岡山の倉敷や会津の喜多方、埼玉の川越・・・土蔵が並ぶ風情豊かな町は全国に点在し、“蔵”と聞くと、主屋の隣に威風堂々と立っている風景を真っ先にイメージします。しかし、秋田県横手市の増田町は、そんな場所とはちょっと趣を異にする蔵の町。黒い切妻屋根が白く変わる県内有数の豪雪地帯ならでは増田の冬の風土が生み出したその屋根の下には、外観からは想像もつかないほど豪華で重厚な内蔵が静かに黒漆喰を光らせています。
JR東日本「大人の休日倶楽部」増田の内蔵編では『たとえば、秋田の内蔵を訪ねる。かつて東北経済の要衝として栄えた横手市増田町。秋田屈指の豪雪地帯としても知られるこの町には、雪から守るために蔵全体が母屋で覆われた「内蔵」と呼ばれる豪華な蔵を構えた商家が400mほどの通りに40軒以上も軒を連ねます。表側が慎ましやかに、内側は眩しいほど美しく。寒い東北の地だからこそ育まれた独自の文化。』と隠れた日本を探す旅へと吉永小百合さんがいざなってくれています。
増田地区の中心地、中七日通りには、約400mの通り沿いに明治から昭和初期に建てられた家屋や内蔵が今も残り、国の重要伝統的建造物保存地区に指定されています。内蔵は本来プライベートな空間ですが個人宅を含む43棟の内19棟が見学できます。平成20年(2008)の調査まで、住民以外にはほぼ知られていなかった各家自慢の内蔵を訪ねます。昭和の初めに来日し、3年半を過ごしたドイツの建築家ブルーノ・ダウトは「日本美の再発見」(1939年)で『実にすばらしい観物だ!愛せずにはいられないだろう』と述べています。
鞘となる上屋で覆われた、屋内の不思議な蔵はなぜ増田で生まれたのか?増田の立地を見てみると、横手盆地の東南部に位置する増田町は、近くで成瀬川と皆瀬川が合流、小安街道と手倉街道という二つの旧街道も交差するので、江戸時代から人や物資が行き交う商業流通の拠点として発展しやすい場所でした。江戸時代以降は、周囲の農村で葉タバコや生糸の生産が盛んになり、物資の集散地としても発展。農村部に発達した商工業者の集落=在郷町として栄えたのです。その中で有力商人らがこぞって建造したのが切妻造りに下屋庇を持つ商家建築と成功の証として建てた「内蔵」です。それらは白漆喰や黒漆喰磨き仕上げなどの意匠が凝らされています。
中七日町通り(旧小安街道)には当時の地割りがよく残っています。通りを挟んで、両側には東側の家は約100m、西側の家で約110mという長い奥行きをもちながら、間口は9m前後と短冊型の地割りが特徴の建物が並んでいます。その細長い敷地に切妻造妻入を主とするが主屋が軒を連ねて立ちその主屋内の奥に、豪華な内蔵があり、夜まで活気にあふれ光が消えないことから、明治中頃までは“ホタルの町”(=お尻側が美しい)と呼ばれていました。
まずは国道342号ち中七日町通り(増田蔵前通り)が交差する四ツ谷角交差点にある「増田の町並み案内所ほたる」の駐車場に車を停め、散策マップを手に入れます。案内所ほたるは旧杏華堂石田医院の主屋を改築したものです。石田家は享保年間に石田久左衛門の息子が医師になり開業したのが始まりとされます。昭和末まで9代続いた名門の医家です。
内蔵は内転びのある二階建て切妻造りの比較的小ぶりな土蔵ですが、増田に残る内蔵の中では出入口が前後ではなく設置された唯一の意匠デザインの座敷蔵です。土蔵には鞘飾りは現在存在しないものの、鳥居枠や土蔵の蛇腹や化粧彫の角に面取りが施され、細いシャープな白漆喰の線を持って黒漆喰の土蔵正面を引き締めています。入口正面の踏石には従来からの天然石ではなく、洗い出し人研ぎ仕上げの疑石が用いられています。内蔵に興味を抱きつつ増田蔵町通り(中七日町通り)にでかけます。
