津軽三味線も!五所川原で文豪・太宰治の足跡をたどる。

※この記事で紹介する内容にはPR・広告が含まれています。

『走れメロス』や『人間失格』ばどの作品で知られる小説家・太宰治は明治42年青森県五所川原市金木町で生まれました。生家のある五所川原市金木を中心にとした津軽地域への太宰の思い入れは、『津軽』はじめ『思い出』『五所川原』など多数の作品に記されています。「津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これといった特徴もないが、どこやら都会風にちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という事になっているようである。」(小説『津軽』より)郷土について書かれた作品を読んでから出かけると、旅はより味わい深いものになります。太宰も利用した津軽鉄道の金木駅と芦野公園駅界隈はゆかりの地が多く、生家である太宰治記念館「斜陽館」があり、また津軽三味線発祥の地でもある金木を訪れます。

明治の大地主、父・津島源右衛門が明治40年(1907)に建てた入母屋造の建物が、太宰治(本名・津島修治)の生家津島邸であり、太宰治記念館「斜陽館」です。源右衛門は田畑250町歩(約75万坪)を持つ津軽の大地主で、この地に銀行や電力会社を立ち上げた実業家でもあり、戦前、衆議院議員、貴族院議員も務めた名士で、その父母との間に11人兄弟の10番目、6男として新築間もないこの大屋敷にうまれました。戦後津島家が手放し、昭和25年(1950)から町内の旅館経営者・角田唯五郎が購入し、太宰の小説『斜陽』から命名された旅館「斜陽館」として町の観光名所となり、全国から多くのファンが訪れていましたが、平成8年(1996)3月に金木町が買い取り46年の歴史に幕を閉じました。

設計は、弘前市を中心に近代建築を後世に残している堀江佐吉で、本人は完成を見ることなく亡くなり棟梁を4男の斎藤伊三郎がつとめて完成させました。木造2階建で、米蔵にいたるまで日本三大美林のヒバを使い、階下11室278坪、二階8室116坪、付属建物や泉水を配した庭園などを合わせて宅地約680坪の豪邸で、当時のお金で工事費約4万円(米7000俵分)をかけて造られました。太宰は、この家を『苦悩の年鑑』の中で「この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである」と書いています。

外観は和風住宅で、間取りも大規模ながら津軽地方の町家の間取りを踏襲したものとなっていますが、内部には洋風の旧銀行店舗部分や階段室、応接間等があり、また屋根構造は和小屋組ではなくトラスト構造となっているなど、和洋折衷建築となっています。向かいに青森みちのく銀行金木中央支店がありますが、明治時代に津島家が営んでいた金木銀行が青森銀行・青森みちのく銀行に引き継がれているからです。「斜陽館」は明治時代の地方の銀行建築でもあり、主屋をはじめ文書蔵・中の蔵・米蔵等の大型の土蔵や敷地周囲の長大な高さ4mの赤煉瓦塀といった屋敷構え全体がほぼ当時のまま保存されています。

主屋は西を正面とし、西面南寄りに入母屋屋根の玄関があります。玄関の左手には「店(金融執務室)」、右手には事務室があり、「店」の奥に和室があります。

玄関を抜けた先は居住空間で、南側を幅の広い「通りにわ(土間)」としています。

北側は東西3室・前後2列の計6室を設けています。室名は前列西から「前座敷」、「茶の間」、「常居」、後列が西から「仏間」、「小座敷」、「小間」となっています。

これらの室の東側は広い「板の間」となり、天井は張らずトラスの小屋組を見せています。土間の南、建物の東南側の室は現在は休憩室なっていますが、当初は女中部屋でした。

玄関脇の階段を上った2階は洋間の応接室の他、和室7室を設けています。

階段を上がった2階正面の洋間の応接室は、カーテンやカーテンドレープに絨毯、お洒落な壁紙。高価なテーブルや椅子といった上質に拵えた調度品の数々は、まるで外国の貴族の部屋を思わせるようで見応えがあります。この部屋は金融業を営んでいた津島家が「鹿鳴館」風に造ったそうです。

2階階段を上がり廊下一番奥の和室が、書斎と呼ばれていた、太宰の母夕子の部屋です。しかし実際には子供たちの勉強部屋であり、遊び場として使われていました。雪の結晶の欄間、格天井、湾曲した戸棚の天袋など、どても手の込んだ造りです。部屋の右から3番目の襖の漢詩には「斜陽」の文字があり、太宰はこの襖の前に机を置き、勉強していたそうです。「斜陽」は子どもの頃から太宰にとって見慣れた言葉だったのでしょう。

主屋の東に「中の蔵」、その東に「米蔵」、主屋の北に「文書蔵(展示室)」が建つ。写真の文書蔵には二重廻しのマントや羽織袴を始め、初版本や原稿等約600点の資料が展示されています。

隣接する旧西沢家住宅は、昭和8年(1933)完成の鉄板葺木造2階一部平屋建てで、小泊村(中泊9出身の西澤家は、北海道礼文島の鰊漁場で財を成しましたが、大正時代金木村に移転し、農業でも成功を収めました。

斜陽館から山側に歩く事2分、山門の上に鐘楼堂が乗る日蓮宗青蓮山妙乗寺があります。宝永5年(1708)僧日良が金木新田の川内村に庵を結び、妙乗庵と称したことに始まります。その後正徳4年(1714)荒関利右衛門の帰依と土地の寄進により金木村に移転し、創立しました。幕末に五所川原市金木に生まれたボサマ、津軽三味線の始祖・秋元仁太坊が葬られています。弦を激しく打ちつけダイナミックな低音に魅力を発揮する独自の奏法「叩き奏法」を編み出した人物です。

金木周辺は、江戸時代から北前船の寄港地である十三湊から岩木川を遡って津軽藩にさまざまな物資が運ばれてくる土地でした。物資とともに華やかな文化も伝わり、旅芸人などもやってきたようです。津軽三味線の原型は新潟地方の瞽女の三味線と言われ、仁太坊も神原村(現五所川原市金木町)を流していた瞽女に最初に習ったといいます。

 

 

 

 

 

 

 

おすすめの記事