ロケ地巡りも楽しみ!岩村城跡の麓に佇む江戸の町並みを歩く

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戦国時代に美濃は、斎藤道三亡き後、織田氏によって統一されますがその後、東美濃は織田氏と武田氏の勢力争いの境界として幾度の戦火に巻き込まれました。その戦いの拠点となった山城が、「岩村城」「苗木城」「美濃金山城」です。岐阜県では、全国に通用するふるさとの自慢を『岐阜の宝もの』として認定しており、「岩村城跡と岩村城下町」「苗木城跡」「美濃金山城跡」が『ひがしみのの山城』として認定されています。なかでも幾重にも山が折り重なる岐阜県東部、中央西線中津川・恵那には、見応えのある有名な山城が2つあり一日でめぐることができます。戦国浪漫に包まれた険しい地形を利用して築かれた山城や、古い歴史が今も残る城下町を旅してみます。中津川の苗木城から恵那の岩村城へのお城リレーに出発です。

岐阜県南部、恵那市にある岩村城へはJR中央線恵那駅から明智鉄道に乗り換え岩村駅を目指します。中央本線のかつて中山道の宿場町(大井宿)として栄えた恵那駅で列車を降り、駅舎側のホーム北側に明智鉄道のディーゼルカーが発車を待っています。岐阜県の「恵那」から明智光秀出生地とされる「明智」を結ぶ全長25kmの短いローカル線『明智鉄道』は、40分から50分かけて長閑な山村を走っています。沿線地域はNHKの連続テレビ小説「半分、青い。」の舞台にもなりました。「青い山脈」の懐メロが流れるなか、明智鉄道は恵那駅を発車します。恵那市は映画「青い山脈」のロケ地にもなっています。

ホームに停まっていたのは、2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』にちなみ、明智光秀がデザインされた車両、明智行き普通列車アケチ10形で全長15m余り、車内はロングシート仕様、国産のディーゼルエンジンを一基搭載しており、同路線の急勾配に対応した2軸駆動式で、台車には砂撒き装置も装備しています。

ディーゼルカーは恵那駅を出ると街並みを離れ、グングンと山間に分け入っていきます。恵那からわずか13分、2つ目の停車駅「飯沼」は、“日本一急勾配に設置された駅”。33パーミル(距離1000mで33mの高さを生じる)の坂道の途中にある駅です。周囲は森に囲まれていて、市街地から一気に山奧へ誘われます。列車は飯沼から峠を越えて駅が歯科医院の「阿木」へ向かう。阿木から次の飯羽間の区間で見えてくるのが「日本一の農村景観」に選ばれた岩村町富田地区の農村風景で、なだらかな山々を背景に田園風景が美しい。「飯羽間」から「極楽」へと列車の車窓には手入れの行き届いた田畑、畦がゆるやかな段をなした田園風景が伸びやかに広がります。

明智鉄道の中で最も新しい駅が「極楽駅」です。そのネーミングから縁起の良い駅として記念写真の人気撮影スポットです。

恵那駅を出て列車にトコトコ揺られ約30分、「岩村駅」に到着です。岩村駅は何の変哲もないローカルな駅ですが、ここには江戸時代さながらの町並みが残り、突き当りの山中に堅固な石垣に守られた城跡がそびえます。戦国時代、運命に翻弄された女城主がいた岩村城です。駅前には佐藤一斎ら岩村の三偉人の説明板も立っています。

岩村駅を降りると、家々の背後にこんもりとした山並みが見え、目指す岩村城跡はその深い緑にひっそりと埋もれています。本丸があった標高717mは国内の城では最も高く、駅から本丸跡まで歩く往復2時間のハイキングです。伝鴨長明塚を曲がり岩村町本通りに出ます。衆人の前で秘曲を披露して鎌倉を追われた『方丈記』の作者・鴨長明は、岩村城主遠山景廉に匿われ、半年を過ぎちた後、病を得て入寂したといい、「思いきや都を余所にはなれ来て遠山野辺に雪消えんとは」という辞世の句が伝わっています。

関ヶ原の合戦後、松平家乗が2万石の岩村藩主となってから城下町は、岩村川の北側を武家町、南側を町人町に区別され、整備されました。ナマコ壁、格子戸など昔の面影が随所に見られる歴史の町並みが明智鉄道岩村駅から城跡方面に延びていて、かつての町人町である現在の岩村本通り1.3kmは、平成10年4月に商家の町並みとして、岐阜県で3番目、全国では48番目に国(文化庁)の重要伝統的建造物群保存地区に選定された美しい町並みです。

