太田金山城は堅固な石積みに囲まれた新田一族の“石垣の城”

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群馬県太田一帯は、鎌倉幕府倒幕を果たした武将、新田義貞ゆかりの地。古くは上野国新田荘と呼ばれていた太田市の中心にそびえる標高235.8mの独立峰、金山には、かつて戦乱の時代に築城された金山城跡があります。難攻不落といわれた関東屈指の名城は、大きく複雑な虎口、通路や土塁などに石を多用した「石垣の城」。石垣と石畳でガッチリ造り込まれたユニークな山城で、関東ではあまり例がない復元整備が進められ、その姿を私たちに伝えています。戦国期の関東七名城のひとつ新田金山城へ登城です。

日本100名城選出の新田金山城は、金山の尾根筋に新田義貞のひ孫にあたる岩松家純によって重臣の横瀬国繁に命じて文明元年(1469)に築城された「関東七名城」のひとつです。岩松家没後、享禄元年(1528)下克上によって城主となった由良氏(横瀬氏改姓)は、戦国大名の地位を得て、最盛期には新田・桐生・館林・足利などを手中に収め、隆盛を極めました。この間、武田や上杉等有力戦国大名と対峙するも落城することなく死守し、難攻不落の名城とされました。その後天正12年(1584)に謀略により北条氏の支配下になり、天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏が滅ぼされた後に廃城となりました。東武鉄道太田駅北口に立つ新田義貞像。金山城跡へはここから歩きます。

太田駅からかつての日光例幣使街道の大通り、本町通りを渡り、北へ大門通りを歩くこと約2km、25分ほどで大光院へ。途中観光大門をくぐります。大門の向こうにこれから向かう金山の姿が見てとれます。この山頂一帯に金山丈城の遺構があります。あらたまて地図を見ると、関東平野の中で、この金山丘陵だけが北関東の山々から切り離されたように存在する。標高239m、山岳というより丘という感じの稜線ですが、標高42mの太田駅付近から見ればその差200m、関東平野を見下ろす高地であることに変りはありません。

大光院(呑龍様)が金山へ登る西山コースの出発地点。義重山新田寺大光院は、徳川家康が、その祖とした新田義重を追善するため、慶長18年(1613)に金山南麓に創建した浄土宗寺院。徳川幕府が定めた浄土宗学問所関東十八檀林のひとつで、寺領300石。開山の呑龍上人は江戸芝増上寺の観智国師四哲の一人で、上人に由来する子育て信仰で崇敬を集めています。上毛かるたでは「太田金山子育て呑龍」の読み札で広く親しまれています。本堂前の黒松は、その形から「臥龍松」といわれています。

山門の吉祥門は間口3間、奥行1間の木像切妻造り、屋根は桟瓦葺で、三間一戸八脚門と呼ばれる形式に属しています。元和元年(1615)に中門として建立されたと伝わり、大阪城落城の日に上棟したことから徳川家康により吉祥門と命名されたとされています。平成12年の屋根の全面修復により、建立当時の瓦と推定される「丸の三葉葵」の家紋が入った屋根瓦で復元されました。

大光院裏手にある呑龍上人廟所や新田義重公の墓所を通り、急斜面を登ること約30分、西城・見附出丸と金山浅間神社への分岐点になる尾根道に到着します。左は長手・金山浅間神社まで400m、右は展望台・西城まで300mの標識が建ってます。太田市民にとってはハイキングコースとのことですが、ハイキングにしてはややきつめの上り坂です。

金山城は、金山山頂に位置する実城(本丸)を中心に、およそ300haの城域をもち、尾根沿いに見附出丸、西城などいくつもの曲輪がつらなります。それゆえ守りは非常に堅固なもので、虎口や石垣は迷路のように入り組んでいて攻め入る敵兵を陥れるのに最適な造りでした。まずは金山浅間神社にお参りし、来た道を戻り西城方向へ。途中には見附出丸の遺構があります。金山城の西側を守る最前線としての役割がありました。岩場を切り通した通路が残っています。

