戦国時代の城にとって重要なのはその立地です。街道を押さえ、眺望がきく山を掌握することが争奪される城であり、使われ続ける城です。そして重要な場所の一つが「勢力の境目」や「国境」です。滋賀県米原市にある鎌刃城はそのおもしろさが十分に味わえる城です。戦国時代の近江は南北に分かれ、坂田郡南部地域(現米原市南部・彦根市北部)は、京極・浅井氏の北近江と六角氏の南近江との支配領域の境界線にあり、国境警備を目的とした山城が数多く構えられました。また米原市は岐阜県関ケ原町と隣接しており、美濃との国境にあたります。米原市番場も国境の村として背後に山城が構えられ、それが鎌刃城です。境目の城であり、坂田郡南部を支配する拠点的城郭を歩きます。
番場はふるくより東山道の要衝に位置し、鎌倉時代には御家人土肥氏の所領でしたが、戦国時代になると国人領主の堀氏が台頭し、土肥氏に代わって領主となり鎌刃城が築かれます。築城時期は不明ですが、『今井軍紀』によれば文明4年(1472)に京極氏の家臣・今井秀遠が堀次郎左衛門尉の籠る鎌刃城を攻めたとの記述があります。また天文7年(1538)には六角定頼が湖北に侵攻し落城、鎌刃城主堀石見は六角氏に属しています。度重なる城主入れ替えの中で再び浅井氏方に属していた鎌刃城主堀秀村は、元亀元年(1570)浅井長政が織田信長と対立すると、堀秀村は木下藤吉郎のの説得しよって織田方につきます。信長は戦時下の湖北支配を堀氏に任せ、一説には坂田郡で6万石を与えられ、鎌刃城は、戦国武将堀氏の居城として湖北支配の拠点となりました。
鎌刃城は、多賀町と米原市にまたがる霊仙山系から西側に突き出す標高384mの山頂に築かれた典型的な戦国時代の山城です。東西約400m、南北約400mと、近江では浅井氏の居城・小谷城に次ぐ広大な山城です。山麓には東山道が走り、江戸時代に朱場町となった風情ある番場の町並みが広がっています。鎌刃城の構造は主郭を中心とする曲輪群を中心に北西、西、南東の3方向の尾根に展開していて、尾根上に主郭、北郭、南郭、西郭跡があり、主郭の枡形虎口や北郭の大堀切などが遺っています。
旧中山道沿いの番場資料館で縄張図を確保したら、10分ほど歩いて名神高速道路下、彦根43番ガードからスタートします。さらに進むと鎌刃城の大手口跡があり、ここから本格的な登山となります。登城道の幅が細く、急崖が沿っているため軽登山の装備は必要です。
大手口からつづら折れの山道を25分程登って行くと分かれ道になり、右に行けば鎌刃城です。道中鎌刃城までの距離が丁で記された印があるのですが、ここまで来れば後残り半分ほどで鎌刃城の北郭に着きます。
山道を登り終えると最初に北西尾根先端付近に大堀切があります。深さは9m、堀幅は25mもあり鎌刃城で最大級の堀切で、鎌刃城の大手口、北側を守る為に築かれています。現在の大堀切は長い年月の間に斜面崩壊は進み、深さも浅く、傾斜も緩やかになっています。堀切はさらに尾根崎に連続し、主郭までの尾根上にはきっちりと削平された7つの郭が階段状に連なっています。
北西尾根に登る途中、大石垣を見ていきます。この大石垣は、鎌刃城の正面玄関にあたる虎口や多層構造の大櫓等の重要施設が集中する郭群の西側斜面に位置しています。城郭の各所に残される石垣の中でも相当の規模を持ち、高さは約4m、長さは約30mにも及び野面積みの形式で積まれています。隅角部は未発達ながら算木積みになっています。構築理由は判然としていませんが、一つには上方の郭群の斜面崩壊を防ぐために構築したと考えられます。
北Ⅴ郭の東側には石垣造りの桝形虎口が設けられています。こちらは大手門だったようで、約5m90cm(3間)四方の規模があります。その構造は「コ」の字状に三段の石垣を配し、内部に礎石建ちの四脚門が建っていました、四脚門は間口、2間奥行き1間半の規模を誇り、大型の礎石を利用していることから格式の高い薬医門であったと考えられます。しかしながら信長によって破壊された可能性が高く、埋められています。
