織田信長危機一髪!敦賀・金ケ崎城址からの越前・若狭歴史紀行

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京の都に近い福井県(越前・若狭)は、歴史をひもとくと、時代ごとの局面にしばしば登場します。南北朝時代の金ケ崎の戦い、それから230年の時を経た戦国時代、織田信長の越前攻めの舞台にもなりました。北近江の浅井氏の裏切りで窮地に陥り、撤退した有名なエピソード「金ヶ崎の退き口」には、織田信長、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)、徳川家康、明智光秀といった武将たちの天下とりへの夢を偲ばせます。その足跡が残る敦賀・若狭の城跡・古戦場を訪ねます。

金ヶ崎城跡は、延元元年(1336)に南北朝の戦いで後醍醐天皇の二人の皇子、尊良親王(一の宮)、恒良親王(皇太子)を奉じて北陸統治を名目に下向した新田義貞が越前守護足利(斯波)高経軍と戦った古戦場で、『太平記』に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害であったことがわかります。

車を停めた駐車場近くには、聖武天皇の勅願により泰澄大師が天平8年(736)に開創、天皇親筆による金光明経を賜り、その経を金櫃に封じて陵丘に埋めたことによりこの山を金ヶ崎と名付け寺名を誓法山金前寺と号しました。弘化2年(811)氣比神の奥の院として弘法大師空海が巡錫し伽藍十二坊を有したといいます。南北朝時代、新田義貞の本営となり、尊良親王(御年27歳)と新田義貞が嫡子新田義顕(18歳)は当山の観音堂で自害したと伝わります。

隣接して鐘塚があり、松尾芭蕉が金前寺で金ヶ崎での南北朝の戦いと新田義貞の沈鐘の物語を聞いて「月いつこ鐘は沈るうみのそこ」と詠みました。

敦賀湾に突き出た岬の小高い丘に社がある。この丘にはかつて城があり、京と越前を結ぶ要衝の町、敦賀を見下ろしていました。金ヶ崎城址、金崎宮であす。駐車場のある麓から長い石段を登ります。

中腹に位置する「金崎宮」は、明治26年(1893)に創建された、金ヶ崎に籠城し非業の最期をとげた尊良・恒良両親王を祀る神社です。太平記の一話に尊良親王が永年想いを寄せ続けた姫君御匣(みくしげ)殿とめでたく結ばれた話もあることから恋の宮として恋愛祈願に多くの人達が訪れます。

また金ヶ崎は戦国時代の元亀元年(1570)4月25日、織田信長が越前朝倉氏攻めの軍をおこし、若狭国吉城に陣取り敦賀に進軍、朝倉方の天筒山城、次いで朝倉彰恒が守備する金ケ崎城をわずか2日で落として入城。翌26日木の芽峠を越えて越前に攻め入ろうとした時、北近江の浅井長政の裏切りで挟撃される窮地に陥り、撤退を余儀なくされます。これが『太閤記』などで木下藤吉郞(後の豊臣秀吉)を殿(しんがり)に撤退したエピソード「金ヶ崎の退き口」として有名な舞台にもなりました。その際、信長の妹お市の方が、浅井氏裏切りの危機を知らせるため両方を紐で結んだ袋に小豆を入れ陣中の届けたという故事に因んで「難関突破守・勝守」の小豆袋型のお守りが売られていました。ここから1時間ほどで月見御殿や城戸跡、天筒山などの史跡巡りを当時の歴史を思いながら山道を歩きます。

ひっそりと建てられた金ヶ崎城址の碑から花換の小道(幸の道)と名付けられた遊歩道を歩きます。花換とは、桜見物で金崎宮を訪れた男女が「花換えましょう」と唱え合い、桜の小枝に我が思いを託してお互いの桜の小枝を交換しあったとの言い伝えに由来します。

鴎ヶ崎より階段を北東に登って行くと頂上近くに金ヶ崎古城跡の碑があります。このあたり一帯の平地が本丸跡と言われます。

ここから少し登ったところが金ヶ崎の最高地(海抜86m)で月見崎といい、通称月見御殿と呼んでます。南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡といい、石灰岩の岩が雨で削られてまるで庭石のように見えることから、昔の武将たちが月を眺めた月見御殿と呼ばれるようになったと伝えられています。ここからの見晴しは素晴らしく、天候が良ければ遠く越前海岸まで望むことができます。

途中、金崎宮本殿の背後にあたる高台に、尊良親王墓所見込地があります。円筒形の石碑が立ち、「尊良親王御陵墓見込地」「明治九年十月」と刻まれています。親王の墓に指定される地が京都市左京区にあるため、落城時の親王自刃の地ではないかと見られています。自害した尊良親王の首は京都に送られ、禅林寺(永観堂)の夢窓疎石によって葬儀が行われたため永観堂の近くに墓所(首塚)があります。

