戦闘用の天守と優雅な櫓の競演!信州・松本城の魅力を探る。

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雪を抱いた北アルプスや美ケ原高原の山並みを背景に威風堂々と佇む「松本城」は、別称「深志城」と市民からも親しまれている言わずとしれた信州松本のシンボル。日本全国数多くある城の中でも、現存天守12城、国宝5城の一つであり、日本最古の五層六階の天守閣を誇ります。築城時には当時の技術の粋を集めて建てるべく、木曽地方の木工職人、高山の漆職人ほか、各地から名工たちがやってきました。黒漆塗りの下見板と白漆喰壁のコントラストが、青く澄んだ空にパッと映え、225本からなる柱をはじめとした建築美にも優れた名城は、国内のみならず海外からも多くの観光客が訪れ、サムライ・ルートと名付けられたミシュラン三ツ星観光地、松本、高山、白川郷を巡る観光ルートの一翼を担っています。そんな人気の松本城の魅力を探ってみます。

南側から松本城公園に入ると、青松の向こうにその雄姿が現れます。

松本城は、元は信濃守護、小笠原氏の支城のひとつで当時は深志城と呼ばれていました。その後武田信玄による北信濃攻略の拠点となり、城郭の修理、道路や河川の改修を命じました。信玄が深志城に目をつけたのも、善光寺街道をはじめ五街道が通る松本が交通の要衝だったからです。また扇状地の端である扇端は、山城では得難い地下水が豊富なことも理由でした。信玄は水堀で縄張りを囲み、防御を固めたといいます。武田氏滅亡後は木曽義昌などが拠りましたが、天正10年(1582)旧守護家の小笠原貞慶が入り、松本城と名を改めました。

その後天下人となった豊臣秀吉は、関東の徳川家康を監視するため、石川数正に松本城を与えます。戦国時代末期、文禄2年(1593)に造られた松本城は、往時の姿をそのまま今に伝える五重六階の天守閣を持つ城としては日本最古の城であり約430年の歴史を刻んでいます。戦闘に有利な山城が多く築かれた戦国時代の中で、平地に建てられた異色の数少ない平城は、石川数正・康長父子によって築かれました。火縄銃全盛の時代に建てられた天守だけに115の鉄砲狭間を有し、実践的な11カ所の石落としを持つなど、戦闘に特化した城と言えます。石川家は豊臣秀吉の信頼が厚く、黒で統一された秀吉の大阪城にならい天守を黒にしたともいわれていて、別名「からす城」とも呼ばれています。外壁の半分以上が黒漆を塗った挽き板に覆われ、朝夕、太陽が斜めから射す時には反射して輝くのがわかります。内堀に架かる朱塗りの埋橋は通行止めです。

天守は一つの建造物のように見えますが、実は建物は五つの棟から構成されています。下の写真のように二の丸から水堀越しに見た時、正面中央にそびえる大天守、その左端、北側に設けられた乾小天守、ふたつの天守をつなぐ渡櫓のまとまりを連結式天守といい、戦国時代の天守らしく鉄砲戦を想定して造られています。白漆喰と漆黒の下見板の外壁は人を寄せ付けない威厳を漂わせています。一方泰平の時代になった江戸時代に増築されたのが、一番右側の櫓の朱塗りの廻縁がひと際異彩を放っている月見櫓とその隣の辰巳附櫓です。優美な姿が特徴で、松本城は戦いの砦としての「天守」と、平和な時代の象徴「月見櫓」、二つの顔を合わせ持つ城です。時代や様相の異なる天守、櫓、これらが一体となって独特の美しさを醸し出している城は松本城だけなのです。

澄み切った青空のもと屹立する黒壁の天守は、内堀にその重厚な姿を映します。背後に広がる北アルプスの山並みが、より天守を壮大に見せます。威風堂々とした姿が美しい松本城の天守がお堀に映る「逆さ松本城」は風のない日だけ見ることができる幻想的な光景。時間帯によって様々な表情を見せてくれます。

「松本城」の初代城主は石川数正。家康がまだ竹千代と呼ばれていた頃から仕えていた側近中の側近でした(2023年NHK大河ドラマ“どうする家康”で松重 聡さんが演じています)。 しかし秀吉と家康が対決した戦「小牧・長久手の戦い」を境に、秀吉へと寝返ります。二代康長の時代に改易され、その後城主は松平氏、水野氏、戸田氏など5家23代が藩主を務め、明治を迎えます。

土橋で内堀を渡ったところにある門が黒門(二の門)で高麗門と呼ばれるシンプルな作りです。平成元年(1989)11月、この門とこれに続く袖塀がつくられ、枡形が復元されています。この控塀にも狭間が穿たれていて、対岸の敵が土橋を渡ってくるところを火縄銃で攻撃できるようになっています。

