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語源は定かでないけれど、粋なものや洗練されたものを形容する際に使う「伊達」という言葉と伊達政宗とを関連付けたくなります。「千代」という地名を「仙台」に改めた伊達政宗。唐代の漢詩「仙人の住む高殿=理想郷」にちなむといいます。62万石を領した仙台藩では、藩祖・伊達政宗が築いた伊達家や東北で育まれた文化に豪華絢爛な桃山文化が融合して花開かせた粋で新しい“伊達”な文化が受け継がれてきました。日本遺産「政宗が育んだ“伊達”な文化」その特徴を残す寺社をめぐり、“伊達”の神髄に迫ろうと宮城県松島町から仙台市内に向かいます。

奥松島パークラインを走り朝一番で「松島四大観」のひとつ「大高森」に向かいます。松島は松島湾を中心に、東西10㎞、南北8kmの範囲を指します。松島の260余りの島々が浮かぶ松島湾の多島美を東西南北から一望する4つのビュースポット・松島四大観。異なる魅力をもつ4つの名所では、旅の記念のいふさわしい感動の光景を目にすることができます。四大観とは、江戸後期に仙台藩の儒学者・舟山万年によって選定された展望地で、それぞれの景色に合わせた呼称が付けられ「大高森(壮観)」「多聞山(偉観)」「富山(麗観)」「扇谷(幽観)」の4つをさします。

なかでも「大高森」は、絶景を見渡す松島随一の360度の大パノラマが頂上の展望台から楽しめることから松島四大観の筆頭にあたる「壮観」と呼びます。全体的に優し気な美景で、日本三大渓の嵯峨渓も望め、松島湾に浮かぶ島々と金華山絶妙なコントラストを箱庭のように見渡せる代表的な絶景です。※日経プラス1「多島美」をめでる展望台で第7位にランクインです。

奥松島になる宮戸島にある標高106mの小高い山にあり、「世界で最も美しい湾クラブ」に登録された大パノラマの絶景を見ることができ、金色に染まる日没時の光景が素晴らしいといいます。山頂までは大高森遊歩道がありますが、奥松島遊覧船桟橋前の正登山口と奥松島縄文村歴史資料館近くの西登山口があり、正登山口のほうが近く整備されています。(徒歩15分~20分)ただひたすら上る階段は思いのほか急登で息がきれかなり足きます。木立が途切れると現れる展望台から見る松島の東、奥松島と呼ばれる一帯は、外洋に面しているせいか、女性的で穏やかな内海の松島に比べて粗削りで男性的です。

松島は、大小260余りの諸島からなるこの小さな町に寺院や歴史館、水族館、ごはん処にお土産屋さんなどがギュッと詰め込まれています。松島を回るなら、やっぱり歩きがいいということで観光船案内所前の駐車場に車を停めます。平安時代から景観の美しさで名が知られる「松島」。『おくのほそ道』でこの地を訪れた松尾芭蕉もまた筆を尽くしてその美観を「あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左に分れ右に連なる・・・」と称えています。また芭蕉は感動のあまり心が高ぶって、冷静になれず、一句も詠めず夜も眠れなかったといい、「松島や鶴に身を借れほととぎす」(曾良)予は口を閉じて眠らんとしていねられず。と記していて、日本三景の景色がいかに素晴らしいかを物語るエピソードです。そんな松島を日本三景のひとつにあげたのは、江戸時代の幕府の儒学者、林春斎が天橋立、宮島、松島を「三処奇観」と評したのに始まります。

穏やかな松島湾に浮かぶ島々をめぐるクルージングは、松島観光の醍醐味。松の緑が彩るユニークな形の島々の景色を船上でガイドの解説を聞きながら間近に眺めれます。驚いたのは、これらのうち4つが有人島であること。陸からの至近距離の島での暮らしはどんな感じがするのでしょう。

自然が作り出す造形美を堪能するなら松島巡り観光船の「仁王丸コース」が王道のクルーズコースです。(単にすぐに乗れたのがこのコースでした)大型遊覧船「仁王丸」は定員300名、2階デッキ(グリーン乗換券600円必要)もあり、デッキで海風を感じながら一周50分の海と眺望が楽しめます。大小260もの島が湾に浮かぶ絵のような風景は、海水面の上昇によってできた溺れ谷とかつての山頂の名残。暗礁が多くよそ者には航行が困難なため伊達政宗の軍港だったと聞きます。

