
松代散歩の醍醐味は江戸時代へのタイムスリップ。「殿町」「代官町」「鍛冶町」などの街角表記があり、高い建造物は見当たらず、長い白壁や武家屋敷のあいだを歩くので時代を超越するのも自然なことです。元和8年(1622)真田信之が上田城から移って以降、明治維新まで真田10代が松代を治めました。真田信之は入封直後に火の見櫓を兼ねた鐘楼を設置して町の安全に気を配り、8代藩主・幸貫は文武学校の設立を指示します。武田信玄の命によって築城された松代城を中心とする城下町ですが、発展させたのは真田家。寺の本堂に、街に、六文銭が輝いています。
松代城は永禄3年(1560)甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信に備えて謀将山本勘助に命じて縄張りさせた平城で、千曲川のほとりという自然の地形を巧みに取り入れ、天下の名城と言われており、当時は海津城と呼ばれていました。 武田信玄が北信濃を支配する拠点であり、川中島合戦で著名なこの城には、武田四天王・高坂弾正忠昌信を城代においていました。武田滅亡後、織田時代には森長可、関ヶ原の戦い後森忠政(長可弟)が13万7500石で入封しその後、越前松平家忠昌、酒井忠勝を経て元和8年(1622)真田信之が入封後代々真田十万石松代領主の居城となり、正徳元年(1711)幕三代藩主幸道のときに幕命により松代城と改称しています。
明治4年の廃藩により取り壊され、以前は石垣を残すだけでしたが、現在は平成14年本丸の大手を固めていた太鼓門(櫓門)や橋詰門(高麗門)などが石垣は当時のものも使用して復元され、国の史跡にも指定される城跡をソメイヨシノがピンクに染め、石垣に映える桜に気品が感じられます。
松代城は土塁を多用しした真田家の築城術が随所に見られ、千曲川の氾濫と戦うための仕組みがつくられています。千曲川の流れを外堀に、三方を山に囲まれた「天然の要塞」といわれた松代城でしたが、そのためにしばしば水害に見舞われました。寛保2年(1742)には「戌の満水」と語り継がれる未曾有の大水害が起こり、本丸や二の丸も冠水しました。この教訓から千曲川の流路を城から離す「瀬替え」事業が進められ、徐々に現在の川筋になりました。石垣は本丸や城門にのみ使われ、二の丸、三の丸、花の丸といったその他の曲輪は土塁で囲われています。
本丸に3ヵ所あった隅櫓のうち本丸北西に城内で最も大きな櫓であった「戌亥櫓」がありました。敵からの侵入とともに千曲川の様子を監視できるように造られていました。基盤となっている櫓台の石垣は、城内に現存する石垣の中で最も古くて高い。近世初頭のものとされ、工法も安土桃山時代の特徴である野面積で積まれています。大小の自然の石を巧みに組んでいて、勾配の美しさと櫓台の高さから当時の築城技術の高さがうかがえます。
太鼓門へは二の丸南門跡から向かいます。二の丸は本丸を囲むように土塁を多用して造られています。これは真田流の城づくりである側面と関ヶ原、大坂の陣という二つの大戦で徳川に抵抗した真田氏への幕府の警戒感に配慮したものと考えられます。真田家が上田から松代へ転封されたのは上田合戦で徳川家を苦しめた真田昌幸・信繁父子への警戒感は依然として強く、彼らの本拠地であった上田から離し、城の規模の大きい松代へ移すことで、かつてほどの地域的支配力を発揮できなくさせるためでした。
太鼓門は松代城の本丸南側にある門で、松代城には3ヵ所の出入口があり、なかでも一番大きなものが本丸の守りの役目をしていた太鼓門です。外側の橋詰門とは続塀によって繋がり門自体が枡形虎口を形成していました。太鼓門は高さ11.8mで2階部分は櫓7になっているのが特徴です。。木材や漆喰を使った工法で建てられています。外側にある橋詰門は、高麗門形式で、すぐ外側には内堀にがあり、太鼓門前橋が架かっています。
