
名だたる武将たちが群雄割拠し、天下をうかがう戦国の世にあって、信濃の小豪族から戦国大名へと上りつめた真田一族。時代を越えて、今なお戦国ヒーローとされる真田一族の英雄たちは、戦国武将のなかでも高い人気を誇っています。JR上田駅から車で20分ほどの場所にある山間の地、信州上田市真田エリアは、真田一族発祥の地といわれ、今もこの町には「真田氏館跡」や「真田氏本城」、真田一族の菩提所など往時をしのばせる数々の名高い古跡が残されています。真田の痕跡が町のそこかしこに点在する歴史ロマンの郷・真田へ戦国の名将、真田一族の軌跡をめぐる旅にでかけます。
上田市街から群馬に抜ける国道144号を10kmほど進むと、真田の郷に至る。戦国乱世を駆け抜けた真田一族の故郷です。国道の南側丘陵にある真田氏館跡、一つ谷を越えた山上には真田氏本城跡が、それぞれ史跡に指定され、観光地として整備されています。ウオーキングコースも整備され、御屋敷コースは真田歴史館まで約3km、約50分の行程で、案内標識に従って歩きます。真田三代に出会う旅の始まりは、下原バス停近くの真田氏記念公園。真田氏発祥の郷と石碑に刻まれた揮毫は、『真田太平記』の著者・池波正太郎氏のものです。
また幸隆・昌幸・幸村のレリーフも並んで建っています。真田氏の礎を築いたのは幸隆でした。武田信玄に仕えた武将の中でも評価の高い「武田二十四将」の一人とされています。天文10年(1541)海野平の合戦で、武田・諏訪・村上の連合軍に敗れた幸隆はその後武田信玄の家臣となり、信濃先方衆として第一戦で活躍し、旧領を回復しています。
坂道を上ること徒歩で4分、250m先に宝珠山自性院があります。曹洞宗の寺院で埴科郡葛尾城主村上義清の父・顕国により永正17年()の開基と伝わります。屋根の寺門は村上氏の家紋「丸に上文字」で、本堂は約200年前の江戸中期に再建されたものです。
2kmほど歩くと上州街道沿いに広山寺があります。天文20年(1551)幸隆が砥石城を攻略し旧領を回復した後の永禄8年(1565)真田幸隆が創建、元亀3年(1572)長男真田源太左衛門信綱の屋敷跡と伝わる場所に移されたと伝わる、風格ある寺院です。もとは「十輪寺」と呼ばれ真田氏本城の麓にあったお寺だと考えられています。
裏手の広山寺の墓地には天正8年(1580)に死去した真田信綱夫人の墓と伝わる「御北之塚」があります。信綱は幸隆の長男で、家督を継いだ翌年、長篠の戦いで戦死したため、家督を継いだ昌幸が丁寧に遇したと伝わります。大雪が降ると雪の重みで竹のアーチができるとのこと。
上州街道と松代街道の分岐手前を右折し御屋敷公園へ。真田氏居館跡は、上田城を築城する以前に構えていた真田一族の居館で、構築されたのは永禄年間(1558~70)真田家初代幸隆と嫡子信綱が築城したとされます。御屋敷は周囲を囲む土塁や厩などがほぼ完全な形で保存され中世豪族の居館の様子が垣間見えます。かつてはこの居館のまわりに武家や商人が暮らし、城下町を形成していたとも言われていますが、現在は居住跡が残るのみです。
標高763mにある館跡は四周に土塁を廻らした方形居館と呼ばれる形で、周囲520m余、東西約150m、南北約130mのやや台形の敷地で、東が高く、西に緩やかな傾斜をしています。周囲の土塁は東側が特に高く4m~5mあり、東南の隅を欠いています(上田城と同様)。とくに北側は、大沢川が天然の堀となって現在も残っています。南側には大手門があり桝形も残り、北側に搦手門が位置しています。南東の角にも小規模な東門がある。北西の隅は低地となっていて、四角く囲まれた土塁が残っていてこれを厩と呼んでいます。写真は搦手門より西郭を見る。
この館跡は西方に開いた本原扇状地の奥に位置し、松尾城(真田氏本城)の南西に位置し、北東背後には天白城を置き、真田氏城跡群がこの扇状地を取り囲んで築かれ、西方の中原に町を形成していたことからも、堅固な立地を考えて本拠の中心としていたことがわかります。その後この町は上田城下に移され原町を形成しました。
