
信州須坂は、江戸時代須坂藩1万石の陣屋が置かれた堀家の館町として、また谷街道と大笹街道が交わる追分の地として数々の商取引が行われた商都として栄えました。幕末から明治・大正・昭和初期にかけてのいわゆる産業革命期には、近代製糸業の拠点として岡谷・諏訪と並ぶ製糸の町となります。財を成した製糸家たちは豪壮な屋敷を建て、街道沿いには今も蔵造りの建物が多く残り、須坂が「蔵の町」といわれるゆえんです。またその繁栄の背景となる豊かな自然の恵みである水の豊富な「水の町」としての須坂の発見の旅に出ます。
明治・大正時代、須坂の町は製糸業で大繁栄します。江戸末期に人口は約2500人だったものが、各地から集まった女工を含め最盛期は人口2万人にも上りました。明治維新後に欧米から機械製糸の技術が導入され、生糸は日本の主要な輸出品目となり、各地で製糸業が盛んになりました。なかでも須坂は、生糸の品質管理と販売を共同で行う製糸トラストを日本で初めて結成し、横浜港から主に米国に向けて生糸を大量に輸出しました。その生糸は特に品質がよく、欧米の女性の憧れの的になりました。須坂は「近代シルクロード」の起点として、人々は巨額の富を手にし、競って蔵造りの建物をつくり、須坂は蔵の町となってゆきます。
須坂駅から5分ほどの横町中央交差点から中町交差点にかけて、国道406号線、かつての谷街道、大笹街道沿いには、今でも古い建物や蔵造りの街並みが至るところに今なお残り、風情ある印象を形づくる。漆喰を塗り込めた豪壮な土蔵造りの多くは、明治初期に製糸業で隆盛を極めた商人たちが建てたもの。昭和初期、世界恐慌のあおりを受けて多くの製糸工場が閉鎖に追い込まれたが、その後、須坂の町は戦火に焼かれることなく、大規模な市街地開発もなく、魅力ある蔵の町並みが残されました。いずれも軒が高く、凝った鬼瓦がのり、黒い古瓦が美しい。歩きながらも、目線は上へ上へと向かい、壁の白さが青空に映えてまぶしく感じます。
蔵の町の入り口となるのは横町中央交差点周辺。谷街道入口に建つのが製糸家・牧新七によって明治初期に建てられた邸宅(現須坂クラシック美術館)。昭和に至るまで須坂の財界・政界の実力者たちのサロンとして使われた絹の都の栄華を偲ぶに相応しい館です。無垢のケヤキを豊富に使い、天井の高い広い座敷、意匠を凝らした書院、デザイン性の高い格子のはまったガラス戸、よく見れば釘隠しに鶴、板の節目は鯉の形が仕組まれ、奥ゆかしさの中に遊び心が感じられます。館内には日本画家・岡信孝氏から寄贈された約2000点に及ぶ古民芸コレクションや日本画が展示されています。
須坂市ふれあい館「まゆぐら」は無料休憩所。明治期に建てられた3階建ての繭蔵を移築、改修したもので白壁に黒瓦が映える。
「笠鉾会館ドリームホール」には全国でも珍しい2段の笠鉾11基と祭り屋台4台を保存展示。京都八坂神社の祇園祭の流れを汲む、優美で華やかな意匠で、地区ごとにさまざまな依代があしなわれた笠鉾がずらりと並んでいます。
夏の風物詩として全国各地で行われている祇園祭。元となったのは、日本三大祭にも数えられる京都の祇園祭ですが、その起源は平安時代の貞観年間までさかのぼる。当時、疫病の流行を憂いた朝廷は、全国の国の数を表す66本の鉾を立て、その鉾に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓った。これが祇園祭の始まりです。現在各地で行われている祇園祭でも、鉾の巡行が執り行われていますが、これは鉾の依代に街中の悪霊を集める意図があり、かつては鉾を焼く払ったり、川のい流したり、分解することで悪霊祓いをしていました。