その北端にある北Ⅵ郭に入ると大櫓跡があり、建っていた場所は窪みがあり、礎石が残されています。7間×7間の半地下式の大櫓が建っておたと考えられていて、山麓ににらみをきかせていました。現在は北Ⅵ郭の端に簡易的な展望台が建てられています。
展望台からは、伊吹山、琵琶湖、湖西の山並みのほか、浅井長政の居城である小谷城をはじめ、長政が信長に備えて改修し、小谷城攻めでは木下藤吉郎が城番となった横山城、信長が小谷城攻めの際に築いた虎御前山城まで見渡せます。鎌刃城が街道付近の要衝に築かれていることがわかります。
尾根筋を主郭に向かって上っていきます。北Ⅳ郭の西側にも簡易的な展望台が設置されていて、琵琶湖、彦根城、佐和山城を見ることができます。
主郭は、鎌刃城の中心部となる郭で、その周囲は石積みによって固められています。南側に二の副郭(南Ⅰ・南Ⅱ)を置き、南端の郭は高い土塁で囲まれ、南側の防御を固めています。南Ⅱから西方向と南東方向の尾根が派生しています。
主郭北側にも石垣造り枡形虎口が設けられています。薬医門の礎石が見つかり、前面に5段の石段、さらにその前面に幅1mほどの通路があり、その前面にも高さ4mもの石垣が積まれています。随分象徴的な門構えであったことから本丸の正面玄関であったと思われます。またその前面に石段の城道が検出されました。(現在は埋め立てています)
写真は主郭を取り巻く石垣で、加工していない石をほぼ垂直に積み上げた、戦国時代によくみられる石垣です。裏込石がほとんどなく、高さも1mくらいで最高4mほどしかありませんし、隅角部の算木積みも未発達です。主郭の前面10m程に渡って築かれています。
主郭の南側には遺跡調査から居住空間があったとみられ、堀氏が浅井長政に与した1559年から滅亡するまでの1574年まで機能していました。鎌刃城は在番を置く臨時的な軍事施設でなく、支配拠点として機能する堀氏の居城でした。
南東尾根は、北西尾根や西尾根のように郭が階段状に並ぶのではなく、痩せ尾根に八つの堀切をひたすら連続してさせています。この尾根は城域でもっとも標高が高く、徹底的に堀切で遮断していて、かなりの痩せ尾根を堀切で穿つのも命がけでと思えるほど険しい。このまるで刃を振り下ろしたかのように鋭く刻まれた堀切が鎌刃城の名の由来です。なお、この8本の堀切の最も外方の堀切の南崖下には青龍滝があり、その滝口には城内に水を引き入れた水手遺構も残されています。
南Ⅱ郭から西尾根を下り番場の町へ向かいます。西尾根にも7つの郭が階段状に並びます。中央付近に2本の堀切、西端にも2本の堀切があり、西端付近の南側斜面には近江では珍しい連続竪堀群が堀り込まれています。
西郭(畝状竪堀群)に行く為には、急斜面をロープを伝って降りなければいけません。かなり急斜面となっていて、落ち葉のあり、滑りやすいです。
西郭は山の斜面に造られた小さな」郭が8つありますが、平坦な場所は少なく、ほぼ斜面といっていいほどで、下っていきます。写真は西Ⅲ郭
急峻な「切岸」と郭が連続する南西尾根の西Ⅵ郭の南側に畝状竪堀群が築かれていて、西Ⅶ郭から標識もあり畝状竪堀群にアクセスすることができます。竪堀の深さは1~2mほどあり、連続して築くことで敵が斜面を横移動することを防ぐ効果があります。
林道を経由して下れば名神高速道路彦根42番ゲートに到着です。
天正2年(1574)堀秀村は突然改易されます。その原因は不明ですが、天正元年(1573)の浅井氏滅亡後の湖北支配が羽柴秀吉に与えらえたことで、堀氏と信長の間に軋轢が生じ、その直後に信長の粛清にあったようです。堀氏改易にともない鎌刃城も廃されています。