
本能寺の変で織田信長と共に最後を遂げた森蘭丸成利の末弟、忠政が築城した津山城(別名鶴山城)は、築城に13年をかけたといわれる要塞堅固の城、五層五階、地下1階の天守と70以上の櫓、それらを取り巻く石垣や堀など、旧美作国国主としての威信を誇るものでした。明治6年(1873)の廃城令を受け、石垣のみ残されていましたが、明治33年(1900)津山町営鶴山公園として再出発。城郭をぐるりと取り巻く約5000本のソメイヨシノの桜並木いっせいに咲き乱れる公園は「日本さくら名所100選」にも選定されるスポットです。日本100名城に選定された近世城郭最盛期を代表する桜の城を夏に訪れてみます。
室町時代、美作の守護大名・山名氏が築いた鶴山城。応仁の乱の後、廃城となり、やがて戦国の世も終わり江戸時代を迎えます。慶長8年(1603)、信州川中島13万7500石から美作一国18万6500石の国持ち大名となった森忠政は、鎌倉時代から守護所が置かれていた院庄に入りましたが、新たな拠点として山名氏の古城跡、吉井川と宮川の合流点を見下ろす小高い山「鶴山」を城地と決定し、翌慶長9年(1604)「鶴山」を「津山」と改めて城と城下町の建設を開始しました。途中、江戸城や駿府城普請、大阪の陣への出陣などに多くの年月を費やされましたが、足かけ13年を経て元和2年(1616)にようやく築城工事は終了した輪郭式平山城です。山頂を平坦に削って本丸とし、本丸を囲むように二ノ丸、三ノ丸が高い石垣によって階段状に配置され、南を大手、北を搦手としています。鶴山全部を使った渦巻型に石垣づくりで、三の丸から本丸まで段々に重ねられた石垣がきれいに続き、その美しさから姫路城、伊予松山城とともに日本三大平山城にも数えられています。その石垣は高さ45mにもなります。
三の丸下段の南、西、北側は総曲輪を形成し、その周囲を土塁と堀で固めています。一方東側は急な断崖であり、その直下に南北に流れる宮川を自然の防御としています。麓には重臣の屋敷を配し、城下町との間を画する堀で囲んでいます。堀には6ヵ所門が設けられ、城下町の中心となる京町に面する京橋門を大手としています。本丸への通路は、大手、搦手ととも鈎の手状に曲がる「枡形虎口」が繰り返し形成されており、きわめて防御を意識した構成となっています。写真は津山城と宮川
本丸・二の丸・三の丸には備中櫓をはじめ、粟積櫓・月見櫓等の建造物は、本丸31・二ノ丸12・三ノ丸17棟が配置され、門は本丸15・二ノ丸7・三ノ丸11棟の門が存在しました。比較的コンパクトな面積の中に、これらの建造物群がひしめきあっている様は壮観であったと思われます。本丸と二ノ丸には御殿が置かれ、本丸の御殿は70余の部屋と庭園がありました。津山城が築かれた当時は、わが国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。写真は搦手側の石垣。左上が天守台で折り重なる石垣はまさに要塞。
森氏は初代忠政から4代続きましたが、元禄10年(1697)、4代藩主長成の跡継ぎが立てられずに領地没収となり、翌元禄11年には親藩・越前松平家の宣富(徳川家康次男結城秀康曾孫)が美作10万石を領し津山藩主となりました。その後松平氏は慶倫まで9代174年続き明治を迎えました。
先ずはJR津山駅前の津山観光案内所で情報収集し、登城の起点とます。
京橋門跡から森本慶三記念館(旧津山基督教図書館)の前を通ります。内村鑑三の弟子である森本慶三が、大正15年(1926)に建てた国内唯一のキリスト教図書館です。設計・施工は当時弘前在住の教会建築士・クリスチャン棟梁 桜庭駒五郎です。
津山観光センター横の石段を上がっていきます。正面の石垣が三の丸の石垣です。
鶴山城表門前に建つ津山の礎を築いた初代藩主・森 忠政公の銅像。美濃金山城で織田信長の家臣・森可成の六男(末子)として生まれるも本能寺の変でなくなった三兄森蘭丸成利らや次兄長可が小牧・長久手の戦いで戦死したため美濃金山7万石の家督を相続しました。慶長5年(1600)かねて希望していた信濃国川中島13万7500石への転封が認められ、慶長8年(1603)小早川秀秋の死によって小早川家が無嗣改易されると美作国津山藩18万6500石への加増転封となりました。
石段を上がって表門跡の冠木門をくぐります。表門は城大手の通用口でした。
冠木門(表門)からまっすぐ石段を上がると鶴山館があります。津山藩の学問所として明和5年(1765)に津山藩五代藩主松平康哉によって設立されました。明治維新に入り明治5年(1871)慶倫時代に従来の稽古場と合わせて「修道館」と名付けられ、後の総理大臣、平沼麒一郎などが中心となり「津山の洋学」として全国に名を知れていきます。1904年津山城三の丸跡に移築した際に「鶴山館」と名称変更しています。