土塁の内側には現在東曲輪と西曲輪と呼ばれる二段の曲輪が存在しました。西曲輪からは、砥石(戸石)城群(桝形城跡・本城跡・米山城跡を含む)を望めます。砥石城群は、上田盆地の北東にそびえる東太郎山の尾根上に築かれ、東を神川沿いの切り立った崖、西は急坂続きの斜面になっていて山の形が刀を研いだ砥石に似ています。一番広大な本城(平な部分)を中心に右手(北)に桝形城、左手(南)に砥石城、米山城と続きます。武田信玄の砥石崩れの敗退から砥石城は幸隆の得意とする調略によって攻略し真田の城と信濃先方衆としての地位を確立します。天正13年(1585)第一次上田合戦では上田城の背後を抑える大事な砥石城には昌幸の長男・信幸(之)が守りを固め、さらに慶長5年(1600)第二次上田合戦では、次男信繁(幸村)が立て籠もりました。このように上田盆地の北半分のおさえであった砥石城は、村上・武田・真田・徳川らの争いの場でした。
居館跡に残る皇大神社は、上田城に移転する際、真田昌幸はこの地と館が廃れないように伊勢神宮の分霊を東曲輪のあった場所に勧請したものです。
周辺は「居屋敷公園」の名で整備されていて5月中旬から6月上旬にかけて約600株のオレンジのヤマツツジが咲き誇る知る人ぞ知る花の名所です。
隣接して真田氏歴史館があります。真田氏に関係する戦いの足跡を記した古文書や武具など展示している真田ファン必見の場所。真田三代の甲冑や六文銭の陣幕、大坂夏の陣図屏風など精巧に復元された展示品が戦国ロマンへの創造を掻き立ててくれます。
2016年NHK大河ドラマ「真田丸」のコーナーもあり、主演の堺雅人らのサイン色紙が展示されていました。真田といえば一族の旗印である六文銭が有名です。正式には六連銭といい幸隆の考案とされる銭紋は、死者を埋葬する際に棺に入れるいわゆる「三途の川の渡し銭」としての六文銭(一文銭を六枚)に由来します。これは六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道)を流転して生死を繰り返す仏教の輪廻という考え方に基づくもので、各世界で助けを求めるために六枚の銭が必要だと考えられていました。幸隆の不借身命の覚悟を意味します。
御屋敷公園からウオーキングコースを離れ、県道4号線(真田東部線)を途中右手に天箱(白)城跡を見ながら真田氏本城跡を目指します。天白城は標高970mにある真田信綱によって築かれた山城で、真田氏本城とは馬蹄形をした尾根伝いに続き、2城で一つの城郭と考えられています。御屋敷公園から城跡入口まで800m。写真は真田氏本城から望む天白城跡
真田氏本城跡は熊久保集落から200m坂道を上ります。真田氏本城と天白城の谷間に位置する熊久保集落は真田氏本城の大手口と推測される位置にある集落で、大手口を守る兵の駐屯地と考えられます。集落上部には地名の由来となった熊石が庭先に佇み、道路脇に置かれた水場は真田氏本城の水の手と水源を同じくしています。御屋敷公園から城跡入口まで1.7km
真田昌幸が天正13年(1585)に上田城を築城するまで、真田三代にわたり真田氏の本拠地とした山城。この城は真田山城、松尾新城、十林寺城とも呼ばれたが真田地域の中央に位置し規模が最も大きいため真田氏本城跡と呼ばれています。築城は天文年間(1532~1555)に真田幸隆によって築城されたと伝わります。
真田氏本城に立てば、なぜ真田氏が上田城を築くまでここを本拠地にしたのかが容易に想像できます。北東には上州街道の鳥居峠方面への押さえとして役割を果たした松尾古城があり、角間川と神川との間に位置する城で真田氏が最初に本拠地とした城です。眼下には守るべき真田の集落、その真田盆地の対峰に要害の地砥石城を望みます。さらに奥には上田盆地そして美ヶ原方面の峰々を一望できる好立地です。
更に松代街道の地蔵峠方面の押さえとして根古屋城跡、洗馬城跡が見えます。上田方面には伊勢崎城などと、周囲の峰々にも数多くの支城群が連なり。単体の山城ではなく真田盆地を取り囲む山城群の司令部的存在とも考えられています。写真は本郭から見た小屋根城跡と洗馬城跡で山間部奥の集落が松代街道
現在、城跡の入口は標高890mの山頂の本丸西側の平坦地に続く芝生広場の南側にありますが、本来の入口である虎口は北側に造られていたと思われます。本郭は東西8.6m、南北37mの広さで、南側に高さ2mの土塁を築いています。