村は江戸時代に東濃地方の政治・経済・文化の中心として栄えた城下町で、保存地区は城下町の町家地区として形成された町の形態と近代の発展課程を伝える町家群が周辺の環境と一体となった東濃地方の商家町として、特色ある歴史的景観を良好に伝えています。現在も、保存地区内では地元の商店街として商いが営まれており、人の息遣いが感じられる生活感のある町並みが来訪者を穏やかな空気で包んでくれており、当時の面影に触れることができることから「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれています。ゆっくり歩いても20分ほどの保存地区内には、問屋として藩の財政を担っていた木村邸や染物屋を営んでいた土佐屋、材木や年貢米を扱っていた勝川家、火縄銃や槍を造っていた加納家そして原田芳洲の作品を展示している柴田家といった旧家が見応え充分で、いずれも無料で一般公開(一部施設は有料)されています。NHK朝の連続テレビ小説「半分、青い。」や映画『銀河鉄道の父』のロケ地にもなっています。

旧柴田家住宅は明治時代の典型的な建物で、明治から大正の頃に建てられ、昭和初期には寒天事業を営んでいた柴田家の事務所兼店舗として使われていました。整備工事によって平成15年に「いわむら美術の館」としてオープン。郷土の肖像画家・原田芳洲の絵画が常設されています。女城主の里にちなみ、家の軒先の青い暖簾には、その家の女性の名前書かれてあり、また家々の軒下には佐藤一斎の『言志四録』を刻んだ木板が掛けられています。

山に向かってのびる坂道と軒を連ねる古民家の風景は木曽路の宿場町に似ています。高札場があった枡形の前後で町並みが変わります。高札場は藩主が領民取締りの各種ご法度を公布し領内に知らせたもので、左手奥の祥雲寺(西町庚申堂)は盛巌寺の付属で元和年間(1615~1624)の創建と伝わります。藩主丹羽家の家中より庚申の本尊青面金剛像の寄進があり庚申堂となったものです。お堂の前を西町に向かって流れる石組みの水路を「天正疎水」といい、商家や民家の裏庭にこうした水路が縦断しているのもこの町の特徴。江戸時代に造られたものですが風情たっぷりです。

ここから駅側は岩村電気軌道が開業した明治以降の建物が多く、昭和レトロで、その雰囲気は連続テレビ小説「半分、青い。」の主人公の実家「ふくろう商店街」のイメージそのままです。桝形の手前、五平餅の「みはら」は「半分、青い。」の主人公の祖父が五平餅作り名人という設定でロケ地になる人気店※2024年5月閉店。写真は嘉永年間から伝わる「かんから餅」のお店かんから屋。富田の餅米を100%使用したふんわりとした餅は、きなこ、ごま、あんこの三種類でここでしか食べられない地元で不変の人気を誇ります。

枡形を過ぎると、江戸時代、商人が住んだ旧下町・中町、職人が住んだ上町の町割りに城下町の雰囲気が残っています。枡形は道路を直角に曲げ、敵が容易に侵入できないようにしたり町の中を見通せないようにしたりしたもので、岩村城下町では、3ヵ所の町の入り口に設けられていました。ここ下町の枡形は、樹下町の西の入り口にあたり、岩村から名古屋や中山道へ向かう街道の起点となっていて3ヵ所のうちで最も規模が大きかった。写真右角の京屋家具店は江戸時代より225年以上続く老舗店舗でオリジナル・オーダー家具を取り扱っています。映画『銀河鉄道の父』では、1階は賢治が原稿用紙を買った文房具屋さん、2階は東京にいる賢治の下宿部屋として撮影されました。

勝川家は江戸末期に台頭した商家で屋号は「松屋」といい、材木や年貢米を扱う藩内でも有数の商家でした。江戸後期の建物で木造2階建て、2軒の建物で成り立っています。座敷に通ずる縁は、岩村城の遺構の一部が使われ、書院、茶室、使用人部屋などがあり、往時の暮らし向きを伝えています。映画『銀河鉄道の父』では、宮澤家の食事の場面等、家族でのシーンが撮影されました。