出港してすぐに右手に見える双子島の名前の由来は、細長い鯨島と丸い亀島が波間に仲良く寄り添うように浮かんでいて、まるで双子のようであるところから名付けられています。

左手遠くに見えてくるのが「千貫島」です。島の名前は、伊達正宗が「あの島を余の館まで運んだ者には銭千貫を与える」と言ったことに由来します。島には松の木がぽつりと立つ、正宗がこよなく愛した島です。

海食によって開いた4つの穴が特徴の「鐘島」。穴に波が打ち寄せるとゴーンと鐘のような音が鳴り響く島です。穴が小判のように見え、別名「金の島」ともいいます。松島の景観はボコボコっと島が海に浮かび、切り立った白い岩肌が美しく、そこに松などの緑が映え、白と緑のコントラストが見事です。凝灰岩は風化しやすく、柔らかさが特徴で、松島湾の島は凝灰岩でできていることから風化により表面が崩れ、中の白い部分が露出したことによります。また松は栄養分の乏しい場所に強く、塩害を受けにくいことも松島らしさを形成しています。

松島湾クルージングの名物スポットになっているのが「仁王島」です。浸食された集塊岩の上に乗った大きな泥岩が怪奇な形相の顔のように見える伊達正宗公お気に入りの島です。仁王像が葉巻をくわえて座るように見える力強い姿が印象的です。

多彩な草花が茂る植物の宝庫「福浦島」には、陸から全長252mと松島のなかでも最長の朱塗りの橋、福浦橋が架かり、歩いて渡れます(通行料200円)。四季を通してこの橋を家族やカップル、グループが歩いて渡り島を巡るため出合が多いことから「出会い橋」とも呼ばれています。

松島観光桟橋に到着です。遊覧船乗り場から見えていた海に突き出るように松島湾に浮かぶ小島に佇み、瑞巌寺の境外仏道で、五大明王を祀る「五大堂」に向かいます。大同2年(807)に坂上田村麻呂が東征した折に建立した毘沙門堂が始まりと伝わります。のちに慈覚大師円仁が天長5年(828)、3000人もの学生と堂衆を率いてここ松島に下向し、堂宇を建立しました。延暦寺と比肩すべき意味を持って命名された延福寺(瑞巌寺の前々身)を開いた際、5つの明王像を安置したといいます。大聖不動明王を中心に、東方に降三世明王、西方に大威徳明王、南方に軍荼利明王、北方に金剛夜叉明王を配し、五大明王として安置したことからこの名が付いたといいます。そもそもこのお堂には田村麻呂により多聞天像が祀られていましたが、円仁が五大明王像を祀ろうとすると、多聞天像は場所を譲るようにして、光を発しながら沖合の小島へ飛び去ったという不思議な伝説があります。

現在の建物は、慶長9年(1604)伊達正宗が瑞巌寺に先立って再建した東北地方現存最古の桃山建築の御堂で、中に安置された秘仏の五大明王像は33年ごとに御開帳されます。

足元の床から下の海が見える朱塗りの「透かし橋」で五大堂に渡ります。橋板の間が空いていて高さもあるので、踏み外せば海に落ちそうで怖いのですが、これは参拝の際に、その人の身も心も引き締まるようにと、あえてこのような造りになっているどうです。五大堂はそれだけ清浄な場所だということです。現在は縦板が渡されているもののスリリングです。

またカップルで渡るとき手を取り合うことから結びの橋といわれるようになりました。赤い橋は松島を象徴する風景のひとつで雄島の渡月橋(縁切り)、福浦島の福浦橋(出会い)、五大堂の透かし橋(縁を結ぶ)の3つがあり、それぞれ風情のある作りになっています。じつはこの3つの橋が、とっておきの縁結びコース。縁結びは「結ぶ」だけでなく「悪縁を切って良縁を結ぶ」というのが本当で、この3つの橋にはそれぞれ「縁切り」「良縁に出会う」「縁を結ぶ」という役割があり、この順番で回ることで、よい縁が結ばれると言われている。

宝形造、本瓦葺で、お堂の四面を飾る繊細な彫刻は必見で屋根下、軒まわりの蟇股には方位に従って十二支の浮彫りが施されていて自分の干支を探してみます。

五大堂から望む松島の絶景には誰もが心を奪われ、松島湾を航行する遊覧船がよく見えます。

国道45号沿いには食事処、お土産やさん、カフェが次から次へと目に飛び込んできます。途中の牡蠣カレーパンやせんべい、焼き立てかまぼこ等の美味しそうな匂いや潮の香り、風の音やさざ波を五感で感じることができます。

