
信濃制覇のため武田信玄と、北信濃の領有を争った北信濃の豪族・村上義清の助けに応えて立ちあがった上杉謙信との天文22年(1533)から5度にわたって繰り広げられた戦いが世に名高い「川中島の合戦」です。5回の合戦のうち最も激しい戦いが繰り広げられたのが、永禄4年(1561)に起こった第4次の戦い。長野市川中島・松代エリアには、八幡原史跡公園をはじめとする川中島の合戦・伝説の地が残り、数々の物語を生んだ第4次の戦いを軸に歴史散策を楽しむのはいかがですか。
永禄4年(1561)8月中旬、上杉謙信は信玄を討つべく、飯縄大権現を奉じて善光寺に1万8000の兵を集結。善光寺に5000の兵を残し、川中島の南、松代町の「妻女山」に1万3000の兵を率いて陣を張ったのです。上信越自動車道長野ICから国道406号で千曲方面に走った所にある妻女山は、標高370m、北信五岳を望む眺望が素晴らしい千曲川南岸に位置する小高い山で“信州サンセットポイント100選”のひとつになっています。展望はよくここで武田方の海津城(松代城)の動きをうかがい、夜襲をかけるであろうことを見破った場所で、現在は善光寺平や北アルプスを見張らせる展望台もあります。
登る途中、山の西側には謙信が槍尻で地面を突いて泉ができたという伝説をもつ「謙信の槍尻之泉」があります。
これに先立つこと弘治元年(1555)、川中島の合戦が続くなか、信玄は善光寺の御本尊や什宝、寺僧など、善光寺を組織ごと甲府に移しました。これが甲斐善光寺の始まりで、武田家滅亡後、織田、徳川、豊臣と奉られたのち、信濃へ戻ったのは42年経ってからのことであった。
謙信出陣の知らせを受けた信玄は、8月16日甲斐を発ち、8月24日2万の兵を集めて上田を経て、川中島西の茶臼山に陣を張る。その後八幡原を横断して「海津城」に入ったのです。上杉謙信との戦いに備えて信玄の命により、川中島の合戦の要衡として、永禄2年(1559)から3年かけて山本勘助に築かせたとされる海津城(元和8年真田信之が城主に任じられ正徳元年(1711)松代城と改称)は、一説には、当時滔々と流れる千曲川を海に見立て、名付けられたとも言われています。
この第4次合戦も当初は過去3回と同様「にらみ合い」でしたが、対陣20日あまり、ついに「動かざること山も如し」を座右の銘とする信玄のほうが先に動いたのです。軍記物語「甲陽軍鑑」では、信玄の軍師、山本勘助が考案した「啄木鳥の戦法」により9月9日、夜陰に乗じ、武田軍が動きます。「啄木鳥の戦法」とは、本軍2万を本隊8000と奇襲隊12000に軍を二手に分け、奇襲隊は夜陰に乗じて謙信の本陣妻女山を襲い、本隊は八幡原に布陣して、驚き慌てて妻女山を駆りだされた上杉軍を待ち伏せして挟み撃ちにして討ち取るというもので、当時キツツキはそのようにして虫を食べるものと考えられていたました。この時、写真の八幡社の境内に武田信玄は本陣を構え、八幡大神のご加護を受けたといいます。現在信玄が本陣を置いた八幡原は、緑豊かな史跡公園として整備されています。
時を同じくして謙信は海津城に炊煙が上がるのを見、啄木鳥戦法による信玄の奇襲攻撃を看破し、妻女山に本陣があるように偽装して秘かに山を下りました。謙信が八幡原の信玄を攻め入るために千曲川を渡った渡船場跡が「雨宮の渡し」です。今は流れが変わり千曲川は北に移り、昔日の面影はありませんが、江戸後期の儒学者の頼山陽は謙信の心情を「鞭聲粛粛夜河を過る・・・」と詠い、その句碑が置かれています。
決選が行われた9月10日早朝は、朝から深い霧が立ち込めており、このため謙信軍1万3000は、少しも怪しまれず武田軍に接近し八幡原に布陣できたのでした。そして謙信は、卯刻(午前6時)、八幡原に立ちこめていた霧が晴れると一斉に出陣し合戦の火蓋が切って落とされました。この時、本陣を中心として各隊が放射状に並び、風車のように回転しながら次々と攻撃する上杉軍の「車懸の陣」に対し、武田信玄は鶴が翼を張ったように12段の陣を構え、敵を囲むように攻撃する「鶴翼の陣」で応戦しました。
激烈を極めたこの戦いで、副将格の武田信玄の弟・武田典厩信繁、諸角豊後守虎定らが討ち死にし、啄木鳥の戦法を見抜かれ、窮地に陥った武田軍に責任を感じた山本勘助も上杉軍に攻め入り、討ち死にしたといわれます。しかし信玄はしぶとく生き残り、妻女山奇襲隊が戻ってきたところで戦況は逆転し、謙信は断腸の思いで退却を命じました。武田軍、上杉軍合わせて8000以上の兵が戦死したのです。
そして謙信が最後の最後に唯一騎、信玄の本陣に斬り込んだというのもこの時です。信玄の陣営に突入した謙信は、信玄に斬りつけます。信玄は太刀を抜く間もなく、軍配団扇で太刀を防ぎました。謙信は信玄の首を逸し、信玄は謙信の必殺の太刀から免れたのです。「八幡原史跡公園」として整備された第4次川中島の合戦の戦場となった川中島古戦場跡には、騎乗のまま斬りかかる謙信、座ったまま軍配でそれを受ける信玄を描いた「一期討ちの像」があり、その脇には、武田軍の「風林火山」、上杉軍の毘沙門天の「毘」の旗印が掲げられていて、臨場感溢れています。
