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独鈷山と夫神岳から扇状に開ける地、信州・塩田平は、古来「聖地」として多くの神社仏閣が建てられています。山の麓にある信州最古の温泉といわれる別所温泉、「国土・大地」を御神体とする「生島足島神社」、「大日如来(太陽)」を安置する「信濃国分寺」は、一本の直線状に配置され、レイラインをつないでいます。先人たちが、この地が特別であると後世に伝えようと遺した様々な仕掛けは、今も訪れる人々にパワーをチャージさせています。令和2年(2021)日本遺産に認定された『レイラインがつなぐ「太陽と大地の聖地」~龍と生きるまち 信州上田・塩田平~ 』の風景や有形・無形文化財、食、習慣など国内を代表する物語を感じる旅に出かけます。

夏至の朝、東御市との境にそびえる烏帽子岳から登った太陽は、光の道をつくりながら龍神様が棲む夫神岳を照らします。この光の道が、ray lineです。実際、生島足島神社では、夏至と冬至に、鳥居の中を太陽の光が通り抜け、神々しくぬくもりのある輝きを享受できる。本来レイラインとは、古代遺跡が意図して直線的に並ぶように建てられたという仮説に基づいた遺跡群のことで、lay line 英国では「妖精の鎖」と呼ばれています。

朝日が最初に照らすのが大日如来を祀る信濃国分寺。奈良時代天平13年(741)、聖武天皇が国家鎮護のために全国の国ごとに国分寺の建立を命じられた詔勅『国分寺建立の詔』をくだされました。詔勅には「造塔の寺は、兼ねて国に華なり、必ず好処を択びて、実に長久なるべし」とあり、国の華である国分寺はその国の最も良い場所が求められ、信濃国分寺は上田に造られることとなったことからも、上田が古代信濃の国における要地であったことがわかります。770年頃には伽藍が整備されたと推定されます。寺伝によると当時の建造物は承平8年天慶元年(938)の平将門の乱に巻き込まれて焼失したとあります。

昭和38年(1963)からの発掘調査で、全国的にも稀な僧寺と尼寺が並ぶ伽藍配置であることが判明し、この結果をもとに史跡公園として整備されました。寺域の東北隅の高台に鎮座する国分神社がレイラインの起点となります。僧寺跡(金光明四天王護国之寺)の伽藍配置は、100間(約178m)四方の伽藍地の中に、南大門・中門・金堂・講堂を南北一直線に並べ、中門と講堂を複廊の回でつなぎ、中門の東に塔、金堂の東に僧坊を置く、東大寺式といわれる様式です。金堂は基壇が東西29.7m×南北19.3m、推定される建物規模は正面24.2m、側面14.4mの7×4間で、釈迦牟尼が祀られ、塔には金光明最勝王経(法舎利)が祀られていました。講堂は法を説き経を講ずる建物で、僧坊は僧が生活する場所でした。写真は塔跡から眺め中央に講堂跡、その左に金堂跡が並び、回廊を挟んで手前右が僧坊跡です。

僧寺と並ぶ尼寺(法華滅罪之寺)は、伽藍間約40mで僧寺の西方にあります。全国の国分寺で両寺がこれほど近接する例は稀です。伽藍配置は東大寺式で、80間(約148m)四方の伽藍地の中に、南大門・中門・金堂・講堂・尼房・北門が南北一直線に並び、中門と講堂は回廊(単廊)でつながり、講堂の東に鐘楼、西に経蔵がありました。経蔵には経典が納められ、鐘楼には梵鐘がかけられていました。

僧寺の講堂跡の北には北門があったと推定され、北に抜けていくと現在の信濃国分寺があり、伽藍の中軸線は一直線となり、古代国分寺から中世に復興したと推定される現国分寺が歴史的にも地理的にも直接の関係性をもって建てられていたことが確認されます。写真は現在の国分寺の仁王門で300m先に八日堂国分寺があります。

焼失後、300mほど北の現在の地に場所を移した信濃国分寺は、天台宗の寺院で、本堂には国分寺の本尊の多くが釈迦如来であるのに対して、薬師如来が祀られ、1月8日の縁日にちなんだ「八日堂のお薬師さん」の名で知られています。現在の本堂は、江戸時代の万延元年(1860)建立のもので、龍や鳳凰の彫刻が見事です。境内には本尊をはじめ、大黒天や弁財天なども祀られています。

本堂は柱間一間を八尺(約2.4m)にとる桁行六間、梁行四間の入母屋造、妻入の建物です。外観は善光寺本堂のように母屋のまわりに一間の庇をつけているので、二階建てのように見えます。内部は前側の外陣と、奥の内陣にわかれ、内陣の両脇と背後の一間通りは入側となっています。大工棟梁が佐久耳取村(現小諸市)の田島喜平、彫工は地元上沢村の竹内八十吉で、瓦師は三河から招かれていたことが記録mされています。本堂は近世の堂としては東信地方最大の建造物で、向拝の彫刻に見られる鋭い彫りや、虹梁の複雑な絵様などに江戸時代末期の特徴がよくあらわれています。