本丸内部は非常にコンパクトで大きな建物は置かず、居宅や政務所は三の丸や花の丸といった外郭につくられていました。
北不明門は、本丸の北側に位置する門です。搦手の役割を果たしていて、構造も太鼓門と同じく櫓門と外側の高麗門・続塀で構成されています。18世紀前半までは千曲川の河川敷に位置していたことから「水ノ手御門」とも呼ばれていました。写真は本丸から北不明門を見ています。
平成16年(2004)に北不明門は復元され、櫓門は太鼓門と同じく2階部分に櫓があるとともに櫓の部分が石垣に繋がっていないのが特徴です。写真は北不明門入口と続塀に連なる北東の石垣台跡
戌亥櫓台には現在上り階段が設けられていて城内で最も高い位置に立つことができ、北不明門も枡形虎口であることが分かります。
埋門は本丸からみて西側、二の丸の北西にある門fです。二の丸を囲う土塁の中に配置されていて、石でトンネル状に構築されています。緊急時にすぐ埋められるようになっていることが名前の由来で、門の幅は人ひとりが通れる程度です。
東不明門橋は本丸と二の丸をつなぐ橋。
太鼓橋門から歩いて3分ほどのところは真田公園となっていて、真田宝物館、真田邸、真田信之公像があります。真田宝物館は昭和41年(1966)真田氏12代幸治氏によって松代町に寄贈された父祖伝来の家宝や松代藩に関する記録を展示するため昭和44年(1969)に開館しました。
常設展示室では真田家の歴史や所蔵していた武具・刀剣類を含む大名道具、武田信玄・豊臣秀吉・徳川家康など名だたる戦国武将の書状もあり見応え十分です。松代城のジオラマもあり事前に見ておくとお城の縄張りがよくわかります。
真田宝物館のすぐ裏手、南西に旧真田邸があります。「旧真田邸」は、江戸末期、大名の妻子の江戸詰めが解かれ、文久2年(1862)に松代に戻る母・貞松院(お貞の方)の隠居所として9代藩主幸教が元治元年(1864)に建てたもので、当初は城内にあった花の丸御殿と区別するため「新御殿」と呼ばれていました。明治維新後は真田伯爵家の私邸として使用され、昭和41年(1966)真田氏12代幸治氏によって松代町に譲渡されました。
建物自体は質素な感じがしますが、敷地はとても広く、「水心秋月亭」という別名を持ちます。邸内には主屋・表門・庭園・7棟の土蔵が残されており、江戸時代末期の御殿建築を現在に伝えています。
小堀遠州の流れを組むという庭園は、屋敷内部から一望できる座鑑観式庭園となっています。門構えなどは昔の屋敷そのままなので、江戸時代にタイムスリップした感じがします。
武田信玄が築城し、真田氏をはじめ戦国時代の名だたる大名が居城した松代城を中心に城下町として発展してきたのが松代であり、明治維新までの約250年間変わることなく松代は真田家10代にわたり十万石の城下町であり続けました。戦災も再開発も経験しなかった松代は、今も松代藩当時の面影を驚くほど留めており、格式を伝える武家屋敷の土塀がつながり、足許は「歴史の道」として整備された歩道が続いています。そんな松代で新しい観光のカタチが提案されていて、それが「大人の修学旅行」と銘打たれた「エコール・ド・まつしろ」です。 「遊学城下町・松代」をコンセプトに文化や歴史を楽しく学ぼうという趣旨である。
歴史の道の突き当りに「文武学校」がある。佐久間象山らの具申により、8代幸貫が設立を指示するも逝去。意思を受け継ぎ9代幸教によって安政2年(1855)に開校した文武併習の藩校で、幕末に多くあった藩校のなかで武道にも力を入れているのは松代藩ぐらいではなかっただろうか。敷地内には、文学所、教室2棟(東序・西序)、剣術所、柔術所、弓術所、槍術所、文庫蔵など9棟が現存し、200名を超える生徒が通っていた当時の面影を残しています。