そんな祇園祭が須坂に伝わったのは、江戸時代中頃のこと。須坂藩主の堀氏が京都の文化として持ち込んだといわれています。堀氏の家系は、豊臣秀吉恩顧の家臣である堀秀政に連なりますが、須坂祇園祭の笠鉾に「千成瓢箪」が用いられているもの、そうした所以かもしれません。須坂の祇園祭は毎年7月21日から25日に行われ、初日を「天王おろし」といい、芝宮の弥栄社から祭神・牛頭天王がのった華麗な大神輿が担ぎ出され、これを中心に神楽や笠鉾も市内を練り歩く。地区ごとにさまざまな依代があしらわれた5m以上ある笠鉾がずらりと並び、須坂人の心意気を表している。
笠鉾は全部で11基、京都の山鉾と並び全国で2ヶ所しかないと言われています。笠は下を横幕で包み、上には神の依代が立つ。これは町ごとに異なり、「瓢箪と芭蕉」「千成瓢箪」「猿三番叟」「太鼓に鶏」「金の御幣」「天鈿女命」「素戔嗚尊」「御幣」「降魔神剣」などがあります。最終の25日は「天王あげ」といい、夕方、御旅所から灯籠行列とともに神輿が町内を練り歩き芝宮に帰ります。
須坂の町並みにしっくりと馴染む白壁の建物が「そば処 あがれ家」で小林一茶の「信濃では 月とほとけと おらが蕎麦」をモチーフにした紋を使っている。御主人が全国を食べ歩いた経験から、めずらしい魚や各地の郷土料理も多く、今度は何を食べようか、飲もうかと、次に訪れることを心待ちにできるお店です。
高山の古民家の梁を用いたという店内は、囲炉裏が切られた落ち着いた佇ずまい。床に鯉の彫刻を施したり、壁に笹の模様を付けたりと御主人自ら手を入れた店内は田舎でゆったりとした空気が流れている。純粋にそばだけをいただくのもいいが、囲炉裏を囲んでゆったりと「そば&お酒」を楽しみたいときにもおすすめ。そばと酒の相性のよさをじっくり感じることができる。
そばは県内の契約農家はら仕入れた黒姫の霧下そばと鍋倉のそばとを石臼で丁寧に挽いてブレンドしたこだわりの挽きぐるみの十割そばは、ツルっとしたのど越しで、そば自体の甘み、香りともに抜群です。おすすめは須坂を訪れる観光客向けに考案されたオリジナルメニューの「蔵そばセット」に天ぷらがついたものを頼むことに。そば雑炊が最初に供され、そばがき、そば味噌がついたものに、最後、細打ち十割そばをいただきます。
中町の交差点を右に曲がり、大笹街道をたどる。奥田神社のあたりが旧須坂藩館跡。須坂藩は1万石の小大名でしたので城ではなく館を構えました。須坂藩の館は二代藩主・堀直升によって元和3年(1617)に築かれたといわれています。敷地は奥田神社付近を中心に茅葺五十間四方、家臣の長屋、評定所、柔術所、剣術所、馬屋、内馬場等を備えた館でした。14代藩主・堀直明のときの版籍奉還後、東京鎮台の所轄となり明治5年に廃城となりました。明治13年、須坂藩初代堀直重と13代直虎を祀る神社が建立されました。
須坂藩時の鐘は第8代藩主堀直郷が天明2年(1782)に造り、第9代藩主堀直皓が鋳なおして、鐘楼を館の北西隅の現在の浮世小路入口付近に建てたと伝わります。
元治元年(1864)創業の銘酒“渓流”で有名な「遠藤酒造場」は、須坂藩主の献上酒の醸造元でもあり、須坂藩の大通りとして使われていた奥田神社参道の角にあります。現在店舗として使われている長屋門は須坂藩大手門へ続く道の脇奥付門で物見の建物でした。門は切妻作り、瓦葺き、棟の鬼瓦や鎧瓦には、堀家の家紋の亀甲卍が見られ、大扉が観音開き、錠を止める乳金も立派だったといいます。また須坂藩10代藩主直興夫人寛寿院、12代直武夫人寛栄院の居間でもありました。奥付門に囲まれた堂々たる佇まいは、蔵の町並みに、白壁土蔵が美しい品格を添えています。
さくらまつりにあわせて「花もだんごも蔵開き」と銘打って、蔵見学ツアーや利き酒、甘酒が味わえます。袋吊りしぼりのお酒を味わえるのも蔵開きだけなので車でない方は是非味わってみてください。