土塁の頂上にある城跡標柱
北方へ二の郭、三の郭と段差を設けながら延び出しています。虎口は三の郭にあり、二の郭の横に腰郭を設けています。二の郭には石垣が用いられた跡が残っています。写真のツツジの左手が虎口
三の郭の先は深い切岸を造り厳重に防御しています。写真は二の郭から三の郭を見る
芝生広場から真田集落(十林寺)へ下ります。350mほど下るとつづら折りの道沿いに郷の草創の頃、諏訪大社より分霊したという古い神社、諏訪神社が鎮座します。真田氏本城の守護神として、真田幸隆が松尾新城を築城するにあたり、攻め入りやすい場所に祀ったと伝えられています。祭神は健御名方命、前八坂刀売命。真田氏以前の郷主である戸沢道公より社領が寄進され、村上義清侵攻後に没収されますが、真田氏復帰後は真田昌幸から社領が戻され、崇拝されました。
十林寺集落は、真田氏本城の守備兵が駐屯していた根古屋集落と考えられ、中世ここには十林寺という寺院がありました。真田幸隆の時代、本原に城下町を建設した際に移され、現在の広山寺になったと伝わります。上州街道の古道から十林寺跡につながる参道には「おたっちゅうの松」と呼ばれた古木があり、ここに塔頭があったことを証しています。現在は十林寺のおたっちゅうの松の碑が立ちます。
上州街道まで下って鳥居峠方面に向かうところに真田バス停があり、このあたりの集落名が「真田」であり、集落の中央部で、真田氏の氏神である山家神社に隣接することからここに真田氏草創期の館があったと推定されています。
長谷寺(ちょうこくじ)への参道を約800m上がります。真田山長谷寺の創建は1547真田幸隆が海野坂の戦いに敗れ上州に避難しているとき、安中市上後閑にある長源寺の僧晃運に帰郷したら寺を建立すると約束したことに始まると言われます。真田氏の菩提寺として幸隆・幸隆夫人・昌幸の墓所があります。真田家の家紋「六文銭」が刻まれた桃の形のアーチ型の大きな石造りの三門がユニークで見ものです。
春はシダレザクラが美しく咲き誇り写真スポットとして人気です。真田氏の松代移封に際して、新たに松代に同音異字の長国寺が建立されました。(松代初代藩主真田信之の御霊屋)
参道を下り山家神社へ。第一次上田合戦の舞台ともなった神川の上流一帯は、古来より山家郷と呼ばれ、山家神社はその産土神です。創立は不詳ですが、平安時代の「延喜式神名帳」に記載されており、創建はかなり古いと推測されます。
日本百名山に数えられる四阿山を御神体とし、四阿山の山頂に奥宮があります。ここは718年に修験者に浄定が加賀国の白山咩神社の分霊を合祀して建立したといわれています。四阿山を源とする神川沿岸地域の水分の神として厚く崇拝され、真田氏も発祥当時から深い関わりがあり、真田氏の氏神として代々真田一族によって大切に守られ厚く崇拝していました。
上田城からみて鬼門の方角にあたる山家神社は、代々上田藩主の守り神としての役目を果たしてきました。里宮には真田幸隆と長男信綱が修復したという奥宮社殿扉の一部や昌幸が書いた水を守るために四阿山の木の伐採禁止を命じた朱印状、信綱による四阿山別当の安堵状などが残っており、真田氏と山家神社との関係がとても深かったことがうかがえます。さらに信之から続く松代藩主との繋がりもあり、当主が交代すると山家神社に参拝していたともいわれます。
山家神社から徒歩で25分、約2kmほどのところに信綱寺があります。室町期、尾引城主横尾氏の菩提寺としてて真田の郷梅ノ木に好雪斎大柏寺が開創されました。上田原の合戦で横尾信光が戦死し以後廃寺となり、真田信綱が天正3年(1575)打越に移して大柏山打越寺としましたが、同年信綱は長篠の合戦で弟昌輝と共に戦死し、家臣白川兄弟が、主君の首級、鎧胴、愛刀を持ち帰り打越寺に弔いました。
文禄3年(1594)真田昌幸が兄信綱の牌所として信綱寺と改称しました。享保2年1717現在地に移築された際に、信綱寺の裏山に開基としての墓所を設け、信綱夫妻・昌輝の墓石が建立されました。
古城緑地広場には「歴史の丘」と呼ばれる六文銭の旗を現す赤いモニュメントが建ちます。
季節ごとに花が彩を添えてくれる真田の郷には、信州小県の小豪族から戦国大名へと駆け抜けた真田一族の面影が残ります。