鶴山館から三の丸方向を見た見付櫓台。
表門からぐるり左側に回り込みながら石段を上ると三の丸です。登城路に「扇の勾配」の石垣が迎えてくれます。
三の丸は元々土塀と櫓で仕切られていましたが、現在はまっすぐ二の丸の石垣を囲むように進むと裏門に出られます。
三ノ丸から二ノ丸に進むには三の丸入ってすぐ右手にある高石垣に囲まれた一際大きな石段、表中門跡を上り進みます。表中門は、三の丸から二の丸に至る通路の正門にあたり、門の形式は、一階部分が城門、二階部分が櫓となるいわゆる楼門で、城内最大の門でした。櫓の東側(右)は袖石垣に載り、西側(左)は鉄砲櫓の高石垣に取り付いていて、鉄砲櫓とともに鉄砲や弓矢で集中攻撃できるようにつくられていました。門の櫓部分の長さは16間(約32m)もあり、これは大阪城や江戸城の城門に匹敵するほどの規模で、階段幅が広いのが特徴です。
表中門を上り始めてすぐ右手に上る石段があり、上った先には玉櫓台があり、「忠魂碑」が立ちます。写真は玉櫓台を背に、見付櫓台(左)と弓櫓台(右)の間の石段から「表中門」方向を見ています。
表中門跡の石段を上がると中舞台から左に進み、二の丸入口の四足門跡から二の丸に入ります。廃城後に中山神社に移築され、神門として現在も残っています。この二の丸から見上げた備中櫓は圧巻です。四足門写真は二の丸へ向かう石段と備中櫓。
現在、城のシンボルとなっているのは、築城400年を記念して平成16年(2004)に復元された備中櫓。『森家先代実録』によると忠政の女婿、鳥取藩から備中松山城に移ったばかりの池田備中守長幸の訪城にちなみ名がつけられたといいます。本丸から南に張り出した石垣上に建てられた櫓であり、白漆喰を美しく塗り込められた姿は、城下からの景観も含め、城内で天守に次ぐシンボル性の高い建造物であったと推定され、城を取り巻く高石垣と共に絶好の被写体となっていてます。
「二の丸」跡に入ると、東側に行かなければ「本丸」へはいけません。本丸石垣の沿って右手に進むと、本丸表鉄門へいたる道を仕切る切手門跡に着きます。春の桜のみごろはピンクのトンネルが続きます。切手門は櫓門であり、2階部分が南側にある弓櫓につながっていました。門に入れば真っ直ぐ進めず右へ食い違い虎口になって上に上ります。写真は切手門跡の石垣と石段
切手門跡から望む備中櫓
石段を上りきった曲輪は、本丸跡の馬出的な効果を持たせたような敷地で、この敷地の東隅で鼓櫓右下にある門が十四番門跡で、本丸東隅を高石垣で守る石垣の壁下の帯郭の出入口になり、北側には十二番門を構えます。
この馬出し的曲輪から石段を進み表鉄門から本丸へ。表鉄門は櫓門形式で2階部分が「本丸御殿」の玄関として取り込まれていました。津山城の本丸は逆「L」字形をしていて、備中櫓は南に張り出した石垣の上にあり、天守は本丸の南西部に位置しています。天守の東側には高さ4m程度の石垣で区画された部分があり、これにより西側を「天守曲輪」と呼んでいます。
本丸東側には、太鼓櫓(右現鐘撞き堂)と鼓櫓(左)
備中櫓は木造一部2階建てで、屋根は本瓦葺きの入母屋造り、外壁は軒まわりを含めて白漆喰塗りです。本丸御殿指図には備中櫓がその東に接続する長局・到来櫓とともに描かれていて、これらの建物が御殿の一部として認識されていたことを示しています。
内部は畳敷きの御殿様式で、当時は奥向御殿の更に奥という場所に位置し、なおかつ本丸御殿とも廊下で繋がり、城主と家族の生活の場として使用されていました。そのため通常の櫓では稀な全室畳敷、天井張りという構造で、絵図によると1階には「御座之間」、「御茶席」が、2階には「御上段乃間」等が設けられ、部屋を仕切る襖には森家の家紋をあしらった唐紙で復元し、全国的にも類例の余り見られない特別な空間が存在していました。
備中櫓に続く長局は現在藤棚ですが石垣に往時の姿が想像できます。またここからは市街が一望できます。
五番門から天守曲輪へ。五番門は、備中櫓の北側に位置し、天守曲輪への南側への入口となっています。この門は絵図では冠木門と記されていますが、発掘調査で高麗門あるいは薬医門であったと推測されます。備中櫓管理用の門として整備されました。五番門石垣の上に絵図や古写真から白漆喰仕上げ、瓦葺きの土塀を復元。塀の高さは概ね7尺(約2.1m)で「勘定奉行日記」より土塀の土壁を表側と裏側に別々に設けて中を空洞にし、そこに栗石を詰めた「太鼓塀」とよばれる構造で、金沢城の石川門表門が唯一の例です。塀の城内側には、控柱が設けられています。写真は天守台から見た備中櫓及び五番門
