
江戸三大俳人のひとり小林一茶は、豪雪地として知られる信濃町柏原に生まれました。俳諧師として認められた後、50歳にして帰郷した一茶は、郷土の自然や暮らしに寄り添い、動植物や子供を愛する多くの句を生み出しました。一茶生誕の地であり、終の住処である「信濃町」、一茶を中心にサロン的な社交場が広がった「信州高山村」、温泉好きの一茶が逗留した「湯田中」と、一茶の足跡をたどり、一茶の句の世界を旅してみませんか。
長かった冬も終わりを告げ、北信濃にもようやく春がやってきた。江戸三大俳人の一人小林一茶は宝暦3年(1763)豪雪地として知られる信越国境の信濃町柏原に生まれます。俳諧師として認められ後、全国各地を巡り多くの句を残した一茶が終焉の地に選んだのが生まれ故郷の信濃町柏原でした。文化9(1812)年冬、50歳を機に帰郷した一茶は郷土の自然や暮らしに寄り添い、動植物や子どもを愛する愛でる数多くの句を生みだしました。「是がまあ つひの栖か 雪五尺」
安定した生活を望みましたが文政10(1827)年夏、柏原宿の大火で類焼し、間口3間半、奥行き2間2尺の焼け残った土蔵で暮らし、その半年後の11月19日、65歳の生涯をとじました。
一茶の生家があった場所には、一茶が最後を過ごした土蔵と、一茶の時代を伝える茅葺き屋根の弟宅があり、旧宅は、国史跡に指定されています。
「史跡小林一茶宅」には、29歳の14年ぶりに帰郷した際に詠んだ「門の木も 先つつがなし 夕涼」の句碑がある。
俳人・小林一茶生誕の地であり、一茶65歳、波乱万丈の生涯を閉じた信濃町柏原に、2003年、新たな一茶研究の殿堂「一茶記念館」がオープンしました。一茶終焉の地である旧宅が国の史跡に指定されたのを記念して、昭和35年(1960)一茶の墓のある小丸山にが旧一茶記念館が開館してから老朽化と収納スペース不足に伴う建て替えですが、小丸山公園の見晴し抜群のロケーションを存分に生かした、透明感とぬくもり感あふれる現代建築です。
長野市立博物館をはじめ松本市美術館、北斎館などを手がけた建築家・宮本忠長氏設計のモダンな建物の記念館は、ガラス、鉄、金属など硬質な素材を使いながら、抑えた色あいと、天井から軒先に続く地域材のカラマツの木質感が一体となった、やさしい印象を受ける。そして天井のカラマツがそのまま外の軒先まで続くことで、伸びやかさと広がりをも感じさせてくれます。建物内からも一茶が眺めたであろう北信五岳の黒姫山や飯綱山、妙高山を望めるように配慮された「展望ラウンジ」と名付けられたスペースがあります。記念館では、一茶の生涯を辿りながら、「七番日記」「おらが春」などの、貴重な一茶作品を見ることができます。一茶の故郷柏原宿のようすや、一茶顕彰に関する資料なども展示されています。(入館料500円)
記念館前には、一茶の代表作「おらが春」のなかで、故郷を描いた一節にでてくる「九輪草 四五輪草で 仕廻けり」の句碑があります。また記念館と小丸山公園は、一茶記念館二代目猫館長「うみ」お気に入りの場所なので是非会いに来てみてください。
一茶記念館隣、小丸山公園に「俳諧寺(一茶おもかげ堂)」があります。一茶の死後から80余年後の明治43年(1910)に、一茶を慕う地元の人々によって建てられた茅葺きの小さなお堂で、格天井には、一茶を慕って訪れた著名な文化人たちの作品が掲げられています。周辺の木立の中には種田山頭火らの句碑もあり、たくさんの著名な人々が一茶のふるさとを訪ねています。俳諧寺の前には一茶の像と「初夢に 古郷を見て 涙かな」が刻まれた句碑が立っています。
お堂の裏手にまわると、父母の命日には墓参りを欠かさなかったという小林家代々の墓もあるので、一茶をめぐる旅にはまずここから始めてみてはどうでしょう。
小丸山公園の東に位置する一茶の菩提寺である「明専寺」には、一茶の銅像のほか、さみしい幼少期を思い起こしてつくった「我と来て 遊べや親の ない雀」の句碑が立ちます。