道はゆるやかに上りになり、やがて白壁の土蔵に囲まれたひときわ大きな屋敷に到着します。昭和4年(1929)、ニューヨークの株価が大暴落し世界大恐慌が始まると、生糸の価格は暴落し、製糸業は衰退していきます。須坂の素封家がこぞって製糸業に乗り出し、没落していった中で、絹には手を染めず、製糸業の命運に巻き込まれなかったのが田中本家(田中本家博物館)です。約100年も男子に恵まれず、女性当主が続いたせいかもしれませんが、ここだけが江戸時代から280年続く豪商の家を守り通しています。
田中本家は初代新八氏が享保18年(1733)に商人として独立し、江戸時代は、米、菜種油、煙草等を商い、須坂藩の御用達商人を勤め、須坂藩を凌ぐほどの財力を誇ったといわれます。「豪商の館 田中本家博物館」では、平成5年に約70m×92mの敷地を20の土蔵が取り囲む豪壮な屋敷を開放し、田中本家代々の雛人形や直虎等須坂藩主をもてなすために揃えられた品々ほか、江戸時代の漆器、陶器、衣装、書画などから昭和のブリキ玩具に至るまで「ものを大切にする」家訓によって見事に保存された美術品や生活用品を5棟の蔵が展示室としてが公開されていて見ることができます。古色蒼然という感じはなく、土蔵の断熱・調湿に優れた機能に加え、収納に知恵と手間を惜しまないからです。
邸内の庭には、樹齢200年余のシダレザクラの古木が3本あり、それぞれ屋敷に映えて風情豊かで、4月中旬頃が見ごろです。田中家の庭園は、浅間山の大噴火による天明の大飢饉の時、住民の救済を兼ねて京都より庭師を招いて造られた庭で裏山を借景にした池泉回遊式庭園です。江戸時代須坂藩主がこの庭を大変気に入り、しばしばおいでになったとのことで、その折の「お忍びの門」と呼ばれる門があります。
庭園を散策し、時代を帯びた静寂に包まれる水車蔵から母屋へつながる蔵の小径をたどりながら中庭も散策。
田中本家の隣にある普願寺の参道から古寺を巡る石畳の散歩道が続きます。普願寺は、鎌倉時代に井上氏の一族である業田次郎義遠が親鸞の弟子となって武蔵国秩父郡大岩に創建し、正和3年(1314)に3世賢正が本願寺覚如上人より普願寺の号を賜りました。室町時代の弘治元年(1555)に須坂の現在地に移ったと考えられています。本堂は江戸時代中期の延享4年(1747)に再建した県内浄土真宗寺院で最も大きな本堂の内のひとつです。鐘楼は嘉永4年(1851)の完成で、高井郡地方の神社仏閣建築を数多く手掛けた亀原和田四郎の嘉博の作です。
円光寺は山号を大岩山といい浄土真宗本願寺派の寺院です。摂津国の赤松満祐の親族が信濃国水内郡柳原に移り、本願寺8世蓮如上人に帰依し円明と号します。天文5年(1536)柳原に一宇を建立しますが天文19年(1550)の千曲川洪水によって慶長年間(1596~1615)に現在地に移りました。その境内の西隅の大笹街道沿いにある太鼓堂は、越後の棟梁山岡武兵衛により、明治27年(1894)に完成したとされ、1階部分は江戸時代末期に建てられたものと推定されます。不等辺八角形の平面で、内4面に扉口があり、擬宝珠高欄のついた縁が周囲を囲んでいます。扇垂木を持つ美的・技術的に難易度の高い楼閣建築物です。
ちなみに普願寺参道に見られる石垣は、石の形が丸く、“ぼたもち”のようであることから「ぼたもち石」「ぼたもち石積み」と呼ばれています。自然石の形を生かしながら石と石の間を完全にすきまなく密着させる技法で、大変高度な職人技です。隣接する石の接着面を加工しながら、外面が平らになるように積まなければならず、非常に手間がかかり一つ積むのに数日かかったといいます。この地方の石工たちは、石をぴったりとはめ込むことを「とっつける」といい、「一日一つとっつけばいい」とも言われていたそうです。それほど難しく手間のかかる工法ですから現在この石積みを受け継いでいる石工はなく、須坂が生糸で大きく繁栄していた当時を偲ばせるもののひとつです。
「北信濃屈指の須坂の花見処・臥龍公園と里の一本桜にようこそ」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/244