紅葉の日本遺産『大山詣り』で大山寺と阿夫利神社の神仏両詣

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神奈川県の中央部、丹沢大山国定公園内に霊峰・富士を背後に、丸みを帯びた端正な裾野を広げた三角形の美しい山容を誇る大山があります。山岳信仰の霊山として、今でも多くの信者が参詣し、古くからの門前町の情緒がそこかしこに残っています。そんな大山で有名なのが、山腹の名刹大山寺にある希少なモミジ“大盃”、色鮮やかな深紅に染まる紅葉を見にいきます。

大山への信仰は古く、奈良時代には山中に霊山寺(現・宝城坊)、石雲寺、そして奈良の東大寺を開いた良弁僧正によって雨降山大山寺が開かれ、平安時代に作成された延喜式神名帳に記される阿夫利神社などが成立しました。古代から霊山として崇められた標高1252mの大山は別名「雨降山」と呼ばれ、水を司る神として雨乞いや五穀豊穣、商売繫盛を願う多くの庶民が大山詣りに訪れました。また江戸庶民が愛した大山詣りは、職人たちが巨大な木太刀を江戸から担ぎ、滝で身を清めてから奉納するという、他に例をみない庶民参拝でした。

庶民が歩いた関東から大山へ続く道は「大山道」と呼ばれ、江戸を出発した参拝者は相模湾を左に、はるか向こうの富士山が背後に見える大山を目指して江戸からの距離70kmの歩をすすめました。歩を進めるほどに大きくせまり、相模平野にひときわ存在感を放っています。参拝道は東西南北いくつものルートが整備されましたが、江戸城の赤坂御門を起点として三軒茶屋、長津田、厚木へとつながる現在の国道246号、通称“ニー・ヨン・ロク”の青山通りこそ江戸時代、もっともポピュラーであった大山街道“矢倉沢往還”でした。また藤沢を起点に相模川沿いの田村宿、伊勢原へと続く“田村道”も江ノ島や鎌倉に直結する道として人気のル-トで往復ともに利用する者が多かったといいます。

“入り鉄砲に出女”と、領地からの出入りが厳しく規制された江戸時代、庶民の旅行も簡単には許されませんでしたが、寺社参りだけは別もの、しかも途中に関所(箱根)がない大山参詣は、江戸中期以降、庶民の間で多いに流行しました。“講”を作り、行楽をかねて大山にむかった道中は、歌舞伎や浮世絵にとりあげられ、江戸の人口が100万人の頃、最盛期には年間20万人もの参拝者が訪れたといいます。

さて長野を4時に出て6時半に伊勢原市営第二駐車場に到着するもすでに満車で仕方なく200mほど下った「良弁滝」前の駐車場に停めます。(一日1000円)天平勝宝7年(755)大山寺を開山した良弁僧正が最初に水行した滝といわれています。

千代見橋を渡り階段362段、踊り場27段が続く「こま参道」を上っていきます。踊り場には大山こまを描いたタイルが貼られ、その数の組み合わせで今何段目の踊り場にいるのかわかる仕組みになっています。

地元の木地師によってつくられた大山こまは金回りが良くなるという縁起物で、参拝客が土産に買い求めました。現在、バス停から大山ケーブルカー駅へ至る参道は「こま参道」と呼ばれ、参道の両側に宿坊のほか、とうふ料理が味わえる茶店、大山こまが買える土産物店やこま工房などが並んでいます。

大山ケーブル駅から阿夫利神社下社までは3通りの行き方があります。①約6分のケーブルカーで行く②男坂を上る③女坂を上るですが、まだ時間が早いこと、中間の大山寺駅にもなっている大山寺を目指すため女坂を上ります。女坂には七不思議のいわれがあります。

大山での紅葉の見どころは、真っ赤なトンネルと化す参道の石段で大山随一の紅葉スポットです。本堂前の石段を枝が覆うオオモミジの一種「大盃」は京都高尾の神護寺から分けてもらったというもので、育つ土地によって葉の色づきが変わると言われています。大山寺の紅葉は深い紅のように色づくのが特徴で鮮やかです。

奈良時代聖武天皇の勅願を受け、開山良弁僧正を一世、三世住職に弘法大師が就いたととも言われる大山寺はかつて、僧坊18箇所を有する霊山の中心地として下社のある場所に佇んでいましたが、神仏分離を機に現在地に移ったといいます。明治18年(1885)再建の本堂は20km圏内の村々から材木が寄進されました。

神仏分離以前は山上の石尊大権現の本地仏とされていたご本尊の鉄造不動明王像は文永年間(1264~1275)に願行上人自らが砂鉄を集め、たたらを踏んで鋳造したと伝わり、「大山のお不動さん」として親しまれ、関東三大不動のひとつでまた関東三十六不動の一番札所になっています。

かわらけ投げは300円。皿を投げたり割ったりして厄を落とします。

女坂を上り切った先に「大山阿夫利神社下社」があります。2200年前の紀元前97年頃創建と伝わる大山阿夫利神社の拝殿である下社は標高700mの中腹に鎮座します。大山は阿夫利山ともいい、関東平野の西にそびえる大山から湧く雲が雨を降らすと信じられ、雨降山は転じて阿夫利山と呼ばれるようになったといわれます。

下社への階段を上がった下社前には納太刀を持った白装束の大山講参詣者の銅像が立っています。大山講の一行が肩に担いで運んだ巨大な木太刀は、源頼朝が武運長久を祈願して大山寺に自らの太刀を奉納したことに由来します。参拝者は山の中腹にある滝に打たれ、身を清めてから参拝しました。大きな太刀を手に滝に打たれる姿は、歌川豊国の浮世絵「大當大願成就有が瀧壷」に描かれたりしていて、大山詣りの様子は歌舞伎や浄瑠璃、落語などの題材となり、多くの人の興味を誘いました。