往時の姿に回帰しはじめた増田の町のほぼ真ん中にあるのが佐藤又六家です。江戸時代から続く旧家で現当主は12代目。増田の一般的な内蔵が敷地奥に位置するのに対して、こちらは唯一、中七日町通りに面する手前に内蔵(主屋)が存在します。通りから見上げると2階の窓の奥に土蔵造りが見え、内蔵だとわかります。ご主人の佐藤又六さんに導かれるままに案内していただく(入館料300円)。江戸時代から,増田は5回も大火があり、木造家屋だと簡単に燃え移るので、町の要請により町の中央に位置するこの場所を土蔵造りにし、防火壁の役割をもたせた火止めの蔵として明治元年(1868)に建てられたとのこと。増田に現存する最古の建物で、玄関を入ってすぐ重厚な扉と内蔵がある造りも珍しい。
敷地は間口8.7m、奥行き111mの東西に長い敷地の南側を下夕堰が西流しています。土蔵造の主体部と付属屋から成る主屋と白漆喰の簡素な内蔵の文庫蔵で構成されます。通りに面する間口約7.3m、奥行き約21.8mの2階建ての土蔵を、さらに切妻屋根の鞘建物で覆うという入れ子のような主屋が珍しい。主屋は明治4年(1871)、その奥の文庫蔵は幕末か明治初期の築とされます。
2階部分の黒光りする扉は、漆喰を圧密に固めて作られ、上部には火止めの願いを込めて唐草の鏝絵が描かれています。
南の信号のある交差点まで歩くと、材木や味噌醤油を商いし江戸時代より8代続いた大地主旧小泉五兵衛家があります。戊辰戦争時において350両という増田一の御用金を納めたといいます。現在は稲庭饂飩佐藤養助商店所有の漆蔵資料館になっています。主屋の中に入ると正面に3重の厚い扉で守られた漆蔵が建っています。ここで折り返すと、左手にまちの駅福蔵(旧佐藤興五兵衛家)があります。佐藤興五兵衛家は米の取引商で増田銀行創立時監査役の一人。大正時代に増田勧業社を設立し、セメントなど建設資材を扱う商いもしていました。現在は所有者がかわり食品製造の佐忠商店が営業しています。
隣に文政2年(1819)に石田久兵衛家(旧勇駒酒造)より分家し、戦前まで酒造業(銘柄金星)を営んでいた旧石田理吉家があります。昭和12年(1937)頃、一年数か月を要して竣工された木造3階建ての建物は来客をもてなすための部屋も設けられています。
さらに歩くと「増田観光物産センター蔵の駅(旧石平金物店)」があります。明治大正時代金物商などを営んで石田家より横手市に寄贈されたもので、明治中期の建築で、増田町の標準的な町屋構造を見ることができる建物として無料開放されています。
道路に面した正面に店舗を配し、座敷、居間、水屋と繋がる部屋割りは、増田の商家の基本的な配置で、家屋の南側に店舗より裏口まで延びるトオリが設けられています。トオリは細長い敷地を積雪の多い冬場でも行き交うことが出来るように設けられた、積雪地帯の生活の知恵です。
また他家と同様に覆い屋に包まれた土蔵が主屋の水屋に繋がり、主屋と土蔵(内蔵)が一体となった地域特有の造りとなっています。
正面と背面を開放することが出来、正面の扉には細工が施された「鞘」で覆われているのが特徴です。正面扉と扉回りの磨き黒漆喰は、職人の腕が問われる造りです。JR東日本「大人の休日倶楽部」増田の内蔵編のCMポスター『40余りの商家が家の中に蔵を構える秋田増田の内蔵。外は質素に内は美しく、それはこの町の生き方そのもののようでした。』では、写真の内蔵が使用されています。
増田地区の内蔵のほとんどは、1階は手前に板の間、奥に座敷間、そして座敷間から望む庭は四季折々の景色が楽しめます。
2階は板の間で什器類を収納していて、大きな梁と棟木に注目です。他の地域にある土蔵との違いは、そこに生活空間を持つという点であり、多くは当主などの居室として利用されていました。
次に訪れたのが佐藤又六家の向かい、増田で一番新しい内蔵とされる山吉肥料店です。店主の山中英一さんが優しい笑顔で迎えてくれますが、この人こそ大人の休日倶楽部「増田の内蔵編」CMで吉永小百合さんを案内していたご主人なのです。表通りから「山吉肥料店」の暖簾をくぐり、奥に続く土間を進むと、生糸の商売で財をなして建てられたという立派な内蔵が現れます。