月見御殿を後にして金ヶ崎城から約1.5km、稜線続きになっていて20分ほどで到着するのが天筒山城です。途中南東へ峰続きに三の城戸、二の城戸、一の城戸と3ヵ所の城戸跡が残っています。三の城戸は金ヶ崎城の本丸を守るための一番最後の大切な入口で、南側に大きな堀があり、尾根が狭くなっています。周りは「水の手」と呼ばれ、きれいな水が湧き出ていたといいます。

二の城戸には二重の大きな堀や、畝状竪堀など多くの防御施設があり、朝倉氏が作り加えたものと考えられています。実践的な山城であったことが伺えます。

一の城戸は天筒山側から来る敵を防ぐための最初の防御施設であり、ここから西側が金ヶ崎城になります。この堀はふもとの金前寺の近くまで続いていて、当時は寺の建物なども城の一部として使われていたと考えられています。しかしながらここから東側は天筒山城までなだらかな尾根が続いていて、防御施設はほとんど造っていないにが特徴です。

天筒山城は、金ヶ崎城の支城で、金ヶ崎の南、天筒山(171.3m)に築かれ、金ヶ崎城と一体となってこそ本来の機能が発揮できる構成です。展望タワーが建つ主郭部は、450mの幅、長さを持つ3つの郭から構成され、更に北側には見張りの櫓台があります。

主郭部からは、敦賀湾はもとより、敦賀市内、旧北陸道、更に金ヶ崎城の全容も見渡せます。主郭から南に伸びる南郭(標高138m)、更に余座郭(標高80m)と大きく4つの郭から構成されていてかなりの規模で、こちらが本城と言ってもいいぐらいです。落城後廃城となる。写真中央の海に突き出ているのが金ヶ崎城跡

因みに天正3年(1575)織田信長により平定された越前は、羽柴秀吉の台頭により、その家臣・蜂屋頼高が敦賀城を築城も九州平定中に病死、代わりに天正17年(1589)大谷吉継が5万石で入城。関ヶ原の戦いで盟友・石田三成の西軍に加担し、敗北、自刃し戦後所領は没収されました。元和2年(1616)一国一城令により敦賀城は破却されました。写真は敦賀西小学校正門の横にある案内説明碑

福井県のご当地グルメといえばソースカツ丼。敦賀といえば敦賀ヨーロッパ軒の「ソースカツ丼」です。福井県名物ソースカツ丼の生みの親、高畠増太郎氏からのれん分けされた昭和14年(1939)創業の第一号店『敦賀ヨーロッパ軒本店』。ホテルの様な大きな店舗は遠くからでも容易に発見できます。

店内には数々の著名人の写真やサインが並び、その人気の高さを物語っています。揚げたてのトンカツをソースにくぐらせるのが福井流。味は創業時から変わりなく絶妙なカツの厚みやソースの旨味、サクサク感を強調させる目の細かいパン粉などの細やかなこだわりも健在。丼ぶりからはみ出しそうなボリュームも圧巻です。各種香辛料を加えた秘伝のウスターソースがカツとサクサクの衣に絡み絶妙な味わいに。肉汁とソースがジュワッと口の中に広がります。ご飯と一緒にかき込めばアッという間に完食してしまう一度食べれヤミツキになる旨さです。

朝倉攻めの本陣となった若越国境の若狭側東端にある若狭佐柿国吉城は、弘治2年(1556)、若狭国守護大名武田氏の重臣である粟屋越中守勝久が、三方郡佐柿の通称「城山」に築き、頂上部(標高197.3m)を本丸とし、北西に延びる尾根上には段々の曲輪が連続する。斜面は切り立った急崖で北側には天然の堀である機織池が広がり、守り易く攻め難い城でした。また城の眼下には若狭国の主要街道である丹後街道(現在の国道27号線)が横断していて、城山から派生する北東側の尾根先に腰越坂、北西側の尾根先に椿峠が通り、この二つの峠によって、丹後街道を通るには必ず国吉城の目前を通らなければならず、国吉城はまさに若越国境を睨む“境目の城”でした。

永禄6年(1563)以降、越前朝倉氏の侵攻を10年近く撃退し続けた難攻不落の城として知られた山城です。“国吉城籠城戦”の合戦の様子は、籠城戦に参加した地侍の田辺半太夫安次によってまとめられ、江戸時代を通じて『若州三潟郡国吉籠城記』などの軍着物として世に広まりました。「続日本100名城」に選定されています。元亀元年(1570)越前攻めに向かった織田信長の“足利幕府軍”は、近江国から若狭国熊川に入り、越前との国境に近い国吉城に入城し、2泊滞在し、城を守った勝久と地侍達を誉め称えたほか、越前攻めの軍議を開いたあとに越前敦賀へ進軍したと伝わります。

賤ケ岳の合戦後の天正11年(1583)5月、国吉城主となった豊臣秀吉の家臣、木村常陸介定光は、城の改修と町の整備に着手し、それまで椿峠を越えて天王山麓を西に延びていた丹後街道の道筋を国吉城下の南側を通るように付け替え、天正14年(1586)春には街道沿いに町家が100戸ほど並ぶ佐柿の城下町を開きました。また国吉城をそれまでの土造りの山城から、領国を統治する大名の威信を示すような石垣造りの城に改修されました。

慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦後に京極高次が若狭国を領することとなり、重臣の多賀越中守良利が国吉城に入り、寛永11年(1634)に京極氏に代わり小浜藩主となった酒井忠勝はその翌年国吉城を廃して新たに町奉行所と藩主休息所として御茶屋屋敷を城跡の南に置き、三方郡と佐柿の町を治めました。以降。城下町佐柿は、丹後街道の宿場町として繁栄し、現在も当時の景観を色濃く残した古い町家や寺社が見られます。

駐車場に車を停め、先ずは若狭国吉城歴史資料館へ。途中、幕末に水戸浪士の一部が収容された準藩士屋敷跡の石垣が残ります。幕末の元治元年(1864)尊王攘夷を掲げ水戸藩家老の武田耕雲斎を将に立てて挙兵した水戸天狗党は、禁裏御守衛総督を務める一橋慶喜を頼りに京都を目指しますが、幕府軍の追撃により越前国敦賀で降伏。最終的に823人中、353人が処刑されます。慶応3年(1867)、降伏した水戸天狗党のうち110名余りは謹慎後、小浜藩預かりとなり、藩士に準じる待遇をし、佐柿に屋敷を与えて住まわせました。

小浜藩主酒井忠勝が開いた佐柿町奉行所跡に立つ若狭国吉城歴史資料館は、江戸時代後期に建てられた旧田辺半太夫邸を活用し、座敷は佐柿町奉行所から移築したものと伝わる。展示室では、解説パネルや史資料で国吉城と佐柿の450年に及ぶ歴史を紹介しています。また近世城郭に見られるような見事な石垣や池泉、水路跡などが残されています。

資料館横には、かつて国吉城の殿様と家臣たちが平時暮らしていた屋敷跡が段々に残る城主居館跡があります。わずかに残った石垣に往時が偲ばれます。

本丸へは急峻なつづら折れを登りますが、途中々々には100mごとにあと◯◯mと記された標識に元気をもらいます。

あと300mと200mの途中に左手に下る標識があります。伝二ノ丸跡で曲輪のど真ん中に土塁で造られた喰い違い虎口があります。佐柿の城下にある福寿印から伝二ノ丸に登る登城道があり、防御施設と考えられます。

あと100mで本丸という場所に堀切が造られていますが、石垣が堀切の壁まで築かれています。

登城道分岐を左に進むと連郭曲輪群。城山の尾根筋に5つの曲輪が串団子のように連なっています。その曲輪群の間には堀切があり、その高低差に驚かされます。

分岐まで戻り右手、本丸へ。東虎口からは石垣と石段、北西虎口は本丸正面に位置づけられる重要な門でした。虎口空間を形成する石垣と西側に巨大な平石を用いた門礎石や北側石垣の中央付近に倒れている城主の威厳を示すという巨石、花崗岩の一枚石「鏡石」が残る。石垣はほぼ人頭大の自然石が主で、城山周辺に分布する硅石が多く、転用石も見られます。虎口平面は、東側が狭く、西側が広い歪な台形状で、山上地形の制約や、旧虎口を踏襲した可能性があります。

城山最高所(標高197.3m)の本丸跡には城址碑が立つ。東西約70m、南北約30m、南隅に方形の土壇が残るほか、北西側と東側に虎口がある。発掘調査の結果16世紀後半~末頃に総石垣化された様相が明らかとなりました。

南隅の土壇上の櫓台跡からの展望は大変よく、東は山東の諸集落や朝倉方が築いた付城群と、若越国境であった三国山や野坂岳、旗護山と敦賀半島が一望できます。写真左手が佐柿集落

北は若狭湾と天王山、西から南にかけて佐柿城下の町並みと美浜町市街地、遠く三方五胡のひとつ、久々子湖や若狭町の山々を見渡すことができます。当時から四方への展望が開けた立地であったことがわかり、織田信長もその眺望を褒め称えたと伝わります。

第一次朝倉攻めの10日間を改めて時系列でみてみると。永禄13年(1570)4月20日、越前の朝倉氏を攻略するため3万の軍勢で京都を出発し、22日には熊川(若狭)の松宮玄蕃の屋敷の宿泊。翌元亀元年(1570)4月23日には佐柿国吉城に逗留し、朝倉氏の前線基地である敦賀への進軍の準備を行い、4月25日には天筒山城を落とし、翌26日には金ヶ崎城を攻略します。いよいよ朝倉氏の本拠地に向けて軍を進めようとする中、浅井氏の離反により撤退を決意。28日には今津町保坂に到着し、進路を南にとり朽木街道を進みます。この時朽木の領主であった朽木元網は信長を迎い入れ接待しています。翌29日に葛川を通って無事に京都に到着しました。この出来事が「信長の朽木越え」と呼ばれています。信長の命運を分けた戦国舞台です。

「越前一乗谷に幻の城下町と朝倉氏5代100年の栄華を訪れる」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/

 

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