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大和と出雲。現在の東京と大阪にも匹敵するこの二るつの大都市の間にあって、津山盆地は、歴史の道として古くから栄えた土地でした。そうしてできた出雲街道は、後醍醐天皇から出雲の阿国まで、いろいろな歴史上の人物が悲喜こもごもの思いを込めて歩いたことでしょう。江戸時代に入って大きな城下町に生まれ変った津山。出雲路を往く旅人にとって雄大なお城は、遠くからでも旅程の目安となり、旅のなぎさめとなりました。街道沿いには、昔ながらの旅籠の佇まいが残り、昔ながらの町名には当時の賑わいを彷彿させます。そんな歴史ロマンただようレトロな津山ご城下をめぐります。

まずは衆楽園から鶴山通りを津山城に向かって南へ歩くと、岡山県立津山高等学校(旧岡山県立津山中学校)があります。明治33年(19009建設の本館は、屋根部分が寄棟造りで、桟瓦葺き。正面中央にある台形の塔屋にある時計台が印象的で、カーブを描く窓が異国情緒を醸し出しています。イタリア・ルネサンス様式を取り入れた外観は、当時のハイカラな雰囲気を今に伝えています。NHK朝の連続テレビ小説『あぐり』のロケ地です。

津山城から東を見下ろす宮川と城下町。城の南(写真右)には吉井川が流れ、旧出雲街道が東西に通る。宮川は、津山城の外堀として利用されていた河川で、南の吉井川に流れこみます。城の南を流れる吉井川の北岸に石堤を築いて流路を固定し、城下町となる敷地が確保されています。

美作地方は古くから畿内と出雲を結ぶ重要な地で、その中心となるのが津山です。城下は城の南側を東西に走る旧出雲街道の宿場町でもあります。町は津山城を境に城東城西に分れて城下町を形成しています。津山城を堪能した後は、町の散策にでかけます。旧出雲街道を東へ曲り、宮川を渡ると城東重要伝統的建物群保存地区に入ります。津山城下町の旧出雲街道沿いに発展した町並みで、道は鈎の手に折れながら続き、町人地として、江戸初期に形成された町割がよく残っています。江戸時代の町家を主体として昭和戦前期までに建築された主屋は、切妻、平入りを基本とした厨子2階建てとし、出格子窓、虫籠窓、なまこ壁・防火用の袖壁・卯建を使用した優れた意匠の伝統的建造物が建ち並び、城下町の形成された商家町の歴史的風致をよく伝えています。

津山城の東を流れる宮川に架かる宮川大橋の東詰に屈曲して南北に長く形成された町人町が橋本町でここから出雲街道は東西に延びていきます。町の名はこの橋に由来します。元和3年(1617)頃には、林田町や勝間田町とともに林田町と呼ばれていましたが、その後三町に別れて、それぞれの町が成立しました。

街道沿いに橋本町を抜け隣の林田町へ。河野美術館(旧河野医院)は大正時代の医院建築。

向かいには約250年前の江戸後期に建てられた旧苅田家住宅群が並びます。城東地区の中でも最大規模の町家で江戸時代の造り酒屋の建物群を完全に残しています。現在は一棟貸しの宿泊施設「城下小宿 糀や」としてリニューアルされています。旧苅田家住宅から約60m続く軒庇は、城東地区の町並みを象徴する建築様式です。

勝間田町にある作州城東屋敷は、江戸時代の町家を復元していて、隣接の火の見櫓は目を引きます。平成7年(1995)12月公開の映画『男はつらいよ 寅次郎紅の花』のロケ地で、映画の冒頭、寅さんが屋敷前にて露店を商うシーンが撮影されました。津山の町並みを模したジオラマ展示スペースや裏手には津山だんじりが展示されています。

城東の東「荒神曲り」とともに城の防御の為わざと街道が鈎に曲げられていて、当時のまま残っています。

新町には、幕末に活躍した津山藩医・洋学者箕作阮甫旧宅が当時の町家の雰囲気そのままで復元修理されています。隣接して城東観光案内所(和蘭堂)、城東むかし町家(旧梶村邸)は、江戸時代名字帯刀を許された津山藩の豪商の家柄で、大変格式のある家です。

