産地で満喫!800年を遡る宇治茶の里、京都府和束町と宇治市へ

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『夏も近づく八十八夜』と『茶摘』にあるようには新緑の5月は、おいしい一番茶が出回る新茶の季節。日本人のおやつに、食後に、自宅でリラックスするときにも欠かせないおいしくて癒されるお茶に注目です。その味わいは風土に根差し、生産者のこだわりも相まって様々な個性が生まれます。知るほどに奥深さが増していく日本茶の産地を訪れてお茶を味わい、新茶満喫の旅に出ます。行き先は、日本を代表するお茶であり、約800年の歴史を持つ宇治茶。新茶のシーズンを迎え華やぐ茶畑の景観が見事な宇治茶の主産地・和束町と老舗の茶屋が軒を連ねる宇治を訪ねます。

茶は鎌倉時代の初め、臨済宗の開祖・栄西禅師が中国宋からお茶の種子を持ち帰って栽培方法を日本にもたらし、明恵上人が里人に教え京都を中心に茶の栽培が始まりました。宇治周辺の環境が適していたことからこの地で茶の栽培が盛んに行われるようになったといい、足利将軍家や豊臣秀吉などの保護を受け発展。16世紀には千利休らの要望で「覆下栽培」という覆いにより甘味を高める碾茶の栽培方法が確立し抹茶が誕生。17世紀、黄檗山萬福寺を開いた隠元禅師は、乾燥茶葉に湯を注いで飲む「淹茶法」を伝え、江戸時代中期の天明3年(1738)には永谷宗円が、蒸した茶を揉みながら乾燥させる煎茶の製法を生み出しました。香り高くマイルドな味わいが特徴の宇治茶は今に続く“日本茶のふるさと”ともいえる存在で、静岡、狭山と合わせ日本三大茶とされます。

歴史ある茶舗が多く並ぶのは宇治市ですが、作っているのは周辺の山間部を含む山城地域で、代表的な産地として知られるのが和束町。京都府の南部に位置する和束町は、小さい町ながら京都府の茶生産量の約半分を占め、“茶源郷”との別名をもちます。鎌倉時代(1192年~1333年)に海住山寺の高僧“慈心上人”が茶の種子を分けてもらい、育てるのに最適な場所として植えたのが和束茶の始まりです。また生産量だけでなくそに品質の高さも認められていて、煎茶などの高級茶の産地として名高く、江戸時代には皇室領となり、当時より特産化されたお茶は京都御所に納められていました。

おいしいお茶が生まれる環境は、清々しい空気と冷涼な気象、昼夜間の温度差が大きいことが条件です。和束は大きな川と森林があり、朝霧が立ちやすく、この霧が日差しから茶葉をやさしく守り、お茶の旨みを引き出すのです。和束特有の土や土壌条件のなかで丹精にこめてつくられた和束のお茶は、和束茶にしかない香味をもっているそうです。近年は「日本茶800年の歴史散歩」として2015年に日本遺産に認定され、山肌に連なる茶畑の美しい景観に注目が集まり、人気急上昇中の観光地です。写真の石寺の茶畑は和束町を代表する風景。空まで続くような茶畑が広がり、近代的に農園整備がなされた緑の畑に均等の畝が線を描いて山肌を覆う風景はまさしく“桃源郷”ならぬ“茶源郷”。茶農家が守り続ける生業の景観です。

茶畑を眺めながらくつろげる絶好の場所があると聞き、「dan dan cafe」に向かいます。和束町の西端に位置する文化庁選定の日本遺産に認定された「石寺の茶畑」の目の前に広がるカフェ。

茶畑では、作業の準備をする人々の姿が。東西に長い和束町は、西から東へと旬に温かくなるため、早場と呼ばれる西部のこの地域では4月下旬には一早く茶摘みが始まります。このあと東に車を走らせていくのですが、新茶の季節だからと訪れると大間違いで、5月中は黒いシートで覆われています。寒冷紗と呼ばれる黒いシートは日光を遮り、渋味が少なく旨味が強い茶葉へと育つ手助けをするもの。玉露や抹茶の原料となる碾茶などの収穫直前期に用いられるため、高級茶の産地である和束町ならではの季節の風物詩といえますが、新緑の茶畑を見たいなら4月末か6月に訪れてみてください。

cafeでは、目の前に広がる茶畑をゆっくり楽しみながら手作りのランチ「dan dan lunch」がいただけます。この日はチキンカツに小鉢2種とみそ汁、ご飯(豆ごはんに変更)とデザート付きです。

食後に+200円で和束産“和紅茶”で寛ぎます。緑茶と紅茶は茶葉が同じで発酵の度合が違います。近年紅茶の生産に参入する茶農園が増え、製造方法を工夫することで独自の味や風味を生み出してきてます。テイクアウトOkのジェラートも人気です。

車を東へ走らせ「和束茶カフェ」へ。和束町の約30の茶農家が作る約200種の製品がそろいます。近くには古くに手鍬で開墾されたという釜塚の茶畑や茶畑に覆われた安積親王陵墓など、和束町を代表する景色があります。