大山阿夫利神社下社からの眺望は、ミシュラン グリーンガイドで2つ星に認定された絶景、遠くに相模湾や江の島、房総半島を望むことができます。

国を護る山・水の神である大山祇大神、水を司る高龗神、火災盗難除けの御利益を授ける大雷神の3神を祀ります。大山祇大神は、富士山に祀られる木花咲耶姫の父神であることから、大山に登らば富士山に登れ、富士山に登らば大山に登れと言われるほどで、当初は片詣りだけでは縁起が悪いとされ、両方を参詣するのが正式でした。そのため富士山に参れない人の為富士塚が作られたといいます。しかし江戸中期には、江ノ島弁財天に手を合わせれば解決ということになり、より近い江ノ島に足を運ぶことが慣習化して片詣りも解決し、帰路、鎌倉や金沢八景などの物見遊山が流行ったとされます。

下社拝殿左手にある登拝門から標高1252mの山頂に鎮座する本社を目指します。手前には手水舎と幣が置かれた床机があり、参詣登山者はここで身を清めてから門を潜ります。江戸時代入山が許されたのは夏の山開き大祭期間の一時期のみで期間外は固く閉ざされ、登拝は禁止されていました。今はいつでも登れますが、山開き以外の時期は参道の門が半分閉ざされています。

登拝門から山頂の本社まで続く本坂(表参道)には109mおきに道標として丁石が置かれています。1丁目が登拝門、8丁目が左右同形の巨木で樹齢500~600年の縁起の良い夫婦杉です。9丁目あたりまで登ると針葉樹の巨木が目立ち始め、いかにも神域らしい清浄な雰囲気が立ち込め始めます。山頂が28丁目という具合に山頂や下社までの距離が目視できるので、ペース配分にとても便利です。

本坂には牡丹岩天狗の鼻突岩といった珍しい岩がああったり、20丁目での富士山の眺めが素晴らしい富士見台を経て1時間半ほど、鳥居をくぐり最後の石段を登ると山頂に到着します。富士見台では富士山を正面に表丹沢や天城の山々を眺められ、江戸時代には茶屋も置かれていたとされる絶景ポイントです。

山頂からはかながわの景勝50選のひとつである色づく丹沢山系や遮るものなく海まで続く相模平野、相模湾と江ノ島、三浦半島、伊豆半島などの大パノラマが一望できます。本社社務所には茶店やベンチもあり、のんびりと景色を楽しみつつ休憩できます。

下山は本来は大山阿夫利神社下社まで休憩広場のある見晴台を経由して大山詣りの禊の場でもある二重滝までくだり、ほどなく下社に戻るのですが、途中に鎖場があることから妻が不安視したためそのまま来た道を下ります。登ってきた時とはまた違った景色で、道の両脇から木々が覆いかぶさり、心地よい緑陰を作っています。鳥のさえずりも気持ちよく、自然の豊かさが実感できます。

本社への参詣で往復3時間の登山で疲れ切ったからだを癒すべく、2018年に下社客殿に誕生したカフェ「茶寮 石尊」で寛ぐことにしました。テラス席のほか国産杉材の天井や床が心地よいテーブル席が完備されています。

あいにく、ミシュラン2つ星の絶景を一望できるテラス席は空いていませんでしたが、心地よい個室のような空間でひと時を過ごせました。

三軒茶屋の前をケーブルカー乗り場に向かいます。昭和6年(1931)に開設、戦時中に一時閉鎖していたものの昭和40年(1965)に再開した大山ケーブルカーは、標高差278m、平均斜度22度の急勾配を約6分で結び、途中の4大山寺駅で上下線がすれ違います。2015年開業50周年を機に車体がリニューアルされ、大きな窓が自慢で景観の良さも楽しみの一つになりました。

大山の麓には宿坊が並び、講中を出迎えています。宿坊は宿泊や道案内などの世話を一切担う御師(現在の先導師)の自宅を兼ねていて、参道沿いに今も約40軒が残っています。江戸時代の庶民は、近所や同じ職業の人たちで講(団体)をつくり、その中から代表者数人が選ばれ、大山に参詣しました。先導師はその大山の人々と神社をつなぐ旅行のコーディネーター的役割を果たしていました。講中だけでなく一般客でも宿泊や食事ができ、大山名物となっているとうふ料理は、各地の講から奉納された大豆と地元の清水で作ったのが始まりと言われます。

お昼はその大山名物とうふ料理をいただくべくこま参道沿いのお店を物色していたところ、大山とうふ料理発祥のお店と書かれた「和仲荘」さんに飛び込みました。約360年前から大山詣りの人々を世話する先導師を務めた宿坊が前身で今は料理のみを提供しています。

メニューはコース料理で3・5・7品の3種類で、3品だとごまどうふ、山かけとうふ、蒸しとうふの3品です。5品だととうふグラタンなどがつき、多彩な料理で大山とうふのおいしさを教えてくれます。

昔は阿夫利神社に参り、平塚で精進落としをし、江ノ島で遊んで帰るというのが一般的だったそうですが、精進落としとまではいかないまでも最後の〆はいつも通り入浴Timeで大山参道から車で11kmほどのところにある「七沢温泉 七沢荘」に立ち寄り湯となります。

pH9.8アルカリ性のとろりとした柔らかい湯が特徴で、開湯は江戸時代、幕末には3軒の湯宿があった天然温泉の湯治場です。ここで精進落としもどきを行って長野に帰ります。

 

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