門を入ると正面に立派な文学所がある。藩主用の大玄関からつながる畳敷きの部分が大広間、その左手西へ順に台所、御役所、御居間(藩主の座)、さらにその奥に文書庫が並んでいます。建物の西側は御役所と呼ばれ、学校の管理を担当する藩の役人たちがいた場所です。「御目付」「調役」「掛役人」など役職によって分かれていました。写真左手の部屋が御役所で奥に文書庫が見えます。
大広間は、講義のほか、稽古初め、稽古納めなどの式典に使用されていました。ここは3つに分かれ、東側の奥の部屋から「大間一之間」「大間二之間」「大間三之間」と呼ばれ、一之間には床の間があり、式典では身分の高い人物や教授する師匠の席が設けられていました。二之間、三之間には門弟たちが並びました。大広間の両側にある畳敷きのスペースは「入側」と呼ばれ、通路として使われた他、式典での控の間や小教室としても使用されていました。本来「入側」は身分の高い人物が使う通路であったため門弟たちはさらに外側にある板張りの廊下を利用していました。
「序」は教室の意味で、西序では東洋・西洋の医学、小笠原流礼法などの講義も行われた場所で、西序と対をなすように配置された東序では西洋の軍学、儒学などが教えられました。
文学所→槍術所→弓術所→柔術所→剣術所の順にまわる。建坪は1505平方メートルもあるが、案内板が整備され迷うことなく五か所回回れます。文学所の西隣にあるのが槍術所で校内の稽古場ではもっとも広く、長い柄を持つ槍、薙刀、長巻などの稽古が行われました。
弓術所は武家諸法度に示されたように「弓馬の道」に励むことが武士に求められていて、礼儀作法を重んじる弓術は松代の武士にとって特別な武芸のひとつでした。
柔術所はかつて前面に畳が敷かれ、柔術をはじめとする和術、腰廻、捕手などの格闘術の稽古が行われていましたが、明治元年からは戊辰戦争の影響もあり、銃器や弾薬の製造所となっていました。現在は当時銃や大砲をリアルに再現したバーチャル砲術体験施設となっています。
最後に剣術所を見学します。校内唯一の入母造で破風がついた屋根を備え、学校の入口にふさわしい格式の高い建物となっています。各稽古場には藩主専用の見学席である「御覧所」がありますが、剣術所の場合は東面中央にある高座で他よりも高くつくられ、壁土も特別な色となっています。松代藩では剣術も盛んで、他藩からの修行者も多く訪ねていて、長州藩から高杉晋作がやってきたとの記録が残されています。
文武学校の前の歴史の道沿いには、旧白井家表門や旧樋口家住宅、真田勘解由家などの武家屋敷が江戸時代へタイムスリップさせてくれます。旧白井家表門は、弘化3年(1846)の建築、三間一戸門形式の長屋門で門部は太い槻の角材でつくられています。間口が20m余の長大な門で背面に3つの居室部を付設し、白井家の陪臣武士などが居住していたと見られます。長大な間口に対して茅屋根を低く抑え、正面は間口の左右に出窓と与力窓のみの単純構造で意匠性に優れています。松代藩の中級武士の代表的な表門です。白井家は高百石、元方御金奉行、御宮奉行などを務め、子も文武学校権教授に出仕し、佐久間像山との親交もあったといいます。
隣の旧樋口家住宅は他の藩士と同様に一種の公舎で、敷地にほぼ中央には泉水路が東西に流れ、敷地の南側は庭園もしくは畑として使用。北側に桁行14.53m梁間7.26m延床面積139.91㎡の木造平屋建、寄棟造、茅葺の主屋を中心とした建物がありました。旧樋口家は藩の目付役などを務めた高230石の上級武士でした。
