
天正10年(1582)6月、羽柴秀吉との天下分け目の山崎の戦いに敗れた明智光秀が最後に入った城が、京の南西にあった勝龍寺城です。元亀2年(1571)光秀の盟友細川藤孝が居城とし、天正6年(1578)光秀の三女・玉(のちの細川ガラシャ)が輿入れした先が、勝龍寺城城主・細川藤孝の嫡男・忠興で、新婚時代をすごした城でもあります。本能寺の変から山崎の合戦へと続き夢破れた光秀に思いを馳せ、明智家と細川家が縁を結び、最後の城となった勝龍寺城。山崎合戦古戦場跡とともに訪れます。
勝龍寺城は元亀2年(1571)に、織田信長の命を受けた細川藤孝が、それまであった臨時的な砦を、当時最先端の城郭に大きく造り替えたものです。勝龍寺城は、京都盆地の南西部に位置し、石清水八幡宮が鎮座する男山と天王山の狭間の地には京都から西宮を経て中国・九州地方へと続く西国街道と、鳥羽街道から桂川右岸の低地を直進する久我畷といった主要な道が走り、その結節点を抑え、また京の都と大坂を結ぶ水運の大動脈淀川水系の桂川・宇治川・木津川が交わる三川合流の西にあり、交通の要衝に立地します。織田信長が勝龍寺城の改修を命じたのも、この地が京都を支配・維持する上で、京都防衛に極めて重要だと考えてのことだと考えられます。
肥後熊本藩祖・細川藤孝は、永禄11年(1568)に足利義昭を奉じた信長の上洛戦で、義昭の側近として共に戦い、ほどなく勝龍寺城に入りました。次第に信長に接近しその家臣に、元亀4年(1573)には、信長から桂川の西側一帯、西岡の地を与えられて領主となり、これ以降、細川父子はそれぞれ「長岡」姓を名乗りました。藤孝は終生にわたり、忠興は慶長20年(1615)以降には細川に復姓しますが、長岡の名はその後も星川家の一門や重臣等に与えられ、大切にされました。
天正6年(1578)明智光秀の娘たま(玉、後の細川ガラシャ)は、織田信長のすすめにより、勝龍寺城主・細川藤孝の嫡男・忠興のもとに輿入れします。婚礼は勝龍寺城で挙げられ、幸せな新婚生活を送りました。
勝龍寺城は、土を切り盛りして造った、それまでの中世城郭とは一線を画し、信長の安土城築城よりも5年、早く「瓦葺き」「石垣」「天主」といった、その後の城郭の標準となる諸要素が取り入れられていて近世城郭の先駆けとも言えます。本丸は東西約120m・南北約80の長方形で、周囲は高さ4~5mの土塁で囲まれ、外側には堀を巡らせています。堀の幅は10~15m・深さは3mで、本丸側の堀裾には石垣を築いていました。写真は模擬櫓と南虎口跡
主郭の施設の多くは瓦葺で、鬼板瓦・鳥衾瓦なども確認されましたが、特に軒丸瓦が数多く出土しています。そのうち北東隅櫓・東辺土塁付近で使用されたと思われる巴文の軒丸瓦は、光秀の近江坂本城や佐々成政の越前小丸城のものと同じ木型を用いて作った同范瓦がありました。これは、信長から家臣たちに瓦工人などの職人集団が派遣されていたことが伺えます。写真は復元北東隅櫓
本丸の北東隅櫓では、石垣で補強された高さ4mの土塁が築かれ、内側に七段の階段となっていて、階段を上ると、少し西へ回り込んで土塁の頂上まで行けるようになっていました。頂上には約4m四方の平坦面があり、ここは城の外を監視・攻撃するための櫓が置かれていました。
本丸内には4か所で井戸が確認でき、そのうち3か所が細川藤孝による城の改修に伴って作られたものです。井戸は底に太い木を井桁に組み、その上に円形に自然石を積み上げたもので石仏、五輪塔なども石材として利用しています。直径は0.9mで、深さは約3mあります。本丸内には排水施設が整備されていて、ここが本来、水気の多い土地であることが伺えます。
主郭には、西辺を除く外壁部全体に石垣が施されていました。石垣は野面積みで当時の最新技術を取り入れたものです。使用されている石材は転用石を除くと、砂岩やチャートなど西山周辺に広く分布する石で占められています。石の状態から西山西麓の崖や川の上~中流域で採取し、城まで運搬してきたと推測されます。内壁部にも一部石垣が確認され、特に北門の石垣(下段)は良好に残っていました。通路を直角に折れ曲げた枡形虎口を、自然石を積み上げた野面積みで構築していて、石仏・五輪塔・板碑などの石造物を転用し、組み込んだ様子がわかります。
脇には勝龍寺城で発掘された・石仏・五輪塔・板碑などの石垣の一部として用いられた石造物が集められています。転用石と呼ばれるもので、当時石垣の供給体制も整っていなかったことから、身近にある石造りのものを転用したと考えられています。