向かいの土佐屋は約260年前の江戸時代に染物業(紺屋)を営んでいた商家で安永9年(1780)に建てられました。平成11年に「工芸の館土佐屋」としてオープン。当時の染物の工程を学ぶことができる染工場、土佐屋の歴史を展示した土蔵などがあります。

岩村郵便局前には明治20年(1887)頃のポストが再現されています。

江戸時代中期から末期に栄えた問屋である木村邸は、藩が財政難になるたびに御用金を調達して危機を救ってきたことから、藩主が何度も木村邸を訪れたことを伝える藩主出入りの玄関や藩主来邸の際に見張りに使われた表通りに面した武者窓や上段の間、3階の茶室など江戸時代の格式ある町家の様式をのこしています。18世紀後半に建てられた前面格子造りの主屋は、映画『銀河鉄道の父』で、宮澤家の質屋と、宮澤商店のシーンが撮影されています。

木村邸資料館裏側の路地にあるナマコ壁も美しい。こうした小路にも、歴史の重みが感じられます。

岩村駅から約900m、信号機のある国道363の本町交差点の角にある水野薬局には自由民権を主張した板垣退助が明治15年(1882)岐阜で暴漢に襲われる数日前に宿泊したというエピソードがあります。

格子造りに白い漆喰の壁、虫籠窓と杉玉が目印の天明7年(1787)創業と伝えられる老舗酒蔵「岩村醸造」では蔵見学や試飲ができます。当時は岩村藩御用達の運送業を生業としていましたが、岩村藩の廃藩後、副業だった酒造りが主になりました。代表銘柄はやや辛口な「女城主」で、約400年前に掘られた井戸より湧き出る天然水を仕込み水に使い、原料米は地元産の酒造好適米「ひだほまれ」や、兵庫県産の「山田錦」を使用。果実のような芳醇な香りと心地よい酸味が絶妙な日本酒を醸造しています。

店内では岩村城からの払下げ材を用いた廊下や城で使われていた甕などが見られ、かつては奥の蔵から店の入口まで荷を運んでいたトロッコと店の奥まで敷かれている約100mのレールが残っています。

お向かいが寛政8年(1796)創業、江戸時代から7代にわたり210年間、長崎から戻った岩村藩の御殿医より伝授されたポルトガル伝来のカステーラの味・製法をそのまま今に伝える松浦軒本店。小麦粉、砂糖、卵、蜂蜜という素朴な原料のみで焼かれたカステーラは、ほっくりとして香ばしい。なじみのあるカステラと比べると、キメがこまかく、しっとりとした食感が特徴で後をひかない上品な甘さです。

上町の常夜灯を曲がり、昭和、江戸の町並みを抜け岩村川を渡ってさらに上っていけば岩村城です。この常夜灯は寛政7年(1795)、上町・中町の有志により火伏せを祈願して建立されたと伝わり、銘には「明和二乙酉秋創立寛政七乙卯秋再建」とある。正面に大神宮(伊勢神宮)を配して天下泰平を、左側に秋葉大権現を配して火伏せを、右側に金毘羅大権現を配して招福繁栄を願っています。

岩村城登城道の途中には明治から昭和に活躍した日本の女子教育の先駆者であり、実践女子大学の創立者の歌人・下田歌子の銅像が立ちます。知新館の教授であった岩村藩士の長女で幼名は平尾鉐といい、5歳で俳句・漢詩を詠み、和歌を作る神童でした。19歳で宮中の女官に登用され、宮中での歌会にいつも優れた和歌を詠むことから昭憲皇太后より歌子の名を賜ります。

下田歌子勉学所は、女子であることから知新館で学ぶことが出来なかった女史が、父の書斎であり、女史の勉強した室です。

また我が国の植物学の基礎を築き、桜と花菖蒲の研究における世界的な第一人者の三好学の銅像が向かいに立っています。天然記念物の制度を最初に提唱し、著書で「環境があってそこに人間が存する」と自然保護を提唱しています。“景観”という言葉を最初に著しています。

いよいよ岩村城への登城道の石畳が始まります。「“山城密集地帯”東美濃の城リレー!女城主の堅固な岩村城」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/15097

帰路帰りの電車を待つ間、恵那駅前の「あまから本店」で五平餅をいただく。

まあるいお団子形の五平餅を出す名店。ゴマ、クルミ入りの甘辛いタレが絶妙と評判のおいしさ。注文してから仕上げに焼き上げてくれるので、いつでも香ばしい焼き立てが食べられます。

 

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