
信州上田といえば真田氏ゆかりの地として広く知られ、「表裏比興の者」と呼ばれた名将真田昌幸が天正11年(1583)から約2年かけて築城し、大軍の徳川勢をわずかな手勢で2度も退けた戦歴のある上田城があります。現在は城跡公園となり、上田城跡を中心とした公園には、ソメイヨシノやシダレザクラ、ウコンザクラなど約1000本の桜が名城を埋め尽くすように咲きます。桜は園内いたるところで見られますが、とりわけお堀から続く桜並木や東虎口櫓門脇のシダレザクラが見事です。乱世を生き抜いた歴史舞台にふさわしい見事な城と桜が織り成す景色を、ゆっくりと味わいましょう。
最寄駅であるJR上田駅お城口前の広場に建つのが若き日の「真田幸村公騎馬像」です。築城400年を記念して建立されたもので、幸村が上田城にいたのは青年期であったため像は若武者の姿をしています。これから向かう上田城への気分が盛り上がります。※現在は上田市観光会館に移設
上田城は天正11年(1583)、知将真田昌幸によって、徳川家康の支配のもと上杉謙信への備えてとして、規模は小さいものの、南には水量豊かな千曲川に削られ緩やかで深みのある天然の堀となる「尼ヶ淵」と呼ばれる断崖があり、矢出沢川、蛭沢川を改修して外堀に利用するなど、地形を巧みに使って築城された上田盆地の中央に位置する平城です。そのため「尼ヶ淵城」とも呼ばれていました。7千余の徳川軍を2千人足らずで撃退した第一次上田合戦、されに15年後の慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで上田城に籠り、わずか2千5百人で徳川秀忠率いる3万8千人の東山道進軍を阻止した第二次上田合戦と、2度にわたり徳川の大軍を撃退した実践経験のある城は全国にも他に例はありません。
JR上田駅から中央通りを直進し、市役所方面に向かって15分ほど歩くと上田城跡公園の二の丸橋に着きます。上田市役所前の道には道路沿いに真田十勇士が描かれた説明版が並んでいます。真田十勇士は大坂の陣で活躍した真田幸村(信繁)に仕えたとされる、10人の架空の忍者・家臣団です。
桜の時期には樹齢100年に近い古木から3年の若木まで、およそ1000本の桜が咲き競います。とりわけ、公園入口にあたる二の丸掘跡のケヤキ並木遊歩道に沿って植えられた桜並木と掘の周囲にめぐらされた桜の艶やかさは、歩いているだけで全身が桜色に染まりそうです。二の丸橋標柱に描かれた顔文字は「2のマルハシ」と刻まれています。
けやき並木遊歩道となっている二の丸堀跡は、二の丸をかぎの手に囲んで、その延長は646間(1163m)あり、上田城の堅い守りに役立っていました。その後昭和3年(1928)に上田交通の傍陽線が敷設され、昭和47年(1972)まで電車が走っていました。右奥に見える階段がプラットフォーム跡です。

二の丸虎口
上田城の堀は素掘りで、掘りあげた土をその内側へ堤状に積み上げて土塁としています。お城の堀をめぐるようにソメイヨシノの桜並木が続き、桜の花が水面に映る姿が美しい。また散った花びらがお堀の水面に向かいハラリと優雅に舞い落ちる姿や、花の透き間にけむる櫓の風情も素敵です。
本丸土塁の隅欠(すみおとし)上田城や藩主屋形(上田高校)の土塁、堀、城下の寺社の配置等には鬼門除けが見られ、真田氏の頃から設けられていたものとされます。鬼門とは北東の方位で、鬼が出入りする方角として忌み嫌われ、建物等の東北の角をなくして隅欠としたり、城下町の鬼門に寺社を置いたりしました。上田城本丸の土塁は東北の隅を切りこみ、櫓2棟をその両脇に配置していました。堀や土塁の斜面が内側にへこんで見えるのはそのためです。ここから北東を望むと、真田氏の支城となっていた砥石城、上田城に移る前の本拠地であった真田本城が見えます。
写真は二の丸橋あたりから桜越しに櫓門を挟んで北櫓と南櫓を撮影したもので撮影スポットになっています。櫓門に近い桜はエドヒガンザクラです。本州・四国・九州に分布する野生種で、花期が早く、関東地方で彼岸のころに咲くことからこの名前がつきました。
上田城のシンボルは東虎口櫓門とその両脇の南と北に建つ櫓です。平成6年(1994)に再建され、両脇の南櫓と北櫓は明治年間に上田遊郭に払い下げられていたものを昭和18年(1943)から昭和24年(1948)にかけて再移築したものです。かつて本丸には櫓門2基、隅櫓7基がありましたが、現在は隅櫓3基と櫓門1基を見ることができます。日本百名城のひとつに選ばれています。
昭和24年(1949)に南櫓と北櫓が移築復元し、平成6年(1994)には、明治12年(1879)に解体されたという櫓門を撮影された古写真をもとに建物の寸法を割り出して約110年ぶりに城門が復元され、かつての東虎口櫓門の姿が甦りました。虎口とは、城の出入口のことで、どっしりとした風格ある佇まいです。内部は火縄銃や真田氏をはじめ歴代上田城主の資料が展示されています。2009年公開アニメ映画「サマーウォーズ」で陣内夏希の実家、陣内家16代当主が守る家の門として東虎口櫓門が描かれていました。