天守まで続く段々になった石垣が美しい姿を見せてくれる天守曲輪の天守台。往時には小倉城を模したともいわれる4層5階地下1階建ての天守閣がそびえていました。慶長20年(1615)に完成し、東西19.7m、南北21.7m、高さは22mとかなりの規模で石垣を含めた高さは27.9mに及びます。天守台の平面が正確な四角形で、上階が規則的に小さくなっていく「層塔型」と呼ばれるものです。この天守閣は、弓狭間・鉄砲狭間・石落とし等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾をもたない質実で実践的であったと伝わります。
天守台穴蔵の入口
この天守曲輪の北西部にあり、曲輪から石段を下りた一段低いところに西向きに開口する門が七番門です。七番門の外側(西側)は、腰曲輪を経由して二の丸へ通じていますが、この間には約3mの落差をもつ石垣になっていて容易には腰曲輪に降りることができない構造になっています。この落差を考えるヒントが『勘定奉行日記』の記事に「七番門外梯橋子」と記されており、七番門の外に「橋子」つまり、木の階段のようなものが取付られていたと推測されます。二の丸から天守曲輪に向かう最短ルートが、この七番門です。日常は階段を利用して通行が可能ですが、非常期には階段を外すことで、敵の侵入を防いでいたと考えられます。
本丸跡の北東隅の出入口として粟積櫓台(右)と月見櫓台(左)の間に十一番門があり、その横には前述の十二番門があります。
本丸の北東隅を囲むように存在した櫓が粟積櫓です。粟積山の木材を用いて造られた櫓であるため、この名前が付けられました。小天守ともいえる櫓は二階建てでした。
本丸から搦手方向に下り裏門を目指します。本丸から下る所には裏切手門があります。写真手前が裏切手門があった場所、礎石跡があります。東側(写真右)には、平行でない上下2段の石垣がありました。これは本丸御殿を少しでも広くとるために下段石垣を付け足し、上段石垣と下段石垣に挟まれた三角形のスペースは地下室のような形になっていました。梯子で下段石垣の上面に下りる構造になっていました。
裏切手跡から石段を下って左に曲がる角の裏鉄門へと進みます。裏鉄門は、本丸から搦手に到るための門で、裏切手門をくぐり、石段を下りて直角に曲がったところに西向きに位置する櫓門です。表鉄門と同様、門扉全体が鉄板で覆われていたことが名前の由来です。門の規模は幅約8m、奥行き約4mで、門扉の南側に番所を持つ構造でしたが、文化6年(1809)の本丸の火災で焼失しています。
写真右手の石垣が腰巻櫓台の石垣です。本丸の北西部、裏鉄門南側の石垣に建つ平櫓です。櫓台は東南隅が低く、それを鈎の手状に高い部分が取り巻いていました。廃城令後に撤去され明治23年(1890)には櫓台の石垣が崩落し積み直されたため、本来より低くなり、でっぱり部分もなくなりました。
裏鉄門跡を出て腰巻櫓台を巻き込むように左に進めば、十三番門跡が見えていて、手前の長い大石段を下りていくと小姓櫓台に突き当ります。突き当たって右に折れると裏中門です。
裏中門跡の大きな石垣群が見えます。裏中門は搦手の本丸から、二の丸に到る間にある大きな重要な門です。櫓門で石垣に囲まれた枡形構造になっています。左手が裏中門跡。
天に向かって聳えるような高石垣は圧巻です。振り返ると西洋のお城かと見まがうほどの石垣また石垣。右手に裏中門跡の礎石
下り進むと裏下門があり、ここもまた登城用の入口になっています。
裏門を出てすぐ、城郭の最北部に薬研堀があります。
更に西側に回り込むと厩堀がありこの2つの内堀が津山城の堀跡になっています。
裏門に戻って三の丸を回るように進むと桜の回廊になっています。切手門前、鶴山館手前の櫓前、そしてこの三の丸西側の桜が最も美しい桜スポットです。
鶴山城の北、徒歩15分ほどの距離に津山藩別邸庭園「衆楽園」があります。明暦3年(1657)津山藩二代藩主森長継が、小堀遠州流の作庭師を京都から招いて造営した近世池泉回遊式の大名庭園と言われています。当時の面積は23504坪と現在の3倍近い広大なもので、御殿が造られ城主の清遊の場となっていました。津山藩では防備のうえから城内に他藩の使者を入れず、ここで応対したので「御対面所」と呼ばれました。洗練された京風の作りは、京都仙洞御所の流れをくむといわれています。
門をくぐると小さな小川が迎えてくれ、小径をゆくと、急に広々とした南北に長い池が目の前に現れます。池には清涼軒のある中島、橋の向こうに蓬莱島、紅葉島と4つの島が浮かびます。北に中国山地を借景とし、東南に湖水の景観。このような眺めを余芳閣からとらえるようにし、中央や地方の要人を楽しませたといいます。迎賓館、余芳閣、清涼軒、風月軒の建物があり、京都の洗練された優美さが感じられます。
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