真田勘解由家は、松代藩初代藩主・信之の子・信政(二代藩主)と信之と心を寄せあっていた京都在住で詩歌・書画・琴など諸芸に通じていた小野お通の子・図子(宗鑑尼)との間に生まれた信就が始祖となっています。信就は長男でしたが大名になることを好まず異母兄弟の幸道が3代となりましたが、幸道に子がなく信就の七男信弘が4代を継ぎ6代まで続きました
「歴史の道」と呼ばれる涼しげな水路脇を通る風情ある散策路を通り、象山神社へ、「象山神社」は、松代藩が生んだ開国論を唱えた幕末の思想家にして科学者の佐久間象山を祀る神社で、下級武士の出身ながら 幼少の頃から文武両道の神童として知られた象山は、真田家の精神を引き継いだ8代藩主 真田幸貫に見出され 江戸へ遊学。その後、吉田松陰や勝海舟など数々の幕末ヒーローたちを門下生に持つほどの人物になっていきます。
そんな幕末の先覚者・佐久間象山を祀り、全国の教育関係者の尽力により昭和13年に創建。境内には総桧材桃山式流造の雄大な本殿、象山が幕末に活躍した高杉晋作や中岡慎太郎ら幕末の志士たちと国家の時勢を論じたという高義亭、京都から移築した茶室・煙雨亭、生誕200年を記念して建立された銅像などがあります。
山寺常山邸にも立ち寄る。山寺常山邸は、知行160石の中級武士の家格で、江戸時代に儒者・鎌原桐山、佐久間象山とともに松代三山と称えられ、8代藩主真田幸貫の信頼も厚く、寺社奉行、郡奉行を務めていた。表門は、江戸時代の終わりから明治初期にかけて建てられたと推測。武家らしい凛とした佇まいのある門は、通りに立つだけでも誇らしく、長屋門形式の表門は、間口が約22m、松代城下に残る門の中でも最大である。常山内にある庭園は、池泉・泉水路が残されており、背後にある山並みを借景とする「借景庭園」が残る。
旧横田家住宅は住宅街の一角にあり、松代藩で郡奉行などを務めた真田家家臣の住宅跡で、建物、庭園、菜園などがほぼ完全に残されている。これで中級武士の住宅というのには驚かされる。この家で育った横田秀雄は大審院長に、その子正俊は最高裁判所長官になり、二代続いて裁判官の地位についた。そのほか秀雄の弟謙次郎(小松)は鉄道大臣となり、姉の和田英は「富岡日記」の著者として有名です。
旧松代藩鐘楼は松代藩初代藩主真田信之が寛永元年(1624)に火の見櫓として設置。大火で焼失後、享和元年(1801)に再建されたもので庶民に時を告げました。寛永2年(1849)に佐久間像山が電信実験を成功させた場所とも言われています。構造は石積みの基壇の上に立つ井楼式高櫓形鐘楼で、高さは約12m、屋根は切妻の瓦葺きです。屋根まで伸びる四隅の柱を保護するため、支え柱を立て、下見板張りとしている。内部は三層になっていて、土間を除いて床は板張りとし、各階をはしごでつないでいます。い

矢沢家表門は寛政4年(1792)に再建された長屋門で間口13.19m、奥行3.72m、高さ6.83mで、屋根は入母屋造の瓦葺です。門の両側に武者窓を備えた同心部屋を配し、右の同心部屋の隣には「供待」という腰掛を備えた開放」の空間を備えています。鬼瓦や破風に配された六文銭や白漆喰の壁など城門を思わせる格式を持っています。矢沢家は松代藩において代々無役席(筆頭家老格)を務め、江戸中期以降は1400石、藩中最高の家格でした。
幸隆が創建した菩提寺を松代に移した長国寺(ちょうこくじ)は御霊屋がある真田家の菩提寺。本堂に聳える箱棟が特徴。墓所には、歴代藩主の宝篋印塔や幸村親子の供養碑が立ちます。
圧巻は信之の壮麗な御霊屋で、唐破風を飾る鶴の彫刻は左甚五郎作といい、伝内の格天井の絵は狩野探幽と伝わる。真田本城のある真田地区の菩提寺は長谷寺(ちょうこくじ)で、谷ではなく国を用いています。