また馬上の謙信が信玄めがけて三太刀まで浴びせたところ、信玄の軍配には七太刀受けた跡が残っていたという伝説に由来する「三太刀七太刀之跡」の石碑、謙信を取り逃がした武田軍の原大隅守が無念に思い傍らの石を槍で突き通したという伝説を持つ「執念の石」などが残っています。
千曲川に架かる松代大橋の袂には、武田典厩信繁の墓がある「典厩寺」があります。この寺は、創建(1500年頃)当時、鶴巣寺と称していました。第4次川中島の合戦の際、武田信玄の弟、武田信繁はこの寺を典厩本陣として出陣しましたが、この激戦で惜しくも37才で討死し、この寺に埋葬されたのです。その後、初代真田藩主真田信之が菩提を弔うため、その名前をとって「典厩寺」と改められました。
武田の副将であり、信玄の片腕として活躍し稀に見る名将であった武田典厩信繁。特に武田騎馬戦を強くしたので武田軍は大変恐れられました。墓の横には典厩信繁公の首洗い井戸もあります。有名な真田幸村の本名は、武田信繁公の知性・武勇にあやかって父昌幸が真田信繁と名づけられました。信繁公の墓の一番左側には兄の信之が建立した幸村の五輪供養塔があります。
また松代八代藩主真田幸貫により、川中島合戦戦死者8000余名を供養した高さ5mの日本一大きい「閻魔大王像」が安置されています。屋根に武田菱をあしらっていることからも信仰の厚さがうかがえます。
激烈を極めたこの戦いで、八幡原史跡公園の近くには討死した武田方の武将の墓が点在しています。軍略に優れた名参謀として武田信玄を助けた山本勘助は、自らが策した戦法が破れて討死しました。「山本勘助の墓」は三河をはじめ富士、豊川など各地にあるといわれていますが、信州では千曲川を挟んで八幡原史跡公園の対岸の河川敷にある畑の中にぽつんと立っています。現在地よりやや南の勘助塚にあった勘助の墓は、1793年遺骨とともに現在の位置に移されました。勘助の墓があるかつての広瀬の渡しに建つ信州柴阿弥陀堂は信玄が戦勝祈願し、また建て替えも行っている縁の深いお堂です。車は入れませんので国道403号柴の交差点近くの旧金井山駅に停めて歩くこと約10分です。
また少し離れた南長野バイパス近くの塔之腰にあるのが「諸角豊後守の墓」です。諸角豊後守は81才という最古参での出陣でしたが、典厩信繁の死に激怒し、敵陣に突入し討死してしまったのです。今も地元では「もろずみさん」の愛称で親しまれています。
信玄、謙信の北信濃の熾烈な戦いである川中島の戦いのゆかりの場所は、門前町の賑わいが残る仏都・長野の善光寺門前、そして質実剛健な城下町風情が残る松代と、信州で訪れたい観光地のひとつが控えるこの地に残っています。戦国時代、武田信玄が上杉謙信との戦に備え築城した「海津城」は、江戸時代の元和8年(1622)真田信之が信州上田から松代城主に任じられ真田氏の居城となり、正徳元年(1711)松代城と改称され松代十万石の城下町として栄えました。以前は石垣を残すだけとなっていましたが現在は史跡公園として整備され、太鼓門などが復元されています。春には見事な桜の競演がみれますよ。真田公園にある松代観光案内所では、レンタサイクルを利用することができ、ご紹介した史跡を巡る風林火山コースはいかがでしょう。サイクリングで2時間程度の距離です。
松代へは自家用車はもちろん、長野駅からアルピコ交通バス松代線で約35分で松代駅バス停に到着します。また途中八幡原史跡公園のある川中島古戦場バス停で降りることもできますよ。
最後に作詞 野村俊夫 作曲 古賀政男 歌手 杉 良太郎の「霧の川中島」を紹介しておくと
人馬声なく 草も伏す 川中島に 霧ふかし
聞ゆるものは 犀川の 岸辺を洗う せせらぎぞ
雲か疾風か 秋半ば 暁やぶる ときの声
まなじりさきて ただ一騎 馬蹄にくだく 武田勢
鞭聲粛粛夜渡河 暁見千兵擁大芽 遺恨十年磨一剣 流星光底逸長蛇
車がかりの 奇襲戦 無念や逃す 敵の将
川中島に 今もなお その名ぞ残す 決選譜
歴史散策の最後の締めくくりは温泉です。最近人気の国民宿舎「松代荘」は、成分の濃さと、鮮度、湧出量で群を抜く、最高の泉質。松代荘から500m、尼飾山の麓より湧きだします。その昔、日蓮聖人が浴され、また、川中島の合戦のときには、武田信玄の「隠し湯」として兵士の傷と疲れを癒したという由緒ある名湯。もとは加賀井温泉と呼ばれていましたが、現在は松代温泉「松代荘」と加賀井温泉「一陽館」とに名称が変わっています。どちらも泉質は含鉄-ナトリウム・カルシウム-塩化物泉で、源泉掛け流しの湯のにごり湯が浴槽にあふれている。疲労回復に効果があるとされる炭酸ガスの含有量が基準値の約3.4倍、また精神安定効果があるとされるリチウムは約5.5倍もあるのである。川中島合戦巡りで傷ついた?身体には最高です。