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明石といえばタコと東経135度の日本標準子午線、世界最長の明石海峡大橋が思い浮かびますが、城下町としての明石を忘れてはなりません。全国に現存する天守は12というのはよく知られていますが、三重櫓がいくつ現存するかしっている人は少ないのでは。実は天守と同じ12基でそのうちの2基が残っているのが明石城です。明石城が誕生して400年。明石名物“明石焼”に舌鼓を打ち、かの剣豪・宮本武蔵による町割りと伝えられる城下町を歩きます。

明石城の旅は、JR明石駅のホームから始まります。列車から降り立つと目の前に、二つの櫓とそれをつなぐ東西90m超の土塀の真一文字の美しい城の姿を見ることができます。右(東)が巽櫓、左(西)が坤櫓で、巽櫓は、船上城からの移築で寛永8年(1631)の火災で焼け、その後再建。坤櫓は伏見城から移築したものが残っているのではと考えられています。

慶長20年(1615)大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡し、翌々月の元和元年閏6月、幕府は一国一城令を発布します。そんななか信濃国松本から播磨国明石に移った譜代大名で徳川家康の孫、小笠原忠政(後の忠真)に、徳川幕府2代将軍秀忠より元和4年(1618)築城命令が下ったのです。始まりは西国雄藩への備えであった姫路52万石の徳川家康の娘婿池田輝政の家督相続が心もとなく、池田光正を鳥取に移し、姫路には伊勢国桑名から本多忠政を15万石で移封、さらに豊臣恩顧の大名たちににらみを利かせるため姫路城だけでは足りないと考え、池田時代の領地を分割し、東側の明石に小笠原忠政を10万石で配置、さらに東の尼崎にも譜代の戸田氏鉄を5万石で入封し、元和3年(1617)城を築かせます。大改修された高槻城などとともにこれらの城を直線で結べば徳川方の防衛ラインが見えてきます。姫路城主本多忠政は小笠原忠真の岳父で築城に際し、よく相談するよう秀忠は指示しています。

寛永9年(1632)忠真が豊前小倉に転封された後は、城主がたびたびかわりましたが、天和2年(1682)、越前松平家の直明が入封し明治まで続きました。明石駅正面の築城当時から残る内堀を渡ります。写真は内堀と太鼓門橋。

内堀の向かいには織田家長屋門があります。信長の叔父信康の子孫にあたる織田家は代々家老職を務めていて、船上城の城門から移築したものです。築城時の明石藩は、明石、三木、加古、加東の四郡10万石を領有しており、忠真は三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材や石材を転用して明石城を築いたとされています。

明石城は東方から台地状にのびる段丘の突端付近を利用した城で、標高25mの場所に本丸、その西側に稲荷曲輪、東側に二の丸と東の丸を置き、それぞれ高い石垣でがっちり囲まれています。本丸南側の下段の平地には居屋敷曲輪や三の丸が配されています。外堀までふくめると姫路城に匹敵する10万石の大名の城とは思えない天下普請の大城郭です。天守台はあるが天守は築かれず、本丸の四隅に三重櫓が配置されました。明治14年(1881)に艮(うしとら)の櫓が解体されたのを機に保存運動が起き、南面の高石垣上にそびえる巽櫓と坤(ひつじさる)櫓が現存する。

現在城の中心部は明石公園になっていて、内堀を渡って数m歩くとすぐに、現存する2基の櫓が目に入ります。明石公園の正面入口となている太鼓門跡が、明石城中心部へ至る正門でした。かつては太鼓門橋と呼ばれた長さ約20m幅5.5mの欄干のついた木橋がかかり、その先に高麗門があり、高麗門を抜けて枡形虎口の空間を右に折れると櫓門がありました。太鼓門橋には現在も城門の土台となる石垣が残ります。

