
埼玉県北部、長瀞・秩父の玄関口に位置する寄居町にある日本100名城に選定されている鉢形城。戦国時代の代表的な平山城で、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁に上に築かれた天然の要害です。天文15年(1546)小田原北条3代氏康が河越夜戦(日本三大奇襲)で勝利し武蔵国に勢力を拡大、永禄元年(1558)この地の豪族・藤田康邦に5男氏邦を養子に入れ、小田原北条氏の北関東支配の拠点として鉢形城を築城し、氏邦が入城します。武田・上杉両氏と上野国の支配権をめぐって激戦を繰り返しながら氏邦は上野国の支配権を確立していきます。しかしながら小田原合戦時には、鉢形城は豊臣方北国勢5万に包囲され、氏邦は3千5百で応戦も開城、鉢形城は廃城となります。北関東の要として秀吉軍と渡り合った北条氏の巨大城郭を探索します。写真は寄居町ご当地マンホール「カタクリ」「ヤマザクラ」「キジ」
鉢形城は文明8年(1476)関東管領山内上杉氏の家臣・長尾景春が築城、後に小田原北条3代氏康と五男氏邦が永禄年間(15587~1570)に入城し整備・拡充しました。荒川の切り立った崖と深沢川の渓谷によって形成された河岸段丘上を巧みに取り入れた天然の要害です。関東を統治していた相模国の北条氏が、上野国(群馬)と武蔵国の両国を統治する上で、ここは中間に立地し、秩父への出入口などからも交通の要衝でした。また越後、信濃、甲斐といった周辺国との国境、防衛、交渉においても鉢形の地は重要な役割を担った拠点です。
JR八高線・秩父鉄道が乗り入れる寄居駅南口から徒歩で約10分、荒川に架かる正喜橋を渡ります。がその前に手前のコンビニ辺りから右手の住宅街に入った玉淀公園を目指します。玉淀の由来は「玉のように美しい淀み」と言われたことから命名されました。玉淀河原を訪れた明治時代の文豪である田山花袋は、「東京付近ではこれほご雄大なながめをもった峡谷は、ほかにない」と絶賛しています。
玉淀河原からは鉢形城の全景を感じられ、天然の要害と言われる理由がわかる素晴らしい眺めです。荒川の淀みに玉石が敷き詰められ、その奥に断崖絶壁、巨石が垣間見える城郭は、何人も寄せ付けない威圧感にあふれています。
正喜橋を渡ったすぐ右手が鉢形城公園であり鉢形城入口となる笹曲輪で、鉢形城址の標柱が建てられています。こちらが搦手にあたり、右に折れて進むと右側に曲輪跡があり、中に鉢形城の案内図や全景模型があり、全体をイメージします。
笹曲輪から一段土塁を上ったところが本曲輪内のひとつで川沿い北側が伝御殿曲輪です。鉢形城城主の館があったと考えられていることから、城内で最も主要な区域です。

道路を隔てた南側が伝御殿下曲輪になります。

さらに一段上ると本曲輪になり、玉淀河原から見た絶壁のすぐ下を流れる荒川は、流れが急で深さもあり渡河して攻め込むのが難しく、また絶壁自体を登って曲輪内部に侵入するのは困難と考えられます。写真は本曲輪から望む景色
ここには鉢形城本丸址の碑が建てられています。
さらに進むと荒川と秩父の山々を見渡せる絶景スポットに田山花袋が詠んだ漢詩の石碑があります。大正7年(1918)に花袋が子どもとこの地を訪れた紀行文『秩父に山裾』に因み建立された高さ約2mの石碑には「襟帯山河好 雄視関八州 古城跡空在 一水尚東流」という武者小路実篤が揮毫した五言絶句が刻まれています。
本曲輪から階段を下りると深く堀りこまれた道路の三叉路に出ます。二の曲輪下にあたり、土塁は二の曲輪下と城内を流れる深沢川を隔てるように造られたものとの2つがあります。土塁上部には、樹齢150年を超える氏邦桜(写真右)と呼ばれるエドヒガンサクラの巨木が鉢形城跡に根を張って息づいています。この辺りは東側の虎口と考えられます。
土塁を後にしてさらに東に下りていくと深沢川があり、100名城のなかで城内を川が流れる遺構が残る城はここだけです。当時深沢川の崖の高さは11mありました。
城山稲荷神社の参道となっている土塁の上を歩きながら左手に二の曲輪上を眺めます。二の曲輪は、本曲輪の南側に設けられた区域で、南西は三の曲輪に、南は伝逸見曲輪へと続いています。北東・西・南側は堀と土塁に、東側を深沢川に隔てられています。城内の中でも特に畝堀と土塁、馬出の遺構が良く残っている場所です。写真は二の曲輪と三の曲輪を隔てる土塁上から二の曲輪を望む。北西側を走る道路は、かつて本丸との間の掘られた堀切。
伝逸見曲輪から見た二の曲輪(右)と三の曲輪(左)の間には堅固な空堀と土塁が築かれていて、往時は空堀の上を木で作った橋で渡していました。また堀底には北条氏特有の障子状の畝(障子堀)が設けられています。写真中央木が生い茂っている所が城山稲荷神社。