黒門(一の門)は本丸御殿の正門で、櫓門と枡形からなる本丸防衛の要です。当時の色彩の最高位である黒に因み、城郭最重要の門という意味で名付けられました。門の上には櫓があり防御のための堅固な門でありながら随所に美しい飾りが施されています。美の極致、松本城ならではの城門です。黒門は昭和35年(1960)に復興されたものですが、屋根には天守から下ろした瓦の一部を再利用しているので、小笠原氏の三階菱など歴代城主の家紋が瓦の正面に見ることができます。

意匠には歴代藩主の家紋があしらわれ、初代石川家の笹竜胆や九代水野家の丸に立おもだかが見てとれますので是非探してみてください。

「国宝松本城おもてなし隊」が元気に出迎えてくれます。

参勤交代時の出発点となった二の丸正門が平成11年(1999)復元された太鼓門枡形の一の門といいます。外堀に架かる橋を渡っていると進むに従って橋の幅が狭くなる、多くの敵が一気に突入するのを防ぐ「鵜首」といわれるものです。その先の太鼓門は枡形になっていて、黒漆の塗られた下見板には鉄砲狭間や矢狭間が多数穿たれています。昔は3000もの狭間が設けられていて、その多くが鉄砲狭間だったようです。文禄4年(1595)頃築かれ、門台北石垣上に太鼓楼が置かれ、時の合図、登城の合図、火急に合図等の発信源として重要な役割を果たしていました。

左の巨大な石は松本城最大の石で、高さ4.75m、重さ22.5トンもあり、これには侵入した敵の気勢を削ぐ効果があります。築城者である石川康長の官途名・玄蕃守が付いた「玄蕃石」と呼ばれています。康長は、石を運ぶ際に不満を訴えた者の首をはねて槍に刺して掲げ、人足たちに号令をかけて石を引かせたと伝わります。

屋根に変化をつける造形が「破風」です。中央がこんもり盛りあがった曲線で構成されるのが「唐破風」と呼ばれます。写真ではその下、本を伏せたような三角形を屋根に載せたものが「千鳥破風」です。三角の頂角にある飾りは「懸魚」と呼ばれ、元は魚を吊るした様子を形どったものが次第にデザイン化されたとのこと。水に縁のある魚の形をした飾りを屋根に懸けて木造建築である城を火災から守るまじないとしたのが始まりと考えられています。また城郭建築での破風は単なる飾りではなく、前方に出ているため足元が見下ろせるという実践的な意味もありました。

いよいよ松本城天守に登城です。慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いの前に築かれた城だけあって実践的な作りになっていて窓が全体的に小さめにできています。

また天守には鉄砲狭間が37、矢狭間が40、乾小天守には同12と16、渡櫓は同3と2、辰巳附櫓は同3と2と全体で115の狭間が穿たれています。狭間から外を覗くと、広い内堀が見えます。かつては奥行きが60mあり、ちょうど当時の鉄砲の有効射撃距離程度でした。仮に敵がこの堀を渡っても、石落としからの攻撃で撃退されたであろう。

写真は月見櫓から見た大天守。角の石落としは全部で11カ所。正方形の窓が鉄砲狭間、長方形が矢狭間です。

天守と乾小天守を連結する渡櫓(高さ12m)の大手口から入り、最初に足を踏みいれるのが乾小天守です。天守の北に位置する乾と呼ばれるのは、北は叛く、敗れるなどの意があり、忌み嫌われたからです。天守と構造が異なり内部は丸太柱がたくさん使われています。1・2階の10本と3・4階の通し柱は12本の丸太材です。たくさんの丸太柱が使われている乾小天守から天主へと急な階段を上る。

さらに渡櫓を通ると大天守に至ります。大天守2階は東・西・南の三方に堅格子窓(武者窓)が設けられ、明るい開放的な階です。当初は壁があって4部屋に分割されていたようで、武士たちがつめている武者溜だったと考えられ、その周りを戦時の際に兵士が走りやすいよう武者走りが囲っています。

山城のように石段の上り下りがなく、平地を歩きながら間近に天守を見学できるのが平城の良いところですが、平城だからといって築城が容易だったわけではありません。現在は間仕切りがないため、柱の配置がよくわかり、全部で89本の柱が規則正しく一間(約1.8m)間隔で並んでいて、この柱が強度を出すため上下階を貫き天守全体を支えています。松本城大天守の重さは1000tに達しますが、この場所は水が得やすい場所だけに地盤が軟弱で、その為天守台の石垣内部に土台を支える16本の丸太を杭のように埋め、大天守の重さを地面に直接伝える工夫がなされています。堀の底にも筏のように丸太を敷き詰め、地盤の弱さを補う「筏地形」と呼ばれる工法で「イタリアのヴェネツィアも同じ方法で町が造られているといいます。

天守閣は外からは五重に見えますが、内部は六階になっていて、天守の三階は二重目の屋根に隠れ外からはわからない通称・隠し階で最も安全なため、倉庫や避難所として使われ、戦のときには武士が集まるところでした。