2023年122月23日「NIKKEIプラス1世界に誇れる国産紅茶」で7位だったのが和束でクラフト紅茶を手掛ける和束紅茶「みき」です。“味わい深く、うまみが非常に強く、飲んで茶のおいしさを実感できる。日本茶のように、茶のうまみや甘みを堪能しながら味わい自体を楽しめる奥深い紅茶”と評価されています。もともとは緑茶用の渋みの強い在来種で作り始め、発酵を長めにして、爽やかな香味が感じられます。

のどかな和束町を満喫したあとは、観光客でにぎわう宇治市の中心部へ。宇治といえば、800年の歴史をもつ茶の文化が欠かせません宇治は和束に比べて茶の生産量は少ないものの、室町時代に足利将軍が指定した茶園で現在も茶の栽培が行われるなど、茶の歴史や文化は色濃い。JR宇治駅近くの宇治橋通り商店街と平等院の表参道には老舗の茶屋が立ち並び、お茶や抹茶のスイーツなど、各店自慢の品々で魅了します。同じ宇治にある茶屋でも、本格的な茶室で抹茶を味わえる店からインパクトのある抹茶パフェが話題の店まで、売りはそれぞれというのも面白く、茶を多彩に楽しむことができる。新茶が売り出される時期は爽やかな新茶の香りがそこかしこに漂い、町全体が活気に満ちています。

まずはJR宇治駅に近い宇治橋通り商店街へ。JR宇治駅東口のそばに宇治市制50周年を記念して設置された「茶壷ポスト」がある。『茶壷に追われてトッピンシャン、抜けたらドンドコショ』の歌で知られる御茶壷道中。これは徳川三代将軍家光の時代、幕府で用いられる御用茶を宇治から取り寄せる際に行われた行列のことで、正式には「宇治採茶使」といい、寛永10年(1633)年から慶応2年(1866)年まで、毎年欠かすことなく続けられました。百数十個にも及ぶ将軍家伝来の茶壷に、最高級の碾茶(てんちゃ)を詰め、東海道、中山道、甲州街道を往来した道中はたいへんな権威のあるもので、紀伊、尾張、水戸をはじめとする大名行列も御茶壷道中には道を譲らなければならなかったといわれているほどです。ちなみに『茶壷に追われてトッピンシャン、抜けたらドンドコショ』の歌詞は、庶民は行列を見ることが許されなかったため、「茶壷が来たら家の戸をピシャッと閉め、過ぎたらヤレヤレと一息ついた」という意味だそうです。

宇治橋商店街通りを「中村藤吉本店」を目指して歩く。宇治抹茶スウィーツと言えば「抹茶ゼリイ」。そして有名なのが中村藤吉本店です。安政元年(1854)創業で「永代日記」と題された古文書によると、初代中村藤吉は宇治御物茶師・星野宗以のもとで修行し、宇治の地に「中村藤吉商店」を開業。勝海舟から賜った「茶煙永日香」を家訓に掲げ、天皇陛下に御茶献上、茶道御家元より茶銘を頂戴し、茶業一筋に営んできているとのこと。明治時代築の伝統的な茶問屋の建物を利用した店舗の「中村藤吉本店」の暖簾をくぐります。

製茶工場を改装した吹き抜けが開放的なカフェで中庭を眺めながら優雅に過ごしたい。

人気の看板メニューの生茶ゼリイ[抹茶]。本竹の器には抹茶そのものの味を楽しめるように徹底的にこだわった凝縮された上質な抹茶のゼリイに抹茶アイスと餡と白玉がのり、さまざまな素材との相性が楽しめます。もっちりぷるんとしてほろ苦い抹茶ゼリイは、餡とのハーモニーが絶妙で、抹茶アイスは、かのハーゲンダッツより美味しいものをという社長命令で作られたとか。

宇治橋通り商店街を歩いていると格式の高そうな門構えのお茶屋さんがある。今「綾鷹」のCMでよく見かける「上林春松 本店」であす。永禄年間の創業の以来450年、茶業一筋の店。十三世紀の初頭、栂尾高山寺の僧明恵高弁によって開かれた宇治の茶園は、十四世紀後半、足利三代将軍義満公が宇治七茗園と呼ばれる茶園を開き、宇治茶の名声を天下に広めた頃から上林家は将軍家の手厚い庇護を受け、有力茶師である「御茶師」として栄えました。

宇治では抹茶の材料となる碾茶の生産者を茶師といい、なかでも将軍家御用達の家は特に御物御茶師といわれ、茶の生産・流通に重要な役割を果たしました。そんな御物御茶師を務めた上林家は永禄年間(1558~70)の創業で、宇治橋通りにある上林記念館には秀吉の装束やフィリピンのルソン島から茶壷として輸入された「呂宋壷」など貴重な資料が数多く展示されています。また記念館の「茶師の長屋門」は元禄11年(1698)の宇治の大火後に再建されたものです。