メイン通りからまっすぐに延びる参道の先に「瑞巌寺」があります。正式名は松島青龍山瑞巌円福禅寺といい、古くは松島寺とも通称されました。平安時代の初め天長5年(828)、慈覚大師円仁により開創された天台宗の東北一大拠点であった延福寺でしたが、鎌倉時代に破却され円福寺と改称、臨済宗建長寺派の禅寺に改めました。その後戦国時代に一時衰退しましたが、伊達政宗が慶長4年(1604)から5年の歳月をかけて再興しました。京都、根来の名工を招き、伽藍の造営の縄張りをみずから行い、名を「瑞巌寺」と改めました。

寛永13年(1636)政宗公の遺言で来松した名僧雲居禅師の努力で、名実ともに奥羽に冠する大禅刹となり、周辺にも円通院、陽徳院、天麟院などが造営され、江戸時代中期には30余の寺街が形成されました。芭蕉は『おくのほそ道』で(五月)十一日、瑞巌寺に詣。・・・雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改まりて金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりかる。と謳っています。

奥州の高野山と呼ばれた瑞巌寺は、奥州随一の禅寺で、政宗が参道の杉並木の間から中秋の名月が見えるように本堂の位置を決めたと言われる本堂へと続く参道の両脇には杉木立が続き、崖際には石窟群が約200mにわたって姿を現します。苔むした洞窟は、修行僧の修行の場でもあったので厳粛な雰囲気に包まれています。

芭蕉『おくのほそ道』松島の章の美文調は、松島の絶景を簡潔にして的確に表現しています。「抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたたふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐ふ」

平成30年(2018)6月24日、10年の年月がかかった平成の大修理が終わりました。本堂とともに、廊下、御成門、中門、4棟の太鼓塀などが修復されました。

大屋根が美しい瑞巌寺本堂は南東に面し、南西端に御成玄関が、南東端に庫裡が続く回廊が接続します。大きさ正面38m、奥行24m、入母屋造りの本瓦葺きで、桧・杉・欅は熊野から運ばれ、京都・根来の大工衆が技を競いました。瑞巌寺の特色は、本堂内部の装飾にあり、孔雀の間・文王の間・鷹の間など10ある部屋の襖にはそれぞれの用途に合わせた絵が描かれています。例えば法要が営まれる『室中孔雀の間』では3面に異なる季節を描き、現実には起り得ない「四季が一度に来る」という現象を表すことで、そこに極楽世界を表現しています。(写真撮影禁止)

本堂廊下の上部には見事な欄間彫刻が並んでいます。左奥に見える御成玄関の火頭窓の七宝輪違いの彫刻も美しい。

瀟洒な彫刻が美しい庫裡は正面13.8m、奥行き23.6mある禅宗寺院の台所。白壁と木組みのコントラストが美しく、大屋根の上にさらに入母屋造の煙出しが載った巨大な佇まいが印象的です。本来実用本位の建物に唐草や花肘木の彫刻が施されたことに政宗の美意識が伺えます。

海沿いの目抜き通りより落ち着いた雰囲気がある一本奥に入った小径に沿って立派な4つのお寺が建ち並んでいます。訪れるべきお寺のひとつが瑞巌寺であり、もうひとつが三陸三十三観音霊場瑞巌寺三内「円通院」です。伊達正宗の嫡孫で文武に秀で三代藩主として将来を嘱望されたが、19才で江戸城内で逝った伊達光宗の霊廟として、正保4年(1647)に瑞巌寺100世洞水和尚により開山した菩提寺です。寺院には珍しい薔薇園をもつことで円通院は薔薇寺の愛称で呼ばれます。名所が多い日本三景・松島にあっても、気品漂う景観を愛する人は少なくありません。

山門をくぐると小さな谷に広がる境内には、約350年前につくられた美しい石庭、枯山水の「雲外天地の庭」が現れます。この庭は、「天の庭」「地の庭」で構成され、「天の庭」は須弥山を中心に松島湾に実在する七福神の島を表しています。「地の庭」は、人生を石の三種類の仕上げで表していてその二つの庭を天水橋で結ばれています。