そこから一段登ると、西城跡に広がる金山モータープールという駐車場に着く。新田金山城は、頂きにある実城(本丸)を中心に北・南・西方の尾根の高所に見張り場所を設けていました。西城はその一つです。園路を左に進めば、ぐんまこどもの国へ行けます。

尾根道に沿って延びる散策路は、堀切や石垣などが連続して現れる遺構整備を実施した見学ルートで石畳や石段などで整備され歩きやすい。平成7年(1995)から遺構調査が進められ、発掘・測量結果や、元禄14年(1701)に作成された「元禄太田金山絵図」「松陰私語」などを基に、城域の一部が復元整備されています。

ほどなく、西矢倉台西堀切と西矢倉台下堀切があります。堀底はV字型の薬研堀ではなく堀底が平らな箱堀で、深さは西堀切が約3.4m、下堀切は約7.4mもあります。堀切とは、尾根や丘陵の一部を垂直に掘って通り道を遮断した防御施設で、西矢倉台西堀切は西城から実城(本丸)までの間にある4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切です。

この堀切は他と異なり、堀切の底を石敷きの通路として利用していて、堀切の端と西矢倉台下堀切の端をつなぐ斜面には、丸太を並べた桟道が設置されています。(現在通行不可)

西矢倉台下堀切は西矢倉台の西下に造られた防御施設で、西城から実城(本丸)へ向かう間の二番目の堀切です。この堀切は大堀切、物見台下堀切と比べて規模は小さく、西矢倉台西堀切のように通路として使われた跡はありません。

西矢倉台と馬場曲輪つなぐ内部通路を通り、その先が、物見台下虎口と土橋。奥を見せないよう通路の正面に石積みがなされ、左上の物見台から敵の侵入を監視していました。

すぐ脇には岩盤がむき出しの物見台下堀切が広がり、岩盤を削った跡が残っています。カナヤマは凝灰岩の岩盤が広がり、堀切の造成などで削り出された岩は石垣の石材に利用されたと思われます。

物見台の基壇は、自然の地形に沿って等脚台形に造られていて、基壇中央から物見矢倉と考えられる柱穴が4本発見されました。この4本の柱穴位置をもとに造られた物見台からは金山城の周囲が良く見渡せるため、敵(上杉謙信:天正2年)は物見台から死角となる藤阿久へ陣を構えました。晴れた日には、日光男体山、足尾山地、上毛三山・浅間山・八ヶ岳・秩父山地、そして関東平野最深部などを見渡すことができます。

物見台土橋から竪堀までの間の馬場下通路は石敷きの通路になっていて、防御上、土橋から見通せないように曲がった通路となっています。通路は竪堀にかかる木橋方向と堀底へ下りる階段へ分岐しています。竪堀の脇には石垣があり、堀底には通路がありました。

木橋の東側の馬場下通路では、石敷き通路が左手(石段)、岩盤斜面を登って物見台から馬場曲輪へ通じる通路へ合流します。またこの通路を直進すると東端で行き止まりになっていて敵を惑わせます。

物見台から、東に向かう通路は、北斜面際の石敷通路を経て、馬場曲輪へ至ります。馬場曲輪には大手口を守る兵が待機していたと思われる建物がありました。

金山城のなかでも最も主要な防御拠点である大手虎口の目前にある大堀切は、長さ約46m、掘り幅約15m、深さ約15mと大規模に造られています。また堀底には長さ約7m、高さ約1.5m、幅約1.8mの石積みでできた畝状の防御施設が1カ所あり、掘底が平らになっていることで、敵兵の侵入経路にならないよう、障害物として造られたもののようです。