和蘭堂の裏手には津山洋楽資料館が建っています。江戸時代後期から明治初期にかけて優れた洋学者を輩出した津山藩。西洋の内科医学を初めて翻訳・刊行した宇田川玄随や、幕末の対米露交渉で活躍した箕作阮甫などの資料を展示しています。「解体新書」の実物のほか、精巧な木製の骨格標本は目を見張るものがあります。建築や内装も素敵でウィリアムモリスの壁紙も異国情緒たっぷり。

最後に大隅神社を訪れます。元和6年(1620)森忠政が津山城の鬼門守護神として現在地に移転。本殿は貞享3年(1686)森長成が建立。神門は、明治の初め津山城内の修道館の校門として使用されていたものを移築したものです。

城西伝統的建造物群保存地区は、津山城下町の西部に形成された寺町及び商人町です。旧出雲街道を軸とした近世以来の地割りの姿をよく残しています。寺町には慶長期以降各時代、各宗派の寺院がよく残り、また街道沿いに近代の発展を示す伝統的な町屋が連続して残っています。寺町は城や城下町の防衛に役立っていたと思われます。

旧出雲街道沿いにあるあけぼの旅館は、現存する市内最古の旅館。明治初年頃の建物で数寄屋風書院造の特徴をよく表しています。

妙願寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で通称「鶴山御坊」といい慶長8年(1603)の森忠政の津山藩入封とともに元和3年(1617)に創建した寺です。もとは森氏旧城下の美濃金山に石山戦争の和睦に奔走し、本願寺の危機を救った妙向尼の発願で建立されたもので、妙向尼は森忠政の母であり織田家武将・森可成の室です。森忠政に従って住職である了向(森蘭丸の姉の子)も津山に移りました。備中櫓二階壁面の鶴の丸の文様は、妙願寺庫裡の襖にある鶴の文様です。

知新館は、第35代内閣総理大臣平沼麒一郎の生家を昭和13年(1938)に復元したものです。主屋は木造平屋桟瓦葺で、玄関・台所及び座敷から構成され、南北に丹羽を配しています。土蔵は木造2階建桟瓦葺、塀は土塀桟瓦葺、表門は腕木門桟瓦葺です。

津山城下町歴史館は江戸時代の武家屋敷だった旧田淵邸を活用し、県指定文化財の津山だんじり展示棟などの3棟からなる施設です。城下町建設からしばらくの間、旧出雲街道の北側は田町の武家屋敷で南側は徳守神社の境内と南新座の武家屋敷地でしたが、明暦元年(1655)街道の北側に面していた二軒の武家屋敷が町人地とされ、新しく宮脇町が設置されました。その後宝永3年(1706)には街道南側で神社地となっていた旧武家屋敷地を含む神社地が町人の借地とされ、街道の南北両側に町人町ができました。

街道の南側にある徳守神社は、天平5年(733)の創祀とされ、慶長9年(1604)森忠政が築城の際、現在地に移して津山城下の総鎮守としました。現在の社殿は2代藩主森長継が寛文4年(1664)の建立したものです。本殿は正面三間側面三間の中山造り(入母屋造り、妻入形式)で正面に唐破風の向拝をつけています。境内には赤穗四十七士の一人、元津山藩士の神崎与五郎則休の歌碑「海山は中にありとも神垣の隔てぬ影や秋の夜の月」がある。

鳥居は、正面入口、北門(写真)とともに「中山鳥居」と呼ばれる独特の構造すす。

城西浪漫館(中島病院旧本館)は大正6年(1917)完成。市内で最も古い病院建築物です。大正ロマン漂う上質で重厚な空間の館内にはカフェがあり、榕菴珈琲が飲めます。津山は珈琲発祥の地であり、津山榕菴珈琲は江戸時代の蘭学者・宇田川榕菴にちなんだコーヒーで、「珈琲」の漢字を彼が考案したことに由来します。この商品は、津山藩がオランダから初めて輸入したコーヒーと同種の豆をブレンドしており、津山のばんこく珈琲という直火焙煎コーヒー豆専門店で販売しています。

