絶景の古刹「山寺」こと立石寺を訪ねて、気分は松尾芭蕉なり

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俳人・松尾芭蕉が「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」の名句を残した東北の霊場山寺・立石寺。せみ塚、弥陀洞を訪ねると、芭蕉が残した風景に出会え、澄み渡る群青の空に浮かぶ五大堂を眺めると、その雄大さに時が経つのを忘れてしまいます。さあ!山寺に出発します。一般に「山寺」と言うと、石段がたくさんある険しい所といったイメージですが、現在は石段も整備され大変登りやすくなっています。数多くのお堂に手を合わせ、周囲の景色を楽しみながら山道を登り、ゆっくりとした時間がたのしめます。

東北の霊場、通称「山寺」と言われますが、正式には「宝珠山立石寺」と言い、平安時代の初め貞観2年(860)第三世天台座主慈覚大師円仁によって比叡山延暦寺の別院として開山された天台宗のお寺です。急峻な山腹に沿って堂塔が建てられ、登山口から山頂の奥之院までは1015段の石段が続く静寂に包まれた参道が続きます。延暦寺に残る開山文書に円仁の名があり、砂金千両と麻布三千反でこの辺の土地を買ったという記述があります。当時と比べれば規模が小さくなったとはいえ、現在も33万坪のもの境内地を持ち、その中に大小30余りの堂塔が残されています。

貞観6年(864)に71歳で円仁が没したときには、比叡山に葬られた遺骸が600キロ以上離れたこの寺へ飛んできたという伝説があり、それほど円仁と立石寺とのゆかりは深いと考えられます。

先ずは車を参拝者専用無料駐車場に入れます。ちょっとわかりづらいのですが、ここは立石寺登山口手前の「そば処信敬坊」横の細い道を上がったところにあります。登山口の階段を上った正面の「根本中堂」から山寺巡りはスタートです。一山の中心となる根本中堂は、延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼が再建した入母屋造5間4面の建物で、ブナ材の建築物では日本最古と言われます。根本中堂に祀られる円仁作と伝わる本尊・薬師如来坐像は50年に一度開扉される秘仏です。伝教大師最澄が比叡山延暦寺に灯した灯りを立石寺に分けた不滅の法灯を拝することができ、比叡山焼き討ちで一時途絶えた延暦寺の不滅の法灯は、ここより再分灯されたのです。

根本中堂の前に祀られた布袋様の像、お腹を撫でてお参りをするといいことがあるとか。

地続きの左隣には「日枝神社」。貞観2年(860)慈覚大師の開山にあたり、釈迦・薬師・阿弥陀三尊を安置し立石寺の守り神として近江国坂本から勧進されました。江戸時代までは「山王権現」といわれていました。後方の大銀杏は慈覚大師お手植えと伝えられ、1000年を越える樹齢というその下には高浜虚子・年尾の親子句碑が立っています。                            いてふの根 床几斜めに 茶屋涼し 高浜虚子  我もまた 銀杏の 下に 涼しくて 高浜年尾

宝物殿前には「芭蕉・曽良像」があります。元禄2年(1689)芭蕉の「奥の細道」の紀行文に、山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧めるによりて、尾花沢よりとって返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。とあるように古い友人・鈴木清風のいる尾花沢から日本海を目指して西へ向かうつもりでしたが、土地の人々に一見を勧められて南へ8里余の立石寺まで足を延ばしたのです。

宝物殿の隣のお堂は常行念仏堂で、江戸時代の初めに再建されました。座禅や写経をおこなう立石寺の修行道場ですが、参詣者も自由に修行ができるように準備されています。

頭上の堂は鐘楼で、除夜の招福の鐘として知られ、元旦にかけて数千人の参拝者が幸福を願って鐘をつきます。

いよいよ「山門」からの石段コースが始まります。鎌倉時代建造の歴史を感じさせる茅葺き屋根が風情のある山門は、開山堂などへの登山口で、大仏殿のある奥之院までの石段は800段を越えます。その途中、数十メートルの岩の上に建つ堂塔や数百年の樹林の間に貴重な宗教文化と自然景観が一体となった日本を代表する霊場の入口です。ここで入山料300円を修めます。

山門をくぐると石段は少し急になりますが、ゆっくり登れば恐れることはありません。両脇に並ぶのは西国三十三ヶ所のご本尊を模した石仏です。石段を一段二段と上るごとに己の欲望や穢れが消え、明るく正しい人間になれるということから上り甲斐もあるというものです。