馬場曲輪から下って大堀切を渡ると大手虎口脇に上下2段の石垣で囲まれた「月の池」があります。直径7m、深さわ2mあり、訪れる者に水の豊富さを見せつけています。

“石垣の城”を象徴するのが、この先、三の丸と、南曲輪(中島記念公園)に挟まれた大手虎口です。実城へ向かうための通路を厳重に守っていた一大防御拠点であった入り口です。大手虎口は谷地形を利用していて、谷底に全長35mの長大な大手通路がつくられています。土塁も大手道も石造りで、大手通路を見下ろすように南、北側にそれぞれ3段の曲輪が並び、石垣のひな壇に囲まれているよう。大手通路は不規則な段差を付けた石敷きで、曲線を描いて奥へ進むほど緩やかに幅が狭くなっています。この中枢部に敵兵が攻め込まなかったことも納得です。敵を威圧し、味方には城の威厳を示しています。

正面には土塁と巨大な石垣の壁が行く手を遮るように立ちはだかるため道筋がわかりにくくなっています。屈曲する石段の上には巨大な楠が繁ります。

大手虎口を進んだ三の丸の下にあるのが直系17mの「日の池」です。戦いでの勝利や雨乞いなどの儀式が行われていたと思われる神聖な場所で、ぐるりと回って高台にある実城(本丸)へ向かいます。

金山の最高地点、本丸跡には新田神社が鎮座しています。明治8年(1875)、郷土が生んだ鎌倉幕府倒幕の立役者・新田義貞を祀っています。

境内には樹齢800年ともいわれる大ケヤキがあります。昭和初期まで7本あったとおわれていますが、現在は1本のみで、樹高17m、目通り周16.79m、枝張りも40mを越えます。神社の参道脇にあることから御神木と同様の扱いを受けていたと思われます。

社殿の階段下から西、社殿の裏手に入り竹林が広がる、本丸と二ノ丸の間の堀切を抜けると、崩れることなく当時のまま現存する実城の残存石垣があります。石垣用材は、金山石が手近にあるので使用したものですが、大きな石は、柱状節理の山麓の根石を山頂7、山腹まで持ち上げた大工事でした。積み方は「野面積」で長い石の大きい面を奥に、小さい面を表にしてあるため、別名「ゴボウ積」とも言われます。断面は直線的で、緩傾斜し、栗石を充分利用しているために堅固です。本丸を取り巻く腰曲輪を時計回りに進むと元の階段下(御台所曲輪)に戻れます。

新田神社から下ること30分。麓近くには平成21年5月に開館した「金山城跡ガイダンス施設」があります。城の歴史を紹介し、火縄銃の弾丸や瓦など発掘品の展示もしています。登城前に知識を深めると遺構を前にして当時の様子を想像しやすくしてくれます。建築家の隈研吾氏による設計で、外観には金山城の石垣をイメージした石板が配置されています。御城印はこちらで買うことができます。

金山城大手の山麓にある曹洞宗寺院・金龍寺まで下ってくれば、スタート地点の大光寺まで約500mです。寺号は大田山義貞院金龍寺といい、金山城主横瀬・由良氏の菩提寺で、横瀬貞氏が祖父新田義貞の菩提寺として建立。天正18年(1590)由良氏の常陸国牛久移封とともに同地に移転しましたが、慶長年間、この地を領した館林藩主榊原氏により再興されました。

本堂内には新田義貞木像、本堂裏手には、由良氏五輪塔及び新田義貞公供養塔があります。37歳で没した新田義貞の供養塔は、石塔群の奥にあり、飾り気のない簡素さがいかにも坂東武者らしい。

大光寺を過ぎ東武伊勢崎線太田駅に到着。平成29年にオープンした太田市美術館・図書館1Fに併設されているcaffe「Oh!」で一休みします。

廃城後は土砂に埋没し、アカマツが生い茂っていたことから、江戸時代には将軍家へ献上するマツタケの産地として、「金山歩御林」の名で厳しく管理されていました。結果的に山林開発など人的破壊を免れ、良い状態で遺構が保存されてきたことに感謝です。写真は「B.LEAGUE]群馬クレインサンダーズのキャラクター

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