しかし十六世紀後半、織田信長との戦により室町幕府は滅亡。将軍家と深く関わっていた宇治茶業界も、大きなダメージを受けたのであるが、その後、お茶を好み茶道を民衆に広めた豊臣秀吉が宇治の復興に力を注いだことによって、宇治茶業界も新たな時代に突入。豊太閤の期待に応えるため努力を続けた初代上林春松軒は、宇治橋の西一丁(現在の宇治・上林記念館)に居を構えます。そして徳川の世、茶道はますます盛んになり、将軍家康は上林家に宇治代官、茶頭取を任命。上林家は、宇治茶の総支配を仰せつかわるまでに至るのです。

宇治は、天領と御茶師の町でありその町を代表するのは、宇治郷代官であり御茶師の頭取である上林家でした。豊太閤のころ上林掃部は、千利休の点てる茶を造ったのである。そして掃部久重の弟竹庵が慶長五年(1600)伏見城で軍功を挙げたところから、その家流において上林一族が、交互に御茶師の支配に当たることになりました。江戸時代、御茶師の中で最高の位である「御物茶師」(ごもつちゃし)として幕府や諸国大名の庇護を受けてきた上林家。しかし時代は明治を迎え、将軍家や大名の庇護は一切なくなり、御茶師たちのほとんどが転廃業を余儀なくされていくのである。

上林家も創業以来の危機を迎えるが、十一代春松は当時新開発のお茶であった「玉露」を扱うことによって多くの愛好者を獲得。茶道の人気復活とともに再び宇治を代表する茶商となる。宇治御茶師唯一の末裔として、四百五十年の歴史が詰まった煎茶、深い味わいの玉露、プレミアムな味わいにこだわった煎茶「綾鷹」など、バラエティ豊富。

ほかに、三星園上林三入本店という、創業天正年間、将軍家御用御茶師という歴史と伝統を持つ老舗もある。純正宇治茶の販売だけでなく、お茶の味と歴史が学べ抹茶づくり体験もできるお店です。 代々称号を三星園と称してその商標は三星紋を使っていますが、この三星の紋所が茶畑の地図記号 の由来となっているとも伝えられており、 商標登録にもなっているとのこと。

平等院表参道の商店街約160mには、室町時代から続く宇治茶の老舗がずらりと軒を連ね、お茶を焙煎じる香ばしい香りが街角に漂うことから「かおり風景100選」に選ばれています。

通り沿いにある中村藤吉本店平等院店を覗いてみた。伊藤博文命名の「迎鶴楼」は江戸時代からの宇治を代表する料理旅館「菊屋」の遺存建物の一つでその内装をモダンに改築してここでもスィーツが楽しめます。

参道すぐに店を構える「宇治駿河屋」では新名物「茶の香餅」を求める人で大行列であったり、福寿園では「宇治のかおり」が売り切れで、「伊藤久右衛門」では上質な宇治茶を求めてお客が殺到し入場制限を行っていた。

江戸時代創業の老舗「伊藤九右衛門」が2017年11月にオープンした新店「JR宇治駅前店」。常時200種類以上の商品を販売していて、お土産探しにもぴったりです。茶房ではスイーツだけでなく抹茶カレーうどんなど、石臼碾きの宇治抹茶を使ったさまざまなメニューが味わえます。パフェとあんみつには抹茶の粉を好みでかけられるサービスがうれしい。

茶畑を気持ちよく歩き、老舗の茶店で歴史を実感。そして忘れがたきは、美味なるお茶とお茶スイーツ。平等院表参道でお土産を探しがてら、もう一軒だけ茶屋のよって帰るとします。日本三古橋のひとつである宇治橋から上流を望めば、山々の新緑がまぶしい。宇治橋には上流側に張り出す「三の間」というものがあります。 三の間は宇治橋特有のもので、その名前の由来は西詰から三つ目の柱間に設けられているところによるものとのこと。 三の間の一番古い記録は、永禄8年(1565年)に松永秀久が千利休らを招いた茶会で、三の間から汲み上げた水を使ったというもので、その他、豊臣秀吉が茶会の際にはこの三の間から水を汲ませたという話は有名ですが、今のような張り出しが設けられたのは江戸時代に入ってからと考えられています。

宇治橋を渡り東詰めに建つ平安時代から旅人をもてなす茶屋「通園茶屋」へ。永暦元年(1160)創業、850年という歴史ある茶屋で建物は寛文12年(1672)築。この茶屋は狂言の「通圓」のモデルとなったり、吉川英治の名作「宮本武蔵」にも登場することでも有名な日本一古いお茶の店です。かつては宇治橋の橋守として往来する人々に茶を提供し、足利義政や豊臣秀吉も立ち寄ったと伝わる。

茶房では宇治市産の高級抹茶や茶だんごがいただけますが、昔の旅人も足を休めたであろう店先で茶団子を頂く。名物茶団子は、米粉、砂糖、抹茶を昔ながらの手法で練り上げたモチモチ食感のほろ苦い風味が心地よい。

1200年前と変わらぬ宇治川両岸の紅葉絵巻を堪能したのです。

 

 

 

 

 

 

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