昭和10年(1935)築という内蔵は増田で最新のもので、黒漆喰が施された重厚な雰囲気の扉は、片側で約700kg以上になります。艶のある黒漆喰の壁や花をかたどった鏝絵、蔵を保護する内鞘は魔除け効果のある麻の葉の意匠、内蔵の角は銀杏仕上げの水切りでイチョウの葉上端のようななめらかな曲線を描いていたりと、細かい部分まで当時の職人技術の粋を集めた内蔵を見学できます。
こちらも増田の商家建築の特徴である家屋配置が残る建物で、南側に配置されたトオリは店舗から裏門まで約100m一直線に延びています。非常に綺麗に保存管理され、季節を問わず明るく採光もよいため取材でのロケ地として好まれる建物の一つです。
内蔵を覆う上屋はトラス構造。右が約40mの「通り土間」が店から帳場、居間、蔵まで貫いています。上部には猫走りが設けられ扉を閉めれるようになっています。歩くにつれて光と景色が移ろい、見事な空間構成が体験できます。吉永小百合さんも歩いていました。
山吉肥料店と下夕堰を挟んで明治に父子二代で水力発電会社を創った国の重要文化財「旧松浦千代松家住宅」が建ちます。
下夕堰(下関)は、ここから東へ2.4km離れた真人山南麓の成瀬川より取水し、町の中心部を東西に流れ、西の十文字方面に向かう用水堰です。この堰は流域住民の生活用排水や防火用水、農業用水としても活用され、増田の人々に恵みを与え絶え間なく流れています。本堰の歴史は古く、江戸時代には「本多堰」とも呼ばれ、佐竹氏が秋田に入部する以前に開発された農業用水路であり、おそらく戦国時代から増田を流れる用水堰であったと考えられる。古地図で流路を辿ると、ここより下流の増田城(土肥城)址付近を流れているように描かれていて、城のお堀の水として活用されていたと推定され、当時は軍事的にも貴重な堰であったと思われます。
増田の町並み案内所ほたるの斜め向かいに「日の丸醸造」があります。元禄2年(1689)沓沢甚兵衛が創業し、秋田藩主佐竹家の家紋「五本骨の扇に日の丸」に因んで蔵名「日の丸」となったといいます。現在は佐藤家が経営する増田で唯一の醸造元です。
昭和56年(1981)にNHKの朝の連続TV小説「まんさくの花」が秋田県横手市を舞台に放映されたのを機に新たな銘柄「まんさくの花」が誕生しました。明治41年(1908)築の内蔵の意匠は繊細で豪華な装飾は保存管理もよく素晴らしい。壁に一尺(約30cm)おきに並ぶ青森ヒバの通し柱は2階まで続きます。
秋田のグルメといえば日本三大うどんのひとつ“稲庭うどん”です。日本を代表する手延べ干しうどんの代名詞「稲庭うどん」は油を使用せず、塩と小麦だけで丹念に生地を練って熟成後、手綯いの工程を経て細く延ばすなど、全行程が手作業でツルリとした喉ごしと強いコシが特徴。その稲庭うどんの名店、八代目佐藤養助総本店を小安街道を南に走って訪れます。300年以上前に現在の湯沢市稲庭地区で、佐藤市兵衛によって始まりました。この製法は門外不出でしたが、一子相伝の技が絶えることを心配した宗家・佐藤(稲庭)吉左エ門によって万延元年(1860)、二代目佐藤養助(佐藤吉左エ門四男)に稲庭干饂飩の製法を伝授され、今日に至っています。
秋田県栗駒産地の清らかな伏流水が湧き出る稲庭町は良質な小麦の産地であり、また船による塩の交易が盛んであったことが重なって、古くから美味しいうどん作りに欠かせない水、小麦、塩の三要素に恵まれてきました。食したのはカツオのだしが効いた醤油つゆと風味豊かな胡麻・味噌つゆの両方が味わえる二味せいろです。つやつやと白く輝く細めの麺はつるつると口に入り、かみしめるとしっかりとしたこしがあり、つるりと喉をすべっていくなめらかな食感が抜群によい。
湯沢から国道398号(小安街道)でさらに南、秋田県の最南端にある小町美人七湯のひとつ泥湯温泉を目指します。 「ゆざわジオパーク巡りの終点は天狗伝説の泥湯温泉・奥山旅館」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/13429