出雲街道の西の入口であった西今町と宮脇町の間を流れる蘭田川に架かる翁橋は大正15年(1926)の架橋。四隅の欄干親柱には、単純で直線的なデザインを特徴とする当時最新鋭のアールデコ様式が取り入れられていて、城西地区の町並みの中でも存在感のある市道橋です。道路には舗道煉瓦が敷き詰められていました。西今町は城下町建設当初は町場ではなく、寛文年間(1661~1673)城下町に編入されました。古名は「茅町」といい編入時に改名、東側を流れる蘭田川沿いの通りを蘭田町と呼び、街道の始点でした。

翁橋を渡ると寺町です。街道沿いにある作州民芸館(旧土居銀行津山支店)は、明治42年(1909)江川三郎八氏の設計により土居銀行として建築されたルネッサンス調のデザインの建物で現在は、津山まちの駅城西として運営されています。

作州民芸館の向かいの奥まったところにあるのが本源寺です。臨済宗妙心寺派の寺院で津山藩主森家の菩提寺です。本堂は、慶長12年(1607)に建立され、方丈形式で、屋根は入母屋造、桟瓦葺です。慶長期にさかのぼる方丈型の本堂を中心として、庫裡、中門や森家代々当主を祀る霊屋など、江戸前期までに整備された地方における大名家菩提寺として建てられた建築物が一体で残されています。

作州民芸館の裏手には寺院が並んでいます。成道寺は慶長9年(1604)津山藩主森忠政の建立した浄土宗の寺で、智山を開山とします。この山門は、普通の山門と異なり、堅固な扉と北側に番士部屋をもった厳重な構えになっています。二本の本柱と三本の控柱とで切妻屋根を支えた構造の薬医門です。元津山藩庁の門であったものを明治35年(1902)に寺が購入し、移築しました。

泰安寺は松平家の菩提寺であり、妙法寺・本源寺と並ぶ津山三箇寺のひとつとして諸寺の上位に置かれておます。寛永21年(1644)建立の本堂をはじめ、庫裡、客殿、御霊屋、不動堂、表門などの建造物があり、いずれも藩主が造営に直接かかわって建物です。境内の北側には七代藩主斉孝、南側には初代藩主宣富及び森長継第13子大吉墓があります。写真の本堂は建立から50年を経た寛政6年(1794)に改修しています。

客殿の建立時期は不詳ですが、本堂と同じく寛政6年か翌7年に改修されています。寛政7年7月に時宗の遊行上人(藤沢遊行寺第54代尊祐)が岡山藩に布教のため廻国した折、津山に立ち寄り泰安寺に止宿しています。藩主が参拝されるにふさわしい葵紋が施された大きな鬼瓦、玄関の破風構えなど堂々たつ建造物です。

御霊屋は、天保9年の第七代藩主・斉孝の死去により造営された天保14年(1843)に完成した建物です。建物内は二部屋に分かれており、徳川宗家八代まで(家康から吉宗)の位牌と津山藩越前松平家の祖・結城秀康と天崇院勝姫をはじめ、津山藩歴代藩主の位牌が祀られています。右端は第七代藩主・松平斉孝墓

津山駅前zには箕作阮甫の像が立ちます。西洋の学問を志した阮甫が文政6年、藩主に随行して初めて江戸へ旅立とうとする、立志の姿です。

津山のご当地グルメといえば「津山ホルモンうどん」。第6階B-1グランプリ姫路大会で第2位に輝いた津山ホルモンうどんは、西日本で抜群の知名度を誇るご当地グルメです。平成17年の国体、柔道会場になり、メダリストが数多く来るということでボリュームがあって抜群に旨いものでもてなそうとメニュー化したのがきっかけ。実は津山で50年以上前から鉄板焼きのホルモンに、別注したうどんを1玉か2玉入れて食べる鉄板焼きの締めとして親しまれて味です。数種類の牛のホルモンとうどんを甘辛いタレで焼き上げるもので味の決め手は生の牛ホルモンを使うこと。津山は江戸時代から牛肉を食べていた町で、洗い方や乾かし方などに地域ならではのノウハウがあるとのこと。プリプリの脂のついた小腸がめちゃくちゃ旨い。

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