二の曲輪、三の曲輪の南端から見た土塁と畝堀。最大上幅約24m、深さ約12mの大規模な堀で、二の曲輪(右)の柵列と土塁の間に広く長い空間(帯曲輪)があり、敵に攻められた際に城兵が守備につく空間と考えらます。
写真左手の道路を挟んだところにも馬出があります。
二の曲輪の馬出は西・南・東の三方を薬研堀で堀り切り、北側は荒川の崖になっています。堀の深さは、西側で約7.4m、内部の広さは間口6.5m、奥行き12mで、門の礎石や雨落ちの石列、石敷き排水溝などが確認されています。石積土塁は、北・西・南側に築かれ、西側が最も長く、全長約17.5m、高さ約2.3m、馬踏(上幅)約2.3m、敷(下幅)約6.9mで5段に石積みが施されています。
この馬出は、平面形が四角い形をしていることから「角馬出」と呼ばれ、北条流築城術の特徴といわれています。二の曲輪から屈曲した土橋を抜けて馬出に入り木橋を渡ると三の曲輪。
三の曲輪では、堀や土塁のほか、鉢形城の特徴である石積み土塁や四脚門が復元されていて、当時の様子を垣間見ることができます。城の大手口にあたる四脚門から登城します。三の曲輪は鉢形城内でも最も西側に位置している区域で、四脚門の内、北側は伝秩父曲輪があり、北条氏邦の重臣・秩父孫四郎が防衛を担当していたと伝えられています。
三の曲輪では、伝秩父曲輪から諏訪神社(馬出)へ至る虎口の空間を全面発掘。伝秩父曲輪は一段高くなっており、幅2間半(約5m)で6段の階段が確認されています。階段の最上段には、門が確認され、東側は壊されていますたが、間口1間半(約3m)と想定されています。
伝秩父曲輪には庭園があり、池を囲むように建物が配置されていました。中でも池に最も近いものは四阿として使われていて、四脚門同様、狩野派が残した『洛中洛外図屏風』に描かれていた室町幕府管領・細川家の屋敷の建物を参考にしています。
この曲輪の石積土塁は全長約100m、高さは約4mで、馬踏(上幅)約6m、敷(下幅)約12mの規模を持ち、土塁を築いてから河原石を3~4段の階段状に積み上げています。土塁自体をより高く造り上げて敵が簡単に乗り越えられないようになっています。有事の際には城兵は、この階段を足掛かりに土塁上に駆け上がり防御したのでしょう。裏込石もなく、高さも一段が1m程度ですが、関東地方にも石積みを専門とする技術者がいたことを示しています。
三の曲輪四脚門入口右手の石積土塁が北向に折れる部分(中央奥)は、最上位部分が広くなることからここに櫓が建てられていたと考えられます。ここから土塁の間を通り諏訪神社(馬出)に向かう部分が虎口で、ここには門があったっ可能性が高いと考えられています。
虎口とは出入口のことで「小口」とも書き、江戸時代塙保己一によって編纂された武家故実の書である「武家名目抄」では、「城郭陣容の尤も要会なる処を、猛虎の歯牙にたとへて虎口というなり」と説明しています。虎口は防御の要であり、出撃しやすくすることで攻撃性を高めることができ、北条流築城術の場合には虎口の前に「角馬出」を設けることが特徴です。
再び二の曲輪下まで戻り、深沢川を渡りさらに南に進むと外曲輪にでます。外曲輪は非常に大きな広場で、鉢形城歴史館側と搦手側に分かれていますが、歴史館側は整備されていて気持ちがよい。外曲輪には下級武士の住まいがあり、周囲は土塁で築かれています。土塁の外側には城下町が形成され城の守りを兼ねていました。
外曲輪の南側から東側にかけて土塁が残っています。
外曲輪にある鉢形城歴史館は、鉢形城跡のガイダンス施設として平成16年の鉢形城公園の開園に合わせて建てられました。
館内には、北条家や鉢形城、寄居町の歴史を語る貴重な資料が展示され、当時の鉢形城の城門も復元されています。鉢形城の模型で往時の姿を頭に入れてから城内を散策するといいかも。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、北条氏の重要な支城として北国勢が鉢形城を包囲。城の東正面に前田利家隊を中心に降将の金子伊予守・大道寺駿河守の部隊、約1000m南の車山の麓に上杉景勝隊、北の荒川対岸に真田昌幸隊を中心とした諸隊が布陣したと伝わります。後に徳川家康の下の本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉、さらに浅野長吉、と木村一の諸隊が増援として加わりました。北国勢総勢3万5000余が信濃から碓氷峠を越えて上野国に侵入、諸城を攻め落としながら南下し、さらに浅野・木村隊と合流して5万余の兵で鉢形城を包囲したのです。対して城主の北条氏邦は城兵3500余とともに籠城し、善戦しましたが大砲なども撃ち込まれたという1か月余りに及ぶ籠城の後、城兵の助命を条件に遂に降伏し、開城となりました。北国勢はこの後八王子城攻めに向かいます。氏邦は前田利家に預けられ、開城後、鉢形城は廃城となったと言われます。
B級グルメ「戦国ハーぶ~丼」