円通院で最も奥まった場所立つのが、約3世紀半もの間秘蔵とされた光宗の霊廟「三慧殿」です。光宗君の死を悼んだ二代藩主忠宗によって没翌々年の正保4年(1647)に造営された霊廟は、宝形造、本瓦葺、東北地方では数少ない格式ある方三間霊屋の遺構で大工棟梁を地元の内藤五郎兵衛らが務め、中央に負けない仙台藩の建築技術の粋をつくした伊達家屈指の建築物です。屋根の優美な反りと軒を支える華やかな組物が、後期桃山様式を今に伝え、建築の端正さゆえ、殿内の厨子とともに国の重要文化財に指定されています。

桃山様式の作風を伝える宮殿型厨子は、黒漆塗りの薄暗がりに燦然と輝く極彩色の意匠を施し、さながら万華鏡のようです。戦後まで厨子の封印が解かれなかったことが、装飾の色を鮮やかに保てた理由です。その逗子には白馬に跨る衣冠束帯の光宗君の像と殉死された七人の像が祀られています。見逃せないのが、向かって右の厨子の扉の内側に描かれた赤い薔薇の花で、金箔と鮮烈な赤の対比は妖艶ですらあります。壮麗な逗子の図案は支倉六右衛門常長が遣欧使節団として欧州に赴き、西洋から持ち帰った洋バラを描いたという説と日光東照宮では平安の意を込めた薔薇文様が多用されていることから同じく神道系祭祀として平安を示す薔薇が描かれたという説があります。薔薇園も厨子にちなみ先代住職が設けたものです。

約700年前の洞窟群の前を通り本堂「大悲亭」へ。

本堂「大悲亭」へ進む途中には禅林瞑想の庭と名付けなれた非日常的な空間を作り出している杉林の中を歩きます。

さらに進むと薔薇の庭「白華峰西洋の庭」といって三慧殿の厨子に描かれているバラ、アカンサス、ガーベラなどをモチーフにして、仏教とキリスト教の出会いによって生まれたバロック的な庭です。

本堂「大悲亭」は光宗君の江戸納涼亭で正保4年(1647)解体移築したもので、寄棟造萱葺の瀟洒の姿は小堀遠州作と伝わる前庭の雰囲気と相まって禅寺らしい落ちついたたたずまいを見せています。本尊の木造聖観世音菩薩座像は桧材、寄木造り、漆箔、像高63cm。四段の鱗型蓮台に坐し、右手を施無畏印、左手に未開敷蓮華を執っています。豊頬・高髻の姿はりりしく、框座・透かし彫りの光背とのバランスもよく、鎌倉時代の秀作です。

前庭は伊達藩江戸屋敷にあった小堀遠州作の庭を移設したといわれています。心字の池には蓮の花が、補陀落山にはモミジとツツジが季節の移ろいを感じさせてくれます。本堂の西側の庭は深山渓谷の中に仏の姿を表した石組になっています。

出口近くの縁結び観音に手を合わせます。先の3つの赤い橋を渡ったあとに訪れるとご利益があるとか。縁結び観音は竜に乗った観音菩薩で、竜が男性を菩薩が女性を表します。

4つのお寺の内残りの2つが、向かって一番右手伊達政宗の正室であった愛姫の廟所「陽徳院」と一番左手、政宗と愛姫の間に生まれた五郎八姫の菩提寺「天麟院」です。五郎八姫は徳川家康の六男、松平忠輝の正室でしたが離縁、その後仙台に戻り仏門に入りました。

お昼で仙台といえば“牛たん”です。訪ねたのは市内に8店舗を構える「伊達の牛タたん本舗」東インター店です。仙台の牛タン焼きは専門店の“味の太助”がはじまりといわれます。フランス人コックに牛たんの味を教わり、それを日本人向けにアレンジしたとされ、いまや数多くの専門店があります。

今回は「極厚芯たん定食」が食べたく伊達の牛タたん本舗を訪れました。アツアツの皿にのって出てきた極厚芯たんを一口口にいれれば極厚なのに柔らかく、炭火の香ばしい香りが鼻に抜け、絶妙な塩加減の牛たんと麦飯の相性がよい。一味唐辛子を振りかけてみたり、辛子味噌や南蛮漬けと一緒にたべたりと楽しめます。

仙台に来たからには伊達政宗に挨拶に行かない手はないと伊達政宗の墓所「瑞鳳殿」に向かいます。仙台城の東、広瀬川の河岸段丘の谷を挟んだ経ヶ峯に位置します。建立したのは二代藩主忠宗で、桃山調の豪華絢爛な社殿を誇りましたが、仙台空襲で灰燼に帰しました。現在の建物は昭和54年(1979)に再建されたものです。