柏原仁之倉に一茶の母の家(宮沢家)跡があり、長男の一茶はここで生まれたと伝えられている。「ともかくも あなた任せの 年の暮」の句碑がある。
柏原は、昔から蕎麦の産地でもあり、「そば所と 人はいふ也 赤蜻蛉」「そばの花 咲くや仏と 二人前」など、そばを題材にした名句が連なるのも、幼少の頃よりそばに親しんできた証であろう。
ということで仁之倉にある、霧下そば「仁の蔵」でそばをいただくことにした。地元で採れたものをその土地で食べる。仁之倉地区の家庭では日常の食卓でそばを食べてきました。生産組合直営の仁の蔵は「うまいそばはを産地で食べる」というシンプルな発想から生まれた本当の霧下そばを提供するお店です。入口の大きな自作の木の看板が目印で、広い駐車場は入りやすい。
直営という利点を生かし、霧下そばのなかでもさらに良質の玄そばを厳選し、それを毎日石臼で挽いて毎日打つ。新鮮なそばは青みがかり、まさに挽きたての味が楽しめます。
コシのある二八そばは歯応え充分。それでいてツルっとした喉越しでなめらか、気取りのない素朴なそばです。しかも1人前で十分満足できるだけの量が盛られています。そばを注文すると付いてくる漬物や小鉢も素朴でサービス満点。
50歳で柏原に戻った一茶は、北信濃で俳諧師として活躍しました。その頃、高山村には「高井野連」という俳句の組織があり、この地の俳人であった久保田春耕から父久保田兎園の離れ家を逗留先として提供された一茶は、以後65歳で亡くなるまで俳諧指導の為、178回も頻繁に高山村を訪れました。高山村の一茶の門人は、久保田春耕、梨本稲長、梨本牧人、中村皐鳥、善哉山士など二十人ぐらいいたそうです。一茶の門人は、経済的に後援者でもあり、一茶はお礼として書や画を贈ったのでしょう。高山村は村の門人の子孫の家に残されていた一茶の遺墨や関連資料の寄託を受けて、平成8年「一茶ゆかりの里 一茶館」を建設しました。設計は、最高裁判所の設計でつとに有名な日本芸術院会員、岡田新一氏で、緑の広い敷地に、階段状にかしげた記念餡がモニュメントのうぴに強烈にアピールしています。
江戸時代寛政期に建てられた「離れ家」と対をなし、一茶の生涯を象徴する建物になっています。「久保田家の離れ家」を始め、数多くの真筆を伝える一茶の博物館に是非来てみて下さい。(入館料500円)高井のや 只一本の 花の雲
小林一茶が江戸への行き来では湯田中から渋峠を越えて上州へ抜ける草津道を利用していたといい、その道中で「湯田中温泉」に入ったといわれています。また湯田中湯本の希杖・基秋親子が一茶の門弟であり、かつ有力な後援者であった関係上、他界するまでの15年間、足繁く湯田中に湯治に訪れていたといわれる一茶。地元の人々が今でも“一茶さん”と親しみを込めて呼ぶここ湯田中にも、一茶を偲ぶゆかりの場所が点在しています。
湯田中温泉は7世紀、天智天皇の時代に僧・智由によって発見されたといわれる長寿の湯として知られています。湯田中駅からかえで通りを歩くとある湯田中温泉の共同浴場・大湯は、かつて共同浴場番付で西の道後、東の湯田中と称される名湯で、この前に「雪ちるや わきて捨てある 湯のけぶり」と一茶が詠んだ句碑があり、一茶も驚いたほどの豊富な湯量で今も変わらず湯煙りをあげています。
そんな湯田中温泉の裏山に、約2KMにおよぶ一茶を偲んでつくられた遊歩道「一茶の散歩道」があります。「三弦の ばちで掃きやる 霰哉」「子どもらが 雪喰いながら 湯治哉」をはじめ、一茶の句がしたためられた25の立て看板が立ち並んでいます。 一茶堂には小林一茶の像が、また散歩道入り口には、本堂に一茶の木造を安置する梅翁寺もあり、一茶に思いを馳せながらのんびり歩けます。
一茶の散歩道「信州湯けぶりの町・湯田中に小林一茶の足跡を辿る秋色散歩」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/240