高低差日本一の山城登山に挑む!日本三大山城“大和高取城”

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奈良県高取町にある高取城。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城と並ぶ日本三大山城の一つ。標高583.6mの高取山の頂に築かれ、城内周囲は約3kmに及びます。南北朝時代の元弘2年(1332)大和の豪族・越智那澄が築城した際は、「かきあげ城(土をかきあげた手軽な城)」でした。後に織田信長に仕えていた筒井順慶が郡山城の詰の城として再建し、天正13年(1585)に大和大納言豊臣秀長の家臣・本多俊政により近世的城郭として整備・拡張されました。その後、寛永17年(1640)譜代大名の植村家政の居城となり明治維新まで14代の長きにわたって高取藩は存続しました。芙蓉城ともいわれ『巽高取 雪かとみれば 雪でござらぬ 土佐の城』と謳われた城は、大小の天守に27の櫓、33の門を持つ白亜の美観でした。廃藩置県後の明治6年(1873)、廃城令で天守などが取り壊されましたが、本丸・二の丸跡の立派な石垣などの遺構が残っています。高取城の比高は446m、これは標高差を意味し、城下町の麓(札の辻)から446m登るということで、山城の中では日本一のハードな山城登山に挑戦です。

起点の近鉄吉野線壷坂山駅から高取城までは4.5km、徒歩約2時間の行程。道は途中までは舗装路で、旧城下町の佇まいを残す土佐街道をほぼまっすぐに歩いていきます。土佐街道は高取藩の城下町として栄えた町を貫く全長約2kmのメインストリートで、その名は飛鳥時代に都造営のために土佐(高知県)からやってきた人たちが故郷を偲んでつけたとされます。藩主や家臣の屋敷が山上から街道筋に移され、城下町が形成され、江戸時代には500軒もの商家が軒を連ねたいいます。豊臣秀吉の吉野桜見の途次に高取の茶屋に立ち寄ったことから、高取城下の発展が始まったと伝えられ、今もつし(屋根裏物置)を持つ低い軒先の二階建てで連子格子や虫籠窓などの造形を持つ古い町家が随所にあり、往時の繁栄ぶりを偲ぶことができます。先ずは夢創館(高取町観光案内所)で登山前の情報収集と御城印を購入。大正時代に呉服屋を営んでいた商家を改修した施設で地元の名産品なども販売しています。

裏手にはくすり資料館も併設され、薬で発展してきた高取町の歴史が分かります。寺院の施薬から始まったとされる大和売薬の背景には、大峰山、大台ケ原など薬草の宝庫があったと考えられています。大和売薬は高取町を中心とした大和盆地の南部で江戸時代に確立され、全国各地に行商するようになりました。これが「大和の薬売り」の始まりで、当時の行商の様子を伝える置き薬や看板、道具などが展示されています。

札ノ辻北東の児童公園に残る松の門は、高取城内にあった建築物のひとつで、切妻造・本瓦葺の門でした。明治25年に土佐小学校の校門として移築されましたが昭和19年の火災により一部焼失し残存部材を用いて柱・梁・門扉が復元されました。

田塩家長屋門は、白壁・腰部に下見板を張る武家屋敷の長屋門。装飾性と監視や防御を兼ねた出格子窓と与力窓(格子が横向き)を二つ持っています。また両袖に物見所、馬屋を持つ武家門であり、塀に付けられた監視窓は表口を警戒する構えでもあり他に類を見ない。

高取城の大手筋に面する植村家長屋門は、文政9年(1826)の建立といい、近代武家屋敷表門の遺構を残す貴重な建造物で、なまこ壁が城下町の雰囲気を漂わせています現在も旧藩主・植村家の住居として機能するこの屋敷は、元々旧高取藩の筆頭家老・中谷家の屋敷でした。正面の丘には旧藩主下屋敷・御殿跡があったとされます。

だんだんと勾配が増していき、上子島砂防公園を過ぎ黒門跡から先は別所郭となり宗泉寺の分岐から山道へ入っていきます。宗泉寺は高取藩主植村家の菩提寺で初代藩主植村家政の藩邸跡に元禄11年(1698)創建。山号は真各山宗泉寺といい今も天台宗延暦寺の末寺として信仰を集めています。

第一の城門があった黒門跡近くの石標から曲がりくねった坂道の七曲りを登り切ると、一升坂の急坂が待っています。名の由来は築城の際、石を運ぶ人たちを労い米一升を加給したということから。それだけきつい坂だったといくことです。

一升坂を過ぎれば二の門跡からは石垣が少しずつ現れてきます。ここよりは城内ですが、本丸までは約870mあります。高取城二の門外、城下町に下る大手筋と明日香村栢森方面へと続く岡口門の分岐点にひっそりと佇むのが愛嬌のあるお猿さんの謎の石像「猿石」です。飛鳥時代のものと推定され、花崗岩製で高さ85cm幅75cm厚さ65cmを測る。目と鼻は円形で顔面は丸く平坦、口元の両端をあげ耳は顔側面の全体にとる。手は右手をややあげていて、陽物らしい表現もみられる。高取城築城の際、城の石垣に転用するために明日香村から運ばれたという説や郭内と城内の境目を示す「結界石」であるという説が残されています。

