曼殊沙華の真紅の絨毯が告げる秋の訪れ!巾着田曼殊沙華公園

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埼玉県南西部に位置する日高市は、「高麗」と言う地名や、「高麗神社」や「高麗川」などの名称を目にします。これは古代朝鮮半島「高句麗」と深い関わりがあったことを表しています。日本には多くの渡来人がやってきて、日本では高句麗のことを「高麗」と記し、彼らのことを「高麗人」と呼びました。霊亀2年(716)武蔵国に「高麗郡」を置き、東国7国(駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野)に住んでいた高麗人1799人が移住し住み着きました。江戸時代には高萩地区に日光脇往還の高萩宿が設けられ、市域内に36村ありましたが、明治22年(1889)に高麗村、高麗川村、高萩村の3村に統合されました。さらに昭和30年(1955)昭和の大合併により高麗川村と高麗村が合併して日高町に、その翌年高萩村を編入し日高市になりました。史跡が点在する歴史と文化と巾着田の曼殊沙華の街、日高市を訪れます。

先ずは巾着田へ。埼玉県日高市内を流れる清流、高麗川の蛇行により長い年月をかけてつくられ、日和田山から眺めるとその形がきんちゃくの形に似ていることから、古くからの俗称として巾着田と呼ばれるようになりました。土地の人は川原田と呼び、直径約500m、面積約22haの平地は、昔そのすべてが水田でしたが、今はほとんどが休耕田となっています。昭和40年代後半に、巾着田の用地を当時の日高町が取得し、藪や竹林、葦に覆われた用地を整地したところ、9月頃一斉に曼殊沙華が咲き揃ったとのこと。河川の増水等によって流れてきた漂流物の中に混じって球根が漂着し、根付いたものと考えられています。

今では巾着田の一角は、全国有数の曼殊沙華の群生地で、秋になると500万本が咲き誇ります。辺り一面が真紅に染まり、まるで赤い絨毯を敷き詰めたようです。

この景色を気に入った写真家であり映画監督でもある蜷川実花氏が、2019年公開映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』でロケを行いました。

そば茶房 遊蕎で本格手打ち蕎麦をいただく。御主人は足利「一茶庵本店」で5年間修業後独立。奥さんのお母さんが以前経営していた喫茶店をそのままお蕎麦屋さんに改装して開業しました。県道15号のヤオコー裏にあります。

注文したのはかき揚げ天せいろで、麺は一茶庵系の細麺の二八でコシもあり、ツルツルと喉越しの良さ。つけ汁は、醤油に特徴があるのかやや色の濃い関東風ですが、濃厚で雑味のないマイルドな味。かき揚げは吟味厳選された油がしつこくなく、カラッと揚がっていて、小エビ、野菜の旨味をダイレクトに感じられます。

蕎麦スイーツも手づくりで提供されており、「そばがき団子」は香りと甘味のバランスが絶妙。

出世の神様として知られる神社「高麗神社」は、高句麗からの渡来人「高麗王若光」を主祭神として祀る社です。天智天皇5年(666)高句麗からの使人として来日した高麗王若光でしたが、その後に本国が滅亡し日本にとどまりました。高句麗の王族であり、すぐれた人物であった若光は、高麗郡の郡司を命じられ、郡を治めました。当時未開であった高麗郡内を開拓して産業を興すなど、人々の生活を安定させました。二の鳥居をくぐります。ここからが境内になり本格的なパワースポットへの入口です。

高麗神社は物見山を祖山とし、日和田山からの龍脈が流れる、強力な「龍穴」のパワースポットとして知られ、近くを流れる高麗川が、境内に良い気を引き寄せているといわれる。参道の途中にある2体の狛犬に挟まれた空間りゅうけつなどが特に強い気が流れる龍穴スポットと言われます。

大正時代から政治家、文学者、歴史家ら多くの参拝者が訪れ、特に大正時代から昭和にかけて6人もの政治家が参拝後に内閣総理大臣に就任したしたことから縁起の良い「出世明神」として広く知られるようになりました。6人の政治家とは、若槻礼次郎、浜口雄幸、斎藤實、平沼麒一郎、小磯国昭、鳩山一郎です。

高麗山聖天院勝楽寺は奈良時代に高句麗より渡来した高麗王若光の菩提寺として、侍念僧勝楽上人により天平勝宝3年(751)に若光の守護仏聖天尊(歓喜天)を本尊として創建されました。爾来600年間法相宗の道場でしたが、貞和年間(1345)中興秀海上人の代に真言宗に改宗し、天正年間(1584)に圓真上人により不動尊を本尊とし聖天尊を別段に祭祀し、現在に至っています。写真は平成12年建立の本堂で、京都神護寺をモデルに総欅造り・三手先出組とし軒先の出二軒半・内陣には最大直径2尺3寸の大柱を用い、古式に則り造営されています。

山門である風神雷神門は、瓦葺総欅造二層楼閣で大きさ建築様式共に近郷稀にみる優美さと重厚さを備えた建造物です。天保3年に完成、棟梁は北足立郡立村立川氏と小瀬戸安藤直蔵氏によります。門左右に風神、雷神を祀り、階上に大日如来、七観音、十六羅漢が配置されています。天井画は龍、鳳凰共に江戸の画師南沢によります。

高麗王若光の墓は五個の砂岩を重ねた多重等塔で、下部に四仏が刻まれてあにったが石質が柔らかく永い年月の風化により、今は明らかでありません。鎌倉期以前の建立で、境内が後方に移ったため山門右手に位置しています。

隣接して池泉式庭園「高麗殿池」にも史跡の石碑があります。

山門から石段を上がり中門へ。中門の先にある主庭園は、現在の本堂が高台部に移転したことから作庭されました。自然の斜面・岩盤と植栽を活かしながら、その中に滝石組やサツキの刈込、良く手入れされた松などが美しい庭園です。

高台に位置する本堂の前からは、昔の高麗郷を一望できる素晴らしい景色が広がります。天正18年(1591)に徳川家康が関東に入国すると、翌年(1592)、寺領として高麗郷内に15石を寄進しています。

高麗家は高麗神社の神職を代々務めてきた旧家で、高麗家住宅は境内の隣接地にあります。慶長年間(1596~1615)に建てられたと伝わりますが、建築様式は古く、元禄期以前のものであることは確実と指摘されています。建物の規模は桁行14.8m、梁間9.5mを測り、茅葺き入母屋造りの住宅としては県下で最も古いものとされています。間取りは5室と土間からなり、表側にある「おもてざしき」は21畳の板敷きで、押し板を備え、前面に格子窓を付けています。「四帖」は「おく」の間の控えの間とすての役割をもち、「おく」には「とこ」が設けられています。「かつて」の板の間にはいろりがきられ、土間の奥にかまどがあります。

今度は巾着田を見下ろせる日和田山から眺めてみたいものです。

 

 

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