本丸の北西隅にある北門跡には、出撃性にも優れた主郭から張り出す、外枡形虎口が構築されていました。枡形虎口は防御設備であることから当時は北口が大手門だったのではと想像できます。門は二重になっていて、石垣の高さは2m以上ありました。写真左が北門で堀を渡って北側から門を入ると、枡形で通路は東に直角に折れ曲り、次の門が現れるとその先には堀がまたありました。
天正10年(1582)本能寺の変により、主君織田信長を討った明智光秀は、この勝龍寺城を拠点として、羽柴秀吉を迎え撃ちます。そして圧倒的な秀吉軍の前に「山崎の戦い」に敗れた光秀は勝龍寺城に退却し、夜中のうちに城を脱出し、本拠地近江坂本城へ向かう途中、討たれて絶命します。光秀が脱出したと伝わる勝龍寺城の北門には当時の石垣や門の礎石が遺ります。
西辺土塁、特にその南端は主郭内から比べると約7mも高くなっており、天王山や男山、桂川・宇治川・木津川の三川から淀城方面を一望できます。かつてはさらに南へ大きく突き出していたと想定され、南門に集中する敵兵を側面から射撃する横矢掛かりとして機能しました。また土塁上の建物土台と考えられる石垣の基底部も見つかっていて、ここに天主が建てられ、周囲の街道などににらみをきかせていたと考えられます。
勝龍寺城の天主は、信長の安土城に先行して設けられました。その構造は不明ですが、ここで元亀4年(1573)に藤孝と里村紹巴による連歌百韻興行が催され、天正2年(1574)には藤孝が三条西実澄から古今伝授の切紙を受けています。文化的にも趣のあるものが、天主として整備されたと考えられています。
本丸の南西側に接して作られた東西40m、南北約65mの台形の曲輪が沼田丸です。本丸と同様に周囲を土塁で囲み、外側に堀を巡らせています。沼田丸という名称は細川藤孝の妻、麝香の実家である越前の沼田氏にちなんだものと考えられます。
勝龍寺城の南には小畑川と犬川にはさまれた勝龍寺村がありました。村の周りは卵のような形をした堀や囲いで守られた中世の環濠集落で、川を利用した貿易で栄えた村と考えられます。その中心に地名の由来となった恵解山 勝龍寺が鎮座し、勝龍寺城が築かれるまでは地域の軍事拠点として使われていました。大同元年(806)に帰朝した弘法大師空海が、唐の長安で修行した青龍寺の名をとって創建したと伝わり、応和2年(962)、大干ばつ、大飢饉が起きた時、天皇は住職千観上人に7日間の祈祷を命じたところ、にわかに雨が降り出し「龍神を呼び、龍神に勝った」という意味で青龍寺から勝龍寺に改名しました。山崎・勝龍寺の合戦で焼失したと伝わります。
藤孝によって、小堀川・犬川に挟まれた神足・勝龍寺の集落を含むいわゆる惣構を持つ城に改修された勝龍寺城は、低地にある城の守りを堅固にするため、城の北側に堀の底から土塁の頂部高さ6mを超える大規模な土塁・空堀を築きました。この堀は細川藤孝以前に当地を拠点とした西岡の有力国人・神足氏の居館も取り込んだものです。写真は神足神社付近の土塁跡
細川藤孝は、明智光秀の与力として丹波攻めに参陣、天正9年(1579)丹後・宮津城に入封し、天正10年(1582)山崎の合戦では剃髪し幽斎と号して舞鶴田辺城に隠居します。江戸期以降は廃城となっています。
軍事力的劣勢に陥った光秀と中国大返しで戻った羽柴秀吉とが天正10年(1582)6月13日、摂津国と山城国の境に位置する山崎、現在の京都府大山崎町一帯において、光秀軍1万6000、羽柴軍4万の兵で戦った合戦が山崎の戦いです。JR京都線山崎駅から北へ2.5kmほど、天王山夢ほたる公園の一角に「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」と彫られた石碑が立っています。すぐ近くを流れる小泉川を挟んで両軍が対峙」したといいます。
一部の軍記物語には、光秀は「御坊塚」に本陣を置いたとあり、これについては境野1号墳と恵解山古墳の二説がありますが、寛文5年(1665)の絵図には光秀の本陣は恵解山古墳付近で、境野1号墳付近は津田信春の陣としています。光秀が本陣を置いたとされるのが、「恵解山(いげのやま)古墳」です。古墳時代中期(4世紀末~5世紀末)に造られた乙訓地域最大の前方後円墳を復元。恵解山古墳は西側から続く標高約16mの低い台地の上に築かれていて、東には桂川右岸に広がる平野があり、、南に緩やかに下りながら幅を狭めています。この場所は、桂川、木津川、宇治川の三つの川が合流して淀川となる地点にも近い位置で、京都から大阪平野に流れ込むこれらの川は、古代の水上交通上重要であり、この重要地点を押さえていた自らの権力の強さを往来する人たちに知らしめ、見せつけていたと考えられます。