まずは寛永14年(1637)仙台藩2代藩主伊達忠宗によって藩祖伊達政宗廟「瑞鳳殿」が造営された際に「香華院」として創建。その後「正宗山瑞鳳寺」になったお寺の山門からスタートです。東京品川にある伊達屋敷の門を模したと言われます。

香華院というのは、仏前に香や花を供える役割を担う寺院のことで霊廟・墓所などに置かれます。本尊は平泉の毛越寺より遷した釈迦三尊像です。

参道の石造りの階段は藩政時代からのものでその数は伊達家の禄高(62万石)を表したものといわれます。左右にそびえる杉木立は古いもので樹齢380余年のにもなります。

石段を上り石畳を少し歩きます。

瑞鳳殿の正面門「涅槃門」に着きます。涅槃とは煩悩を取り去った悟りの境地となる状態を意味し、広くは来世(死)という意味にもなります。

樹齢数百年の青森檜葉を用いて再建され、正面扉上部の蟇股には瑞獣「麒麟」、左右の妻飾には「牡丹と唐獅子」など焼失前と同様の豪華な飾り彫刻が施されています。

涅槃門自体はくぐることができないので、門の右側から先に進む道があり、階段を上っていきます。階段沿いには家臣から奉納された石燈籠が整然と並んでいます。片倉小十郎重長の石燈籠です。

拝礼のために整えらた施設で、焼失前の拝殿は瑞鳳殿の床面と同じ高さになっていて正面扉を開けると、橋廊下、唐門を通して瑞鳳殿内に安置された政宗の御木像に礼拝することができたといいます。現在の拝殿は瑞鳳殿がよく見えるように簡略化されています。

柱には彫刻獅子頭、屋根の竜頭瓦を復元し、極彩色も再現された美しい「瑞鳳殿」は、寛永13年(1636)70才で生涯を閉じた政宗の遺命により、その翌年ここ経ヶ峯に造営された霊屋です。現在は鋼板製の近代的な門になっている唐門ですが、以前は天井に金箔が貼り付けられていて「金唐門」とも呼ばれていました。

桃山文化の遺風を伝える江戸時代初期の豪華絢爛な廟建築の名作であり、随所に施された鳳凰や天人など見事な彫刻と美しい色彩は豪華でみごたえ十分です。政宗はホトトギスの初音を聞くためにこちらに登り、同行した家臣に死後は当地に墓所を造るように命じたたといいます。普段は閉ざされていますが、政宗の命日(5月24日)等に御開帳されます。

霊廟の周りにある殉死者供養塔(宝篋印塔)は、伊達政宗の死去に際して、石田将監ら直臣15人とその家士5人が殉死しています。ちなみに殉死者と呼ばれるのは、生前に主君から許可を受けた者のみになります。

さらに順路に従って進むと、二代藩主伊達忠宗公霊屋「感仙殿」三代藩主伊達綱宗公霊屋「善応殿」さらに九代、十一代藩主の御廟「妙雲界廟」の区画があります。

正面左から二代藩主伊達忠宗公霊屋「感仙殿」は、寛文4年(1664)に四代藩主伊達綱村公によって建立されました。明治初年の廃仏毀釈の影響を受け、本殿以外の唐門、拝殿などは取り払われました。本殿左右の宝篋印塔は、伊達忠宗の死去に際して殉死した、直臣12人とその家士4人の供養塔です。

正面真ん中にある三代藩主伊達綱宗公霊屋「善応殿」は、享保元年(1716)五代藩主伊達吉村公によって竣工しましたが明治初年の廃仏毀釈の影響を受け、感仙殿同様本殿以外の唐門、拝殿などは取り払われました。

正面右手奥(感仙殿北側)には「妙雲界廟」があります。九代藩主周宗公、十一代藩主斉義公夫妻の墓所です。

最後は伊達政宗が慶長6年(1601)に築城した居城、日本100名城に選ばれている「仙台城」です。標高130mの青葉丘陵にあり、東と南を断崖や広瀬川の渓谷で固める天然の要害で別名「青葉城」と呼ばれています。政宗は徳川家康からのいいがかりを懸念して天守閣は建てなかったといいます。戦災などで建築物はほとんど失われましたが、大手門跡から15分ほど歩くと現れる、高さ17mの本丸北壁石垣は必見。本丸跡からは仙台市街が一望です。

本丸跡の仙台城跡から城下を睥睨する伊達政宗騎馬像は定番の撮影スポットです。

仙台の奥座敷に遊ぶ!名湯香る秋保・作並、緑滴る磊々峡・宮城峡はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/8327

 

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