内陣には薬師如来を本尊として日光菩薩、月光菩薩及び十二神将を安置しています。

信濃国分寺三重塔は、寺伝では、建久8年(1197)源頼朝が善光寺参詣の帰途、寺の衰退を憂い、塔の復興を命じたといいます。建築様式から室町時代中期の建立と推定される「和様」の外観は軒反が強く壮麗で堂々と落ち着いた雰囲気を呈しています。三重塔の第一層の金剛界大日如来木造が安置されている仏壇の鏡天井を囲む「如意頭文」は「禅宗様」の建物で用いられているもので、一層の内部は赤や緑の顔料で鮮やかに塗られていました。別所温泉の安楽寺八角三重塔の大日如来とともにレイラインの発着点を示しているようです。

信濃国分寺は第二次上田合戦で、慶長5年(1600)9月、真田と徳川の「国分寺の会見」が行われたとされる場所です。この会見で真田方が計略をもって徳川秀忠の3万8千の軍を足止めしたことにより、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。「国分寺の会見」は、江戸中期編纂とされる『上田軍紀』が初出ですのでがどこまで史実であるかは疑問も残るところです。

光の道はまっすぐ延びて、大地を御神体とする生島足島神社へ。ここは鎌倉期の北条氏や戦国期の武田信玄、真田昌幸・信幸父子といった戦国武将がその力を求めて信仰したといわれるパワースポットです。

毎年夏至の日には、東の鳥居の真ん中から朝日が昇り、荘厳な光線が大地へ、空へと広がっていくといいます。

生島足島神社は、日本の真ん中に鎮まり、万物を生み育て国中を満ち足らしめる日本国土の守護神である生島大神と足島大神の二柱を日本列島の御魂として祀る古社。神代の昔、建御名方富命(諏訪大神)が諏訪の地に向かわれる途すがらこの地にお留まりになり、二神に奉祀し米粥を煮て献ぜられました。諏訪大神は、風雨・農耕の神といわれ、龍や蛇は化身、神使とされます。神社7不思議の中に「神域に大蛇が棲んでいて、神池には禁忌の動物である蛙がいない」との言い伝えがあります。

本社(上宮)は神池に浮かぶ神島内に立ち、内殿に床板はなく、大地そのものの土間を御神体として祀っていて、この様式は我が国でも最も古いかたちとされる出雲式「池心宮園池」です。内殿は切妻屋大社造で室町時代の天文年間(1532~1555)創建といわれます。

北向の御本社に対し南向きに鎮座する北宮とも称される摂社・諏訪神社(下宮)には、諏訪大神「建御名方富命」を祀る。慶長15年(1610)真田信幸により再建され、一本の大木から造られたという一間社流造であり、門は諏訪系「御門屋」として県内最古の門です。

さらの光の道は夫神岳へと続き、その麓にある塩田平を照らします。上田は険しい山々に囲まれた盆地ゆえに、本州では一番雨の少ない地で穏やかな気候という特徴は、信濃国分寺が置かれたこと、鎌倉北条氏の一族が終の棲家としてここを選んだ理由です。この地は古来「聖地」として、周辺には安楽寺をはじめ、北向観音や独鈷山麓の空海が開いた前山寺など多くの神社仏閣が建てられ、「信州の鎌倉」と呼ばれています。さらに中国の高僧や多くの学僧が訪れたことから「信州の学海」とも呼ばれています。それは背後に豊かな湯で心まで洗われる別所温泉があったからだと思われます。

「あじさい彩る信州の鎌倉、上田・塩田平のあじさい小径を歩く」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/4325

上田市国分の信濃国分寺と上田市下之郷の生島足島神社を通る直線(東西を結ぶラインに対して約30度北側に傾いたライン)が聖地の配列「レイライン」の基軸とされていますが、この軸はさらにその先の別所温泉に向いています。信州上田・塩田平は雨が少なく、ここに暮らす人々は、龍神様が棲みという夫神岳に恵みの雨を願います。「岳の幟」は、室町時代の大干ばつの時に村人たちが夫神岳九頭龍神に雨乞いの祈願をしたところ恵みの雨が降り作物が甦ったと伝えられ、別所温泉で500年以上前から続く夫神岳に祀られた九頭龍神に雨を乞う祭です。「下り龍」を描いた色鮮やかな幟が特徴的で、温泉街を約6mの赤や黄色の幟を持ちながら夫神岳山頂に祀られた「龗(オカミ)」と呼ばれる九頭龍神を温泉街を練り歩きながら山麓の別所神社までお連れします。五彩の反物が深い緑の森に見え隠れする不思議な光景、幾重にも連なる幟は、何ともいいようのない趣を醸し出して、味わいのある行事です。

「信州最古の温泉「別所温泉」で外湯めぐりと古刹めぐりを満喫」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/4103

こうして上田の大地と聖地はまばゆい光で包まれていきます。

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