後円部にある現在の墓地が棚田状に3段になっていることや、前方部に大きな掘り込みがあることからも、光秀方が恵解山古墳に陣を置いた際の造作である可能性があります。古墳頂上から右前方に見える山が「天下分け目・・・」の由来になった天王山です。その山裾左手タンクの並んでいる辺りが三川合流付近、右端に窪んだ頭をのぞかせているのが男山です。
秀吉は、戦場を見下ろせる標高270.4mの天王山を押さえて有利に立ったといいます。古来、大山崎は軍事、交通上の要衝として歴史上重要な役割を果たしてきました。その要の位置を占めているのが天王山です。天王山は摂津国と山城国の境をなし、また西国と東国を結ぶ重要なポイントであり、山と川の間は最も狭い部分で200mたらずしかなくここを通らずして西へも東へも行けないという位置にあります。古代、この山には名がなく、中世になって山崎山、そして山頂近くに酒解神社が建立され牛頭天王を祀ったことから天王山の名が生まれました。
JR京都線山崎駅から秀吉が本陣を設けたという宝積寺に向かいます。山崎の戦いの後、秀吉は天王山にあった山名宗全の城跡を大改築して山崎城を築城し、大坂城を築くまで居城としました。その際宝積寺も城域に取り込んだため城は「宝積城」とも呼ばれました。宝積寺は、神亀元年(724)聖武天皇の勅命を受けた行基により開山。天王山の南側山腹にある真言宗智山派の寺院で山号は天王山で、聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀ることから通称「宝寺」ともよばれ、金運のパワースポットです。江戸時代初期の再建で三間一戸、切妻造の仁王門をくぐり境内へ。
本堂は慶長11年(1605)の改築、入母屋造、本瓦葺で内陣の厨子に本尊十一面観音立像を安置します。室町時代みは八幡宮油座からの寄進も多くあり、寺運は大いに盛り上がったといいます。
境内には、山崎の戦いの際、羽柴秀吉が腰を下ろして采配を振るったという石があります。これ以降秀吉が出世して関白、天下人になったことからこの石は「出世石」と呼ばれるようになりました。
三重塔(一夜の塔)の建立は天正12年(1584)頃で、豊臣秀吉が天王山の戦いの後に一夜で建立したと伝わります。
最後に天王山を背後に建つJR大山崎駅に戻り、離宮八幡宮で山崎城の御城印を購入します。離宮八幡宮は、貞観元年(859)清和天皇は神託により国家鎮護のために宇佐八幡宮から八幡神を勧請し、平安京の守護神として奉安しようと考え、京都大安寺の僧行教を豊前国に使わされました。八幡神とともに山崎の津に戻ってくると神降山に霊光を見、その麓の地に行くと岩の間から清水が湧いているのを清和天皇に奏上したところ、勅命により現在地に社が建立され「石清水八幡宮」と名付けられました。その翌年貞観2年(860)淀川の対岸にある男山に向かって霊光が放たれると男山に八幡宮が遷宮され新たに「石清水八幡宮」が建立されました。しかしながら最初に八幡神が降り立ったのは山崎であることから再び八幡神を勧請して石清水八幡宮を存続させました。
男山の岩清水八幡宮は「男山八幡宮」とのいいますが、山崎の石清水八幡宮も、平安時代の嵯峨天皇の河陽離宮があったとされる地であることから「離宮八幡宮」ともいいました。元禄10年(1697)男山八幡宮との「石清水八幡宮」の社号を巡る争いで敗れ、以降離宮八幡宮が正式の名称となりました。幕末には長州藩の屯所が置かれたこともあり、会津藩や新選組など幕府軍の攻撃を受け、惣門と東門を残してほとんど焼失しました。写真は東門で、延宝年間(1673~80)に建立されたと考えられる小型ながら優美な薬医門です。
貞観年間(859~877)に当宮の神官が神示を受けて「長木」を発明して荏胡麻油の製造が始まったことから日本における製油発祥の地とされています。朝廷より「油祖」の名を賜り、その後鎌倉時代に大山崎油座の制度ができ、全国の荏胡麻油の販売権を独占しました。
因みに山崎の油売りで思い出すのが昭和48年(1973)NHK大河ドラマの司馬遼太郎原作『国盗り物語』で、平幹二郎さん演じる松浪庄九郎(後の斎藤道三)が「マスは天竺須弥の山、あぶらは補陀落那智の滝、とうとうたらり、とうたらり、仏天からしたたり落つるおん油は、永楽善智の穴を通り、やがては灯となり、無明なる、人の世照らす灯明りの・・・」ぴたり!と最後の一滴が壷におさまった。の油売りの行商の場面を思い出します。