猿石から少し登れば二の門跡です。「二の門」は三つある城内への入口の一つです。門の前には山城では珍しい水堀(池)があり、掘の両端を堤にて堰き止めています。また二の門へは、この西側の堤の上に架けられた欄干の付いた橋を渡っていました。この水堀は大阪湾に注ぐ大和川の支流「高取川」の源流です。ここから本丸まで872m、高低差約110mあります。※二の門は移築され現在子嶋寺の山門

二の門から本丸に向かって数十m上がり、矢場門跡手前を右折したところ、城内の北西に張り出した場所に国見櫓跡があります。二層の櫓が建っていた場所からは、その名にふさわしく、まさしく「国を見る櫓」そのままに抜群の眺望で、大和三山はいうまでもなく、大和平野が一望でき、晴れた日には六甲山やアベノハルカス等大阪市内のビル群や比叡山まで見渡せる『まほろば眺望百選』の絶景スポットになっています。本丸まで763m

ニの門から本丸に向かって矢場門跡。この辺りから石垣も迫力を増してきます。本丸に近づいていく気配が漂い出す。

松の門跡、

宇陀門跡、

千早門跡を抜けると、

二の門、壷坂口門、吉野口門の3ヵ所の道が合流した地点、大手門(正式名:御城門)に。これが最初の圧倒的石垣です。高取城の特徴は、なんといっても現存する立派な石垣群。苦労して登ってもその見返りは十分すぎるほどの遺構です。

大手門から二の丸への十三間多門を上がると本丸の手前に配置された特徴的石垣が現れます。太鼓櫓・新櫓の石垣で昭和47年に修復されました。この上に太鼓櫓・新櫓が建てられ堅牢な構造となっていました。

左手の十五間多門跡から本丸へ向かいます。

本丸側から見た太鼓櫓・新櫓の石垣

七つ井戸方面に向かう石垣

本丸へ至ると、見上げるほどの高石垣が残り、その迫力に圧倒される。二の丸から本丸へ向かう際に最初に現れるのが天守閣の袂になる。高取城は石垣だけでなく、その規模も巨大で、城郭全域では6万㎡、周囲30kmもの広さ。本丸と二の丸の城内だけで周囲3kmもあります。植村氏は将軍家光より、城の修理が必要な時は届け出をしなくても勝手に行ってよし(『城山由来覚書』)と特別な待遇をもって高取城を任されていました。

本丸天守閣の石垣は城内最大の高さ約12mを誇る圧倒的な天守台石垣。かつて三層の天守が建っていました。現在の趣ある苔むす石垣の姿も魅力的です。

2003年に本丸付近が整備され本丸周りを一周することができるようになりました。

本丸は大天守・小天守・三層櫓群を多聞櫓(長屋状の櫓)で繋ぐ壮大な構えでした。写真は鐙櫓台。

城の出入口を虎口と呼びますが、最も厳重な形式が枡形虎口です。本丸の枡形虎口は城内でも特に強固です。

高取城の石材には古墳の石棺が使用されています。天守台穴蔵入口にも転用石が使用されています。

天守閣から太鼓櫓・新櫓を眺める。

本丸の小天守閣跡

帰路は大手門跡まで戻り壷坂口門跡を出て壷坂寺を目指します。

通称八幡口登り口からは一旦車道になり再び大淀古道を下ります。

高取城から壷阪寺に続く壷坂寺の奥の院・香高山山腹にある凹凸の巨岩の岩肌一面に「親に会いたくば五百羅漢へ・・・」といわれるほど無数の石仏が彫られています。付近には両界曼荼羅、十一面尊、五社明神などもあり、これらを合わせて香高山磨崖仏といい、本多氏が高取城築城の際、石工に作らせたとされています。

壷坂寺は西国三十三ヵ所観音霊場第六番札所。正式名称を京都清水寺の北法華寺に対して壺阪山平等王院南法華寺といい、創建は大宝3年(703)元興寺の僧弁基上人の開基と伝えられます。全国的には豊沢団平、千賀女作による浄瑠璃「壷坂霊験記」のお里・沢市物語の舞台で知られる古刹です。ひときわ高い境内に本堂・礼堂・阿弥陀堂。三重塔・天竺渡来大石堂が建ち、本尊の十一面観音は眼病に霊験あらたかと伝えられています。平成19年11月に「壷坂大仏」が建立されました。

壺阪山駅まで戻れば高取・壷坂コース約11kmを完歩し、標高差日本一の山城・高取城の攻城完了です。

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