向かって右の北櫓門前で枝を揺らすシダレザクラは必見です。堂々たる門と優美な桜との記念写真のベストポジションでもあります。
運がよければ「信州上田おもてなし武将隊 真田幸村と十勇士」の面々が旅の思い出づくりをお手伝いしてくれます。毎日2回、上田城跡公園に出陣する他、土日には上田城本丸跡で演舞を披露しています。城内のガイドや記念写真の撮影にも気軽に応じてくれます。撮影の合言葉は、「さなだっ、じゅうゆうしっ!」です。上田城にはためく幟に描かれているのは、真田氏の家紋「六文銭」(六連銭)です。六文銭は三途の川の渡し賃として棺桶にいれる六道銭のことです。ほかにも必ず帰ってくるという願いを込めた「結び雁金」や氏神・白鳥神社の社紋でもある「洲浜」があしらわれています。
櫓門の石垣にはめ込まれた巨大な石が「真田石」です。真田信之が松代移封の際に父の形見として持ち去ろうとしたが、不動であったとされる伝説の直径3mの大石です。自分の背と比べてみて下さい。城内の石垣に使われた石材の大部分は、市街地北方にそびえる太郎山から産出される緑色凝灰岩を使用しています。
門をくぐってすぐ城内には、真田昌幸と長男信之を主神として、仙石氏三代・松平氏七代に至る両家の歴代上田城主を祀る「真田神社」があります。徳川の大軍を撃退した「不落城」にあやかり落ちない神社として受験生に人気ですよ。
真田神社の裏手には、戦国ロマンをかきたててくれる「真田井戸」と呼ばれる八角形の古井戸があります。本丸唯一の井戸で、直径2m、深さは16.5mに達するこの井戸には抜け穴があり、城北の太郎山麓の隠し砦や上田藩主居館に通じていて、敵に包囲されても容易に出入りできたという伝説があります。
土塁で囲まれた本丸跡には石碑が建ち、ヒガンザクラが植えられています。花期が早く、春の彼岸の頃咲くのでこの名前が付きました。
西櫓から二の丸西虎口に向かう堀沿いには上田城跡公園内で最も多くみられるソメイヨシノが植えられています。江戸時代に染井村(現在の東京都豊島区)で生まれたと考えられる日本産の園芸品種です。
本丸西虎口から西櫓脇の急な階段を下って南側の尼ヶ淵に向かいます。関ヶ原の戦い後、真田昌幸の嫡男信之は上田など真田領は安堵されましたが、上田城は慶長6年(1601)に破却されました。元和8年(1622)信濃国松代への転封により小諸城主の仙石忠政が入封し、上田城は寛永3年(1626)から現在の姿に大改修され、本丸には7棟の櫓があり上田城復興工事の際に建てられました。西櫓のみが寛永期の建築当初の部材を残し、外観もほぼそのままの姿を残しています。
櫓の構造は桁行5間、梁間4間の二重櫓で、主要材は松と栂です。屋根は入母屋造で本瓦葺き、外壁は下見板張りとし、その上から軒の部分までを白漆喰の塗籠(ぬりごめ)としています。これは寒冷地の城に多くみられる初期城郭様式ともいわれています。窓は武者窓という形式で、突き上げ戸が取付けられており、棒で突き上げてすばやく開けられるようになっています。1階の狭間は、いずれも下方の敵を狙いやすいよう低い位置に開けられています。南・北面では左かえら縦長の矢狭間が一つと正方形に近い鉄砲狭間3つが並んでいます。また西面では、左側に矢狭間が一つ、その右に鉄砲狭間が並んで配置されています。
かつて城の南には千曲川が流れ、「尼ヶ淵」と呼ばれる緩やかで深みのある流れが天然の堀となっていました。断崖絶壁となっていたため、上田城のなかで最も防御が強固な部分でした。そそり立つ石垣とその両端に置かれた西櫓と南櫓を見上げます。尼ヶ淵の駐車場、東の端にある公園管理事務所付近は、一度に3つの櫓を見上げることができる絶好の撮影スポットになっていますよ。
昔の尼ヶ淵はいまは南駐車場と芝生公園になり、石垣の手前に咲く桜はヤマザクラでソメイヨシノの登場前は、サクラといえばヤマザクラのことを指していました。
本丸南櫓下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれています。中段石垣は長雨により一部崩落したことから修復工事が実施されています。
上田城主は宝永3年(1706)仙石政明が但馬国出石の松平忠周と5万8千石の所領交代となり、藤井松平家が明治維新まで7代続きました。
中央通りに戻って池波正太郎真田太平記館によっていくのもいいでしょう。『真田太平記』の作者・池波正太郎と、歴史上の真田氏の魅力を伝えるため建てられた上田市の施設で池波正太郎ゆかりの品や真田氏関連の資料を展示しています。池波正太郎は、『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『鬼平犯科帳』など、江戸時代の小説を多く手掛けました。「東京にいて、折にふれ、上田の人々の顔をおもい、上田の町をおもうことは私の幸せである」と、上田を第二の故郷といった池波正太郎が取材のために度々訪れて執筆された代表作『真田太平記』などの自筆原稿をはじめ、スケッチや愛用の万年筆などの遺品を展示しています。

2026/4/8再訪