山門からやや上ったところにある間口2.7m、奥行き1,8mのお堂が「姥堂」です。堂内には十王経に書かれている三途の川で閻魔大王の助手を務める奪衣婆の石像が祀られています。ここから下は地獄、ここから上が極楽という浄土口で、かつて参拝者は、そばの石清水で心身お清め、新しい着物に着替えて極楽に登り、古い衣服は堂内の奪衣婆に奉納するのです。山寺は、中世以来、人々の死後に魂が帰る山、また死者を供養する山として信仰されてきました。

姥堂の向かい側にある大きな岩は笠岩といい慈覚大師が雨宿りをしたところとも伝わります。

石段の途中に突如現れる大きな岩が、御手掛岩です。円仁がゆく手をふさぐ大岩を岩肌の小さな窪みに指をかけてこの岩を押し開いたと伝わります。

お山の自然に沿ってつくられたこの参道は、昔からの修行者の道です。一番せまいとことは約14cmの四寸道で、開山・慈覚大師の足跡をふんで私たちの先祖も子孫も登ることから親子道とも子孫道ともいわれます。

右上にそびえる百丈岩の上に納経洞や開山堂、展望随一の五大堂がたっています。

ここを抜けると登山口から420余段「せみ塚」です。『おくのほそ道』の紀行文で“麓の坊に宿借り置きて山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。岩を這いて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ”とあり芭蕉が「閑かさや・・・」の句の着想を得た場所ではないかといわれ、最上林崎の俳人・坂部壺中らが、昭和6年(1769)に、芭蕉が書いた短冊を埋めて塚を建てました。登山口から石段を420段ほど登ったところ、樹木が鬱蒼と茂る長い階段の中腹に立ちます。

蝉塚の東にある「弥勒洞」は長い歳月の雨風が直立した凝灰岩を風化させ、阿弥陀如来像を彷彿とさせることからの名称です。1丈6尺(約4.8m)の姿から丈六の阿弥陀ともいい、仏のお姿に見ることができた人には幸福が訪れるといいます。山寺の岩は、新第三紀中新世の凝灰岩からなっており、自然景観を土台にして、宗教文化の殿堂が築きあげられています。岩肌には「岩塔婆」という板碑型の供養碑が直接刻まれています。納骨を伴わない詣り墓に一種です。ここから奥之院まで580余段です。

さらに登ると嘉永元年(1848)に再建された、ケヤキ造りの優美な門「仁王門」が見えてきます。

左右には運慶13代の後裔・平井源七郎たちが作ったと伝わる仁王尊像と十王尊像が安置されていて、邪心をもつ人は登ってはいけないと睨みつけています。後方の閻魔王がこの門を通る人たちの過去のおこないを記録するといいます。ここから奥之院まで360余段です。

先に奥之院に向かうこともできますが、今回は「納経堂・開山堂」から「五大堂」を先に見にいくことにしました。立石寺を開いた慈覚大師の木造の尊像が安置された大師の霊廟である開山堂、その隣の百丈岩の上に位置する小さな赤い祠は、写経が納められた納経堂です。慶長4年(1599)に山形城主・最上義光によって建てられた山寺で一番古いお堂で、その真下に貞観6年(864)歿の慈覚大師が眠る入定窟があります。昭和23年(1948)から、納経堂の真下にある入定窟の調査が行われ、御金棺と呼ばれる棺が見つかり、5人分の人骨と9世紀頃の制作とされる「木造慈覚大師頭頂像」が発見されました。

さらに開山堂の右手にある石段を上ると頭上の建物は五大堂といい、正徳4年(1714)に再建された舞台造りのお堂です。宝珠山を守る五大明王を祀って天下太平を祈る道場として、山寺開山30年後に慈覚大師の弟子・安然が建立しました。眼下に山里に囲まれたのどかな町並みを見下ろせる山寺随一の展望台です。

五大堂から開山堂、納経堂を見下ろせば、杉木立の中、奇岩が折り重なるようにして続き、霊場ならではの厳粛さと静寂が満ちています。この3つは山寺を代表する建造物です。

奥之院を目指します。山寺の中でもここがもっとも高い場所で、海抜417m、参道の終点になります。正面右側の古いお堂の正式な名称は「如法堂」で、慈覚大師が中国で修行中に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来を本尊とします。円仁は40歳の時に、病を患い延暦寺の横川の草庵に蟄居した際に修行の一環として、硬い石墨と草で作った筆で法華経をひたすら写経をする「石墨草筆」という写経修行を行いました。この写経修行は、立石寺の僧侶たちによって受け継がれ、明治5年(1872)に再建されましたこの道場で、4年間かけて行われ、完成した写経は、4年に一度、閏年の11月28日に、開山堂の隣の納経堂に納められています。隣に像高5mの金色の阿弥陀如来が祀られた大仏殿があります。