櫓までは上り道が続きます。

圧巻の石垣は、本丸南側の石垣です。巽櫓は東西約9.03m、南北7.88mで高さは12.53m。屋根は一重目の南側は弧を描く軒唐破風で、東側と西側は三角形の千鳥破風で二重目の屋根の南側と北側も千鳥破風で飾られています。城内側には窓がありません。

一方天守台のすぐ南側にある坤櫓は、東西約10.94m、南北9.15m、高さは13.28mに及びます。多くの破風で飾られ、その組み合わせも華やか。一重目の屋根は南側に軒唐破風、東側と西側に千鳥破風が設けられ、2重目の屋根は南側に千鳥破風、東側に軒唐破風そして北側は、軒唐破風の上に千鳥破風が重ねられ、飾られた珍しい意匠です。写真は坤櫓下の帯曲輪から見上げたもので、石垣の高さが良く分かる。

四つ面がそれぞれ異なったスタイルで飾られているところも凝っていて、さらに巽櫓と違って、城内側にも窓が開かれていて天守が存在しなかった明石城にとっての天守代用の三重櫓だったようです。

写真は東側から見た巽櫓と坤櫓です。ともに一重目から3重目まで逓減させながら重ねた層塔型の3重3階で坤櫓のほうが巽櫓より一回り大きい。これら2つの三重櫓は南側の三の丸から立ち上る高石垣の上に築かれていて、本丸南側の石垣は、東の丸から稲荷曲輪までを含めると約380mに及びます。高さは三の丸から5m程石垣を積んだところの櫓台下に細長い帯曲輪があり、そこからさらに15m程石垣を積んで、合計約20mになります。

坤櫓の北側に天守台があり、東西約25m、南北約20mの広さがあり、熊本城の天守台とほぼ同規模です。豊前国の小倉藩主だった細川忠興が息子の忠利に宛てた手紙に、明石城のために中津城の天守を譲渡する旨が書かれていて、天守を建てる計画はあったと思われています。

坤櫓の背後にあり、隅角部は稜線をとがらせる「江戸切」で整えられています。

外堀の南には、姫路藩主本多忠政の客分となっていて、小笠原忠真に招かれた剣豪・宮本武蔵が町割りを手掛けたといわれる城下町が連なる。町の間を西国街道が東西を貫き、さらに南には明石港がある。城を出て明石の町なかを歩くと、城下町というよりも港町の風情を色濃く感じます。その名の通り魚介類を扱う店の多い魚の棚商店街は魚の街・明石を代表する商店街。明石城築城とともに町割りした時に誕生したといわれ、約400年の歴史を誇ります。獲れたての鮮魚をいち早く消費者のもとへ届けるため、明石の漁港では11時30分にセリを行う、いわゆる“昼網”が有名。昼過ぎともなると昼網の活魚が店頭にズラッと並び活気を帯びる。明石だこや明石鯛をはじめ、焼きアナゴや練り製品、菓子、飲食店など約100軒が並びます。

なかでも明石で外せないのが明石焼。地元では玉子焼と呼ばれ、江戸時代の終わり頃から食べられていてタコ焼きのルーツともいわれます。かんざしなどに使われた、明石玉というサンゴの代用品を作る際に大量の卵の白身を使用するために考えられたという説が有力です。大正8年(1919)頃には屋台で売られるようになった温かい出汁につけてたべる明石の名物です。その明石焼の名店が魚の棚商店街にあるたこ磯です。

たこ焼きと違うところは大量に玉子を使うため色味が黄色く、そしてじん粉と呼ばれる小麦でんぷんをまぜて作る生地は非常に柔らかい。焼き鍋が熱伝導のよい銅製で、玉子焼を裏返すのに傷つけないよう菜箸を使う。タコは入っているものの、小麦粉で作るたこ焼きとはそもそも材料が違い、窪みも浅く、球形にはならない。なにもつけずにそのまま食べてもいけるが、昆布や鰹節などで取った出汁に浸して食べるととても上品な味わいになります。具材はタコのみですが、アナゴ入りもあり、15個800円で満腹感間違いなしです。

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