三階部分にはまったく窓がなく、明かりは南側の千鳥破風に設けられた太さ15cmの堅格子が入っている木連格子から入るわずかに入るだけで暗く、敵には秘密の階でした。

大天守4階にある「御座の間」は、有事の際に城主が指揮を執るための御座所とされる場所です。三間四方の書院造風の空間になっていて、天井が高く四方にある窓からは光が入り、城下を見ることもできます。柱は全て桧で、かんながかけられ、鴨居の上には小壁もあり丁寧な造りになっています。

天主の階段は7ヶ所あり、どれも55度~61度という急勾配で蹴上げが約40cmの箇所もあります。、特に4階と5階を結ぶ階段は天守最大の傾斜で61度あります。

5階は重臣たちが戦いの作戦会議をした場所と考えられています。ほかの階に比べて天井が高く、4.5mあり、そのために6階に登る階段にだけおどり場が設けられ、階段が緩やかになっています。

最上階の6階は戦の時に周りの敵の様子を見る望楼として使われていました。望楼には当初、廻縁が付く予定でしたが、雪国ということもあり変更されて壁で覆われたため、ひとまわり大きくなっています。壮大な天守と錯覚するのは、この望楼の大きさゆえです。快晴時、西側には常念岳や槍ヶ岳、東側には美ヶ原を一望。日本百名山をここまで見渡せる天守は他にないでしょう。

天井には天井板がなく、露出している屋根裏の井桁梁でがっちりと組まれています。放射状に組まれているのは、テコの原理を応用して軒を支える20本の桔木で、このような桔木構造が見られる城は全国でも珍しいものです。天井中央にまつられているのは、二十六夜神という松本城の守り神です。元和4年(1618)一人の武士の前に二十六夜神が姫の姿で現れ、毎月26日の晩、三石三斗三升三合三勺の米を餅にして、供えて祀れば城は栄えると告げたことにより、以来祀り続けているという言い伝えがあります。第五代藩主戸田康長の時に祀られました。

1階まで戻ったら泰平の世になってから増築された辰巳附櫓へ。天守の南東(辰巳)にあり、隣の月見櫓と一緒に、寛永年代(1630年)に造られた建物で、一階は武者窓、二階は花頭窓である。大天守に連結する乾小天守最上階と辰巳附櫓2階に全4カ所見られるのが「花頭窓」です。花頭窓は蝋燭の炎に似た輪郭の窓で、鎌倉時代に禅宗とともに中国から伝わり、京都・銀閣寺のものが有名です。お城にも多く、本来は「火灯窓」ですが、木造建築では火を嫌って「花頭窓」の表記が多く用いられています。

天守築城の40年後、三代将軍・徳川家光のいとこである松平直政が第七代松本城主になり、善光寺参詣による将軍の来訪に備えて寛永10年(1633)年頃から増築された遊興の場が月見櫓と天守の南東(辰巳)にある辰巳附櫓です。家光を歓待するために建てられた月見櫓は、北・南・東の舞良戸と呼ばれる戸を開け放てば三方がふきぬきになり、さらに開放的な空間が広がり、月見の宴が楽しめるようになっています。周りにめぐらされた朱塗りの廻縁や部屋を広く見せる効果のあるには船底形をした天井は柿渋が塗られて赤みがかかるなど意匠を凝らしていて、天守などと違い戦いのための設備は一切ない優雅な雰囲気の櫓です。しかしながら残念なことに家光がここ訪れる機会はなかったといいます。

月見櫓の脇には舟着場があり、小舟で水堀に出ることもできたようです。松本城の内堀は、城内からの攻撃が届くように築城時の鉄砲の射程に準じています。平和となった江戸時代にはここから小舟を漕ぎだし、船上で月夜の一時を過ごしていたのでしょう。

残雪の北アルプスを借景に聳える松本城の本丸庭園には2本の枝垂れ桜があり、二の丸や外濠にはソメイヨシノや八重桜、約320本が城や濠を囲むように華やかに咲きます。例年春、4月上旬に「国宝松本城 夜桜会」「国宝松本城桜並木 光の回廊」が催され、開花期間中ライトアップされた幻想的な空間に漆黒の松本城がうかび上がる様は必見です。

夏には「薪能」、秋には「月見の宴」が催され、ライトアップされた松本城天守を背に、日本の伝統芸能である能や雅楽を楽しむことができます。冬の1月に行われるのが、松本城と北アルプスを背景に、巨大な氷彫が展示される「国宝松本城氷彫フェスティバル」です。全国から集う参加者は夜を徹して氷の芸術を造り続け、朝日の昇る頃キラキラと輝く芸術作品が完成します。

行って良かった日本の城ベスト5にランキングされる外国人に人気の「国宝 松本城」の本当の魅力を再発見してみましょう。

松本城を支えた「井戸を辿る!平成の名水百選「まつもと城下町湧水群」を歩く」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/4229

 

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