江戸時代までは、12の塔中支院があり多くの僧が修行に励んでいましたが、今では、仁王門から奥之院の間に性相院、金乗院、中性院、華厳院の4つの山内支院がその面影を残しています。奥之院から脇道に入った奥が華厳院です。慈覚大師円仁が開山のころ住んでいたと伝わり、手前右側の岩屋には全国で最も小さい三重小塔も祀られています。

中性院の背後の岩窟には新庄藩戸沢家の歴代の石碑が立ちますが、向かいには現在の山形の基礎を築いた、山形城第11代当主「最上義光」公の御霊屋があります。

山門まで下り案内板の標識にしたがって立石寺本坊から下山口を目指します。

山寺の出口となる抜苦門ですが本坊からは表門となり、参拝者の全ての苦悩を抜けるとの理由から名付けられました。切妻、銅板葺、八脚単層門、三間三戸、正面唐破風、木鼻には獅子の彫刻などが施され格式が感じられます。

抜苦門を潜ると立石寺本坊に出ます。周囲には神楽岩や蛙岩などのい巨岩や羅漢像が安置され山内の維持管理や宗教的な祭事や行事ばどを行う立石寺の中心をなす建物です。建物は木造2階建て、寄棟、銅板葺、平入、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、玄関屋根は唐破風、その上部の大屋根を千鳥破風として正面性を強調しています。

駐車場に戻りながら締め括りは10時半の開店を待って「美登屋」で名物の「だしそば」をいただくことに。3代目である店主の小笠原彰さんが新しい名物料理を作ろうと、20年ほど前に考案したのがだしそばです。

店内の窓際のカウンター席から緑濃い山々と澄み切った立谷川の流れを眺め、旅情豊かに味わうそばは、山形県産のそば粉「でわかおり」を使用した香りがよくコシの強い手打ちの二・八そばに刻んだキュウリやナス、ミョウガ、ショウガなどの地元産の夏の香味野菜と薬味に納豆昆布を加えた山形の郷土料理「だし」をたっぷりのせた冷たい名物おそばです。やや大きめに刻まれただしの具は10種類で彩りも豊かな山形の旨いものをギュッと詰めた自慢のひと皿です。

山寺へはJR仙山線山寺駅から徒歩5~6分ほどで登山口にいくことができます。昭和8年(1933)開業、山寺駅からは展望台も設置されていて立石寺全体を見ることができます。写真は立石寺本坊背後の上部が天華岩(天狗岩)、下部が香の岩になります。

ちなみに駅前正面突き当りにある建物は、大正5年竣工の本館を背面に、昭和11年(1936)に増築された老舗ホテル「旧山寺ホテル」です。平成19年に閉館され現在はレトロ館原画展示館として使われています。

日本遺産「山寺が支えた紅花文化」とは、江戸時代に質・量ともに日本一の紅花産地となった山形県の中央部に位置する村山地域の発展には当地を代表する古刹「山寺」が深くかかわっていました。紅花は慈覚大師円仁や第二世安然大師によってこの地に伝えらえたといい、最上川がもたらす肥沃な土壌と朝霧の立ちやすい気候風土が良質な紅を多く含む紅花を育み、トゲのある紅花を摘み易くした栽培適地でした。松尾芭蕉が『おくのほそ道で尾花沢で訪れたのも紅花の買継問屋を営む旧知の豪商、鈴木清風でしたし、山寺参詣の道すがら紅花畑を目にし、「眉掃きを俤にして紅花の粉」「行末は誰が肌ふれむ紅の花」と句を詠んでいます。

また比叡山と古くから関係のある山寺の存在は、比叡山と縁故の深い「近江商人」たちをこの地に惹きつけました。山形の領主最上義光も積極的に商売上手な近江商人を誘致して上方との取引を盛んにしようとしたことから、やがて近江商人は山形市の中心部に店舗を構え、紅花交易を通して莫大な富をもたらし上方文化をこの地に伝えるとともに、山寺への寄進もおこなったといいます。

 

 

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