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茨城県水戸といえばやはり徳川御三家のひとつ、水戸徳川藩35万石の堂々たる城下町です。水戸は川と湖に挟まれた地形を利用し、3方を低地に囲まれた馬の背台地に広がる城下町。水戸の市内には水戸藩関連の文化施設や史跡が数多く残っています。江戸の鬼門を守る要衝の役割を担った水戸徳川家の城下町づくりに着目し、町歩きを楽しみます。

JR水戸駅に降り立つと、現代的で清潔感のある駅コンコースが南北へ通じています。南口は広々とした明るいデッキとなっており、水戸名物の納豆の記念碑が設置されていて、少々ユーモラスです。水戸駅から水戸城及び弘道館を目指すのですが水戸といえば水戸黄門こと徳川光圀、水戸駅北口には水戸黄門、助さん格さん像があります。

同じ水戸駅北口デッキには弘道館方面へつながる歴史的な景観を創出するために「お休み処」が整備され、水戸の伝統工芸品である「水府提灯」が設置されています。葵の御紋を配した高120cm×径75cmの水府提灯が3つ並んでいます。水府とは水戸の別称です。水戸駅北口を出て水戸の歴史的景観を回遊できる散策ルート「水戸学の道」を歩きます。

茨城県の中央部に位置する水戸の中心地、水戸城は、北を常陸地方を流れる那珂川と南の千波湖、桜川といった低地の間に延びる標高約30mの舌状台地に築かれています。海成段丘と呼ばれる台地で、比較的地盤が硬く、災害にも強いといわれています。鎌倉時代の建久4年(1193)に地頭の馬場資幹によって開かれた城郭は、240年にわたり馬場大掾氏がこの地の拠点を置いて支配しました。やがて江戸氏、佐竹氏と争奪されます。戦国期には佐竹氏が水戸城に入り常陸国を統一。天正19年(1591)に佐竹義宣が水戸城に居城を移し、大改修を行ったことにより近世城郭化しました。その後関ヶ原の戦いで勝利を収めて天下人となった徳川家康は、伊達氏をはじめとした奥州の外様大名から江戸を守るため、常陸国の要衝として水戸を重視。慶長7年(1602)に佐竹氏を出羽(秋田)に国替え、水戸城は徳川家の支配下になり、慶長14年(1609)家康の十一男頼房を水戸藩主に据えて水戸藩が成立しました。

台地の東端には水戸城と上級武家の屋敷が並ぶ上町、水戸城の東側に広がる低地には下級武家の屋敷や町家が並ぶ下町を配置。仙波湖から切れ込む急な谷筋を利用した5つの空堀が設けられていました。

水戸城は水戸藩の居城として拡張された江戸時代は、争いのない平安な時代で、財政難だったこともあり石垣は築かず、土塁や堀で守りを固めたため日本最大級の石垣を持たない城でした。今も一部土塁が残っていますが、石垣がないので水戸駅の近くにある城の存在が分かりにくのです。また水戸城は、下の丸、御本所(本丸)、二の丸、三の丸に分かれ、二の丸には御殿や三階櫓、二の丸隅櫓などがありましたが、明治以降の焼失や解体により、姿を残す建造物は藩校の弘道館藥医門のみになりました。

本丸にあたる御本所跡にあるのが水戸第一高等学校です。その敷地内に移築されたのが佐竹氏の頃(1591~1602)に本丸虎口の城門として建てられ、本丸から二の丸に通じる橋詰御門すなわち本丸の表門であったと推定される旧水戸城薬医門です。形式は正面の柱の間が3つ、出入口は中央だけの三間一戸の薬医門、二つの脇扉がついています。薬医門とは、扉を支えている本柱とその後にある柱(控柱)で支えられた屋根の棟の位置を、中心からずらす形式で、側面の姿は対称系ではない。正面から見ると軒が深いため門はゆったりとして威厳があり、大名の城門にふさわしいので多くつくられたとのこと。

水戸城の最大の魅力は、ダイナミックな堀切と土塁です。とりわけ本丸、二の丸、三の丸の堀切と土塁は圧巻です。本丸に渡る本城橋からは本丸跡西側と二の丸跡の間にある深々と切れ込んだ空堀と土塁は幅40mもあり、その堀底を現在JR水郡線が走っています。線路との比高は22mに及び、鉄道建設の際に掘り下げたといいます。

