信州須坂は、江戸時代須坂藩1万石の陣屋が置かれた堀家の館町として、また谷街道と大笹街道が交わる追分の地として数々の商取引が行われた商都として栄えました。幕末から明治・大正・昭和初期にかけてのいわゆる産業革命期には、近代製糸業の拠点として岡谷・諏訪と並ぶ製糸の町となります。財を成した製糸家たちは豪壮な屋敷を建て、街道沿いには今も蔵造りの建物が多く残り、須坂が「蔵の町」といわれるゆえんです。またその繁栄の背景となる豊かな自然の恵みである水の豊富な「水の町」としての須坂の発見の旅に出ます。
須坂駅から5分ほどの横町中央交差点から中町交差点にかけて、国道406号線、かつての谷街道、大笹街道沿いには、今でも古い建物や蔵造りの街並みが至るところに今なお残り、風情ある印象を形づくる。漆喰を塗り込めた豪壮な土蔵造りの多くは、明治初期に製糸業で隆盛を極めた商人たちが建てたもの。昭和初期、世界恐慌のあおりを受けて多くの製糸工場が閉鎖に追い込まれたが、その後、須坂の町は戦火に焼かれることなく、大規模な市街地開発もなく、魅力ある蔵の町並みが残されました。
須坂市ふれあい館「まゆぐら」は無料休憩所。明治期に建てられた3階建ての繭蔵を移築、改修したもので白壁に黒瓦が映える。
「笠鉾会館ドリームホール」には全国でも珍しい2段の笠鉾11基と祭り屋台4台を保存展示。京都八坂神社の祇園祭の流れを汲む、優美で華やかな意匠で、地区ごとにさまざまな依代があしなわれた笠鉾がずらりと並んでいます。
夏の風物詩として全国各地で行われている祇園祭。元となったのは、日本三大祭にも数えられる京都の祇園祭ですが、その起源は平安時代の貞観年間までさかのぼる。当時、疫病の流行を憂いた朝廷は、全国の国の数を表す66本の鉾を立て、その鉾に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓った。これが祇園祭の始まりです。現在各地で行われている祇園祭でも、鉾の巡行が執り行われていますが、これは鉾の依代に街中の悪霊を集める意図がある。かつては鉾を焼く払ったり、川のい流したり、分解することで悪霊祓いをしていました。
そんな祇園祭が須坂に伝わったのは、江戸時代中頃のこと。須坂藩主の堀氏が京都の文化として持ち込んだといわれています。堀氏の家系は、豊臣秀吉恩顧の家臣である堀秀政に連なるが、須坂祇園祭の笠鉾に「千成瓢箪」が用いられているもの、そうした所以かもしれません。須坂の祇園祭は毎年7月21日から25日に行われ、初日を「天王おろし」といい、芝宮の弥栄社から祭神・牛頭天王がのった華麗な大神輿が担ぎ出され、これを中心に神楽や笠鉾も市内を練り歩く。地区ごとにさまざまな依代があしらわれた5m以上ある笠鉾がずらりと並び、須坂人の心意気を表している。
笠鉾は全部で11基、京都の山鉾と並び全国で2ヶ所しかないと言われています。笠は下を横幕で包み、上には神の依代が立つ。これは町ごとに異なり、「瓢箪と芭蕉」「千成瓢箪」「猿三番叟」「太鼓に鶏」「金の御幣」「天鈿女命」「素戔嗚尊」「御幣」「降魔神剣」などがあります。最終の25日は「天王あげ」といい、夕方、御旅所から灯籠行列とともに神輿が町内を練り歩き芝宮に帰ります。
須坂の町並みにしっくりと馴染む白壁の建物が「そば処 あがれ家」で小林一茶の「信濃では 月とほとけと おらが蕎麦」をモチーフにした紋を使っている。
高山の古民家の梁を用いたという店内は、囲炉裏が切られた落ち着いた佇ずまい。床に鯉の彫刻を施したり、壁に笹の模様を付けたりと御主人自ら手を入れた店内は田舎でゆったりとした空気が流れている。純粋にそばだけをいただくのもいいが、囲炉裏を囲んでゆったりと「そば&お酒」を楽しみたいときにもおすすめ。そばと酒の相性のよさをじっくり感じることができる。
そばは県内の契約農家はら仕入れた黒姫の霧下そばと鍋倉のそばとを石臼で丁寧に挽いてブレンドしたこだわりの挽きぐるみの十割そばは、ツルっとしたのど越しで、そば自体の甘み、香りともに抜群です。おすすめは須坂を訪れる観光客向けに考案されたオリジナルメニューの「蔵そばセット」に天ぷらがついたものを頼むことに。そば雑炊が最初に供され、そばがき、そば味噌がついたものに、最後、細打ち十割そばをいただきます。
御主人が全国を食べ歩いた経験から、めずらしい魚や各地の郷土料理も多く、今度は何を食べようか、飲もうかと、次に訪れることを心待ちにできるお店です。