(1881)、観音堂、そして参道石段を上ったすぐのところ鐘楼・文化11年(1814)が建っています。

札所伽藍の一つ観月舞台は嘉永3年(1849)の建立。有名な能『三井寺』は中秋の名月の三井寺を舞台に親子の再会を描いた名曲です。舞台造の観月舞台には立ち入ることはでませんが、観音堂の前に広場があり、舞台の奥に広がる桜景色を眼下に鑑賞することができました。

観月舞台では春の勅別公開“5分間の貸切拝観”と銘打ち、この桜の景色が舞台の床に映り込むリフレクションが楽しめます。※予約制

観月舞台の隣には「百体観音堂」があります。ここには西国札所の三十三観音像、そあいて坂東三十三箇所、秩父三十四箇所合わせて百体の観音が安置されています。お堂入口に掲げられている大きな大津絵「鬼の寒念仏」が奉納されています。赤い顔の鬼が僧衣をまとう姿がユーモラスなタッチで描かれ、なんとも愛嬌があって面白い。

大津絵は江戸時代初期に生まれた民画で、元は仏画として描かれ始め、やがて護符としても効能があるとのことで、東海道を旅する人にお土産として大津から全国に広まりました。『鬼の寒念仏』は“小児の夜泣きを止め悪魔を払う”、『藤娘』は“愛嬌加わ治良縁を得る”といったように、江戸後期には10種の絵柄が護符として売られていたとのこと。

観音堂のあるところから一段上に上がったところにある展望広場からは、観音堂、百体観音堂、観月舞台等が並ぶ札所伽藍が一望でき、さらにその奥には大津市街そして琵琶湖を望むことができます。

観月舞台を望遠で撮影してみました。舞台の床にアクリル板が敷かれ、水面のように景色が映り込んでいるのがわかります。

観音堂から長い石段を下り長等神社に出ます。かつてはこちらから参拝する方が主だったようです。長等神社は天智天皇6年(667)の御代、近江大津京鎮護のため長等山の岩座谷の霊地に須佐之男大神を祀ったことを起源とする1300年の歴史を持つ神社です。貞観2年(860)円珍が園城寺の守り神として日吉大神を祀ったといい天喜2年(1054)庶民参詣のため山の上から現在地に移りました。社名を延暦寺の鎮守社である日吉大社に対応して新日吉社としましたが、明治時代の神仏分離の中で園城寺から独立し明治16年(1883)に、名称を長等神社としました。

豪華な朱塗りの楼門、全国的のも珍しい五間社流造の本殿、それを取囲む回廊など見所の多い神社です。社殿は南北朝時代の建武3年(1336)に戦乱に巻き込まれて焼失するも暦応3年(1340)に足利尊氏によって再建されます。

境内には平清盛の異母弟平忠度の歌碑

明治23年(1890)に作られた琵琶湖第一疎水近くの「三尾神社」に参拝していきます。以前ウサギ神社とし名高い大阪の住吉大社、奈良の三輪大神、京都の東天王岡崎神社に参拝しましたが、滋賀県のウサギ神社はここ「三尾神社」です。

卯年まいり!うさぎ神社に詣でる大阪・奈良・京都の三都物語」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/10272

昔、長等山の山頂に腰に赤、白、黒の三つの帯を付けた伊弉諾尊が降臨し長等山の守護神となられました。腰に付けた三つの帯が尾に見えたためにこの神は三尾明神と名付けられました。

ある時、その三つの腰帯が赤尾神・白尾神・黒尾神になり、赤尾神が本神として長等山の琴尾谷に現れました。白尾神は大宝年間(701-704)に現三尾神社の地に、黒尾神は神護景雲3年(769)に鹿関(現長等小学校東側)に出現しました。本神が卯の年、卯の月、卯之日、卯の刻、卯の方より出現されたため、ウサギは三尾神社の神使とされ、三尾神社のご神紋も「真向きのうさぎ」となっています。

創建は貞観元年(859)。三尾明神を園城寺の円珍によって赤尾神が現れた園城寺の境内の西方、琴尾谷に園城寺の鎮守として祀ることとし社殿が建立されました。その後北院の鎮守は新羅社(現・新羅善神堂)、南院の鎮守は三尾社となりました。明治時代の神仏分離から三尾社は明治9年(1876)に社地を園城寺境内から白尾神ゆかりの現在地に移し本殿なども移築し、三尾神社として独立しました。室町時代、応永33年(1426)に足利義時が現在の本殿を再建し、慶長年間に豊臣秀吉が社殿の修理を加えさせたと伝わります。拝殿の右側には「めおと卯」と名付けられたなんとも可愛らしい二羽のうさぎが奉納されています。

創建時の物語から境内のあちらこちらに石造や彫刻が存在します。門をくぐる手前には波の上に乗って元気に跳ねる手水のウサギ。

門をくぐった先にも可愛い親子のうさぎが置かれています。

本殿を取り巻く透かし塀の瓦のもうさぎがデザインされています。境内のあちこちにウサギをモチーフにしたものがあるとのことで隠れウサギを探すのも楽しみな神社です。

琵琶湖疎水沿いを再び歩いて三井寺駅に戻ります。

三井寺駅から路面電車に乗って終点・石山寺駅に向かいます。

水の都・大津で路面電車に乗って古寺巡礼さくら旅。石山寺編」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/11101

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