水戸学の道」を歩くこと10分ほど、やがて三の丸にある弘道館の正門前に到着します。第9代水戸藩主徳川斉昭によって偕楽園とほぼ時を同じくして天保12年(1841)に藤田東湖や会沢正志斎などの学者の意見を取り入れつつ創設されたのが藩校・弘道館です。水戸藩士やその子弟が学び、敷地は10.5haにもおよんだ藩校として日本最大の規模でした。分館、武館、兵学局、馬場などを備え、外国の脅威から日本を守り発展させるための人材育成の場として、儒学教育を基盤に、医学・天文学・数学・地図といった学問だけでなく、道場で武術の指導も行うなどあらゆる学問を網羅。その充実ぶりは今でいう総合大学のようなものでした。大半の建造物は焼失しましたが正門と正庁、至善堂が現存しています。

正門は本瓦葺きの四脚門、総欅造りです。藩主の来館や正式な行事のときのみ開門しました。

正庁は学校御殿とも呼ばれ弘道館の中心的な建物です。正庁正席の間は藩主が臨席して学問の試験や武術の試験をご覧になったところです。対試場は東西10間、南北6間の広さがあります。縁側の長押に掲げられた扁額は、徳川斉昭筆『游於藝』で「芸に遊ぶ」と詠みます。芸とは六芸」、礼・楽・射・御・書・数を指し、文武に凝り固まらず悠々と芸の道をきわめるという意味があります。斉昭公もここから梅を眺めたかもしれません。

正庁正席の間には弘道館の建学精神が示された弘道館記碑の拓本が掲げられています。

諸役会所は来館者控えの間で、床の間の「尊攘」掛け軸は、水戸藩の藩医で能筆家で知られた松延年の筆です。安政3年(1856)に斉昭の命で書かれました。

正庁の奥にあり、4室からなる至善堂は藩主の休息所や徳川慶喜をはじめとする諸公子の勉学の場として使われました。至善堂の名称は斉昭が四書のひとつ「大学」の一説からとって命名したもので「人間は最高善に達し、かつその状態を維持することを理想とすべきである」という意味がこめられています。御座の間は大政奉還後の慶応4年(明治元年(1868))、徳川慶喜は水戸へ下り、静岡に移るまでの4か月間、謹慎生活を送った部屋です。

斉昭公は、春に先駆けて咲く梅を愛し、弘道館にも梅の木を植えさせました。現在約60品種、800本の梅林(文館跡)があり、偕楽園とともに「水戸の梅まつり」が行われています。

復元計画が進行し、令和2年(2020)2月4日には水戸城の正門にあたる二の丸にあった最も格式の高い大手門の復元工事が完了しました。木造2階建ての櫓門の大手門は弘道館向い、空堀で仕切られた大手橋の向こうにどっしりとそびえています。江戸時代初期の様式を模した古風な城門で、国内でも屈指の規模を誇り、圧倒的な武威を想起させる巨大な城門です。このことから城の正面が西側であること、弘道館が建つ三の丸と大手門とを隔てる巨大な堀とそこにかかる大手橋が、本丸や二の丸など城の中心部との境界線であることがわかります。

大手門は佐竹氏が城主だった慶長6年(1601)頃に建てられ、その後何度も建て替えられ、今回の復元で瓦に水戸徳川家の家紋・葵御紋が輝いています。門の四隅にある不思議な練塀(=瓦塀)は鯱瓦をはじめとする多種多様な瓦を粘土と層状に積み重ねて塀としています。

大手門をくぐって二の丸に足を踏み入れと、二の丸だった辺りには、小・中・高と名門校が集まり文教地区になっていますが、学校の塀はどこも白壁で、門も昔のお城風(冠木門)に整備されています。弘道館のある旧水戸城三の丸地域を中心に白壁と石畳で美しく整備された散策路「三の丸歴史ロード」が続きます。電線も地中化され、道も土色に舗装されていて往時を偲ばせる雰囲気があります。このあたりは、水戸藩の上級家臣の屋敷跡地として栄えたエリアで、「大日本史」編纂の舞台となった徳川光圀が設置した学問施設・旧水戸彰考館跡や杉山門、柵町坂下門など藩政の名残を感じさせてくれます。

二の丸の南西隅に建っていた隅櫓と土塀も復元されていて、江戸時代の地形が残る水戸駅北側の低地付近から望むことができます。4か所の建てられていたとされる隅櫓のひとつで、二重二階で北側と東側にそれぞれ多聞櫓が接続していました。

二の丸北側の杉山門が復元されたことで、防御の万全さも連想できます。門の内側にあった枡形は再現されていませんが、坂を登りきったところに関所のように城門が立ちはだかり、侵入者をすんなりと通させないような工夫がなされています。

二ノ丸の南口にあたるのが坂下門です。門は高麗門形式で、日本の本柱(鏡柱)の後ろにそれぞれの控柱を持ち、本柱と控柱の間にも屋根をのせるのが特徴です。

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