琵琶湖で有名な近江国(滋賀県)は湖の国であると同時に城跡が全国屈指の1300ヶ所以上もある『城の国』です。なかでも琵琶湖周辺、とりわけ湖東には有名どころがズラリ並んでいます。理由は地理的要因で、琵琶湖があるのは日本のほぼ中心で、東西南北をつなぐ要の位置です。古代から中世において畿内を中心に全国にのびた幹線道路だった「七道」のうち、東海道(関東方面)・東山道(東北方面)・北陸道(北陸方面で北国街道ともいう)の3つの道の出発点となっていました。水運が活用された時代、琵琶湖は古代から人や物が行き交う非常に重要な交通の要衝なのです。
また近江の歴史を振り返ってみても戦国時代、近江では鎌倉時代の近江守護である御家人・佐々木道誉から分れた南近江の六角氏と北近江の京極氏の激しい勢力争いが巻き起こっています。紛争地帯ということは、軍事的防衛施設である城がたくさん築かれたということになります。南近江には六角氏の石垣の巨大山城・観音寺城、北近江には京極氏の本拠地、伊吹山の山腹・上平寺城や、支配領域の境界線を守った“境目の城”であり鎌刃城に佐和山城では何度も攻防戦が繰り広げられました。
やがて京極氏は家臣だった浅井氏が下克上で台頭し、巨大山城・小谷城を築き、ここから琵琶湖へ西の延長戦上に山本山城、横山城をはじめとした70城もの支城を築きます。姉川の戦い以降は、信長は近世城郭の安土城を築き、秀吉の時代には長浜城や八幡山城ほか近江で近世城郭が次々と誕生します。関ヶ原の戦い以降も徳川家康は、徳川四天王の一人・井伊直政をもって彦根城を築きました。
このように古代から交通の要衝であり、有力大名たちの紛争の舞台となり、天下統一のためにも掌握しておきた重要地点だった近江国・琵琶湖には歴史の数とともに城の数も増えていったのです。
日本五大山城のひとつともいわれる滋賀県長浜市にある小谷城は、北国街道と中山道を結ぶ北国脇往還(国道365)を見下ろす小谷山(標高495.1m)にあり、戦国時代に北近江を治めた戦国大名浅井氏が3代にわたって居城とし、信長との激しい攻防戦が行われた悲劇の山城です。2011年NHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国』ゆかりの地で浅井三姉妹の生誕の地でもあります。今では遠くから見ただけでは、単ある山の稜線にしか見えませんが、山城の遺構をよく伝えているだけでなく、激戦の跡が各所に残り、歴史性からいっても、物語性からいっても文句なしの長浜屈指の遺跡です。ハードなハイキングを要する山城もあるなか、登山ルートが整備されていて初心者にもおすすめという稀有な存在です。織田信長によって落城したという歴史ロマンあふれる山城を歩きます。
小谷城には山麓と中腹に駐車場が整備されていて登城ルートは、健脚の人は、山城の堅固さを体感するために山麓の小谷城戦国歴史資料館からの追手道入口または戦国ガイドステーションからの出丸入口を利用します。自信のない人は中腹の駐車場を利用します。
小谷城の築城は大永5年(1525)ごろで、北近江を治めた戦国大名浅井亮政が小谷山に築いた城です。小谷山一帯の尾根筋や谷筋といった自然の地形を利用した南北に長い山城で、尾根づたいに各郭が配置され、築城当時は現在の本丸跡より北に位置する大嶽城付近に本丸があったと考えられ、久政、長政によって代々拡張が重ねられ現在の城郭になりました。浅井家は元は北近江の守護大名である京極氏の被官で国人領主でしたが、京極騒乱に乗じて台頭し、実権を握り戦国大名の仲間入りを果たしました。立地は京都と北陸を結ぶ交通の要所で、「近江を制する者は天下を制す」といわれるほど戦略的価値があり、この近江の要衝を制した浅井亮政が自らの権力を示しつつ防衛拠点とするために築いたのが小谷城です。小谷城は写真右の南東側の尾根筋にあり、写真中央の小谷山山頂には大嶽城が構えられていて、写真左の南西側の尾根筋にも福寿丸や山崎丸などの砦がありました。
今回は山麓の清水谷の入口にある小谷城戦国歴史資料館に車を停めてます。ここでは、小谷城にまつわる貴重な資料や、浅井長政・お市の方・三姉妹に関する展示が充実していて、歴史をしっかり学んだ後、登山装備を整えていざ、戦国の舞台へスタートです。
資料館の近くに東側の尾根に向かう追手道入口から登山道に入り、まずは、中腹の駐車場すぐそばの番所跡を目指します。実際小谷城の正面ルートは、この「追手道」と呼ばれるルートがそうであったと言われています。追手道に入る手前の左側、清水谷の入口に位置する場所には、智善院という名の寺がありました。
歩き始めてすぐの左手に「磯野屋敷跡」と書かれた案内板が現れます。ここは姉川の合戦等で活躍し、境目の城として浅井氏の重要な戦略拠点であった佐和山城主を務めた磯野丹波守員昌の屋敷があったと伝えられています。追手道の入口に屋敷を与えられていた磯野氏は浅井氏にとって信任の厚い重臣であったと窺わせます。元亀2年(1571)2月織田軍の攻撃により佐和山城を開城するも浅井長政は謀反したとみなし、そのため浅井氏から離反し、信長の家臣となっています。
さらに進んでいくと、次第に登り坂が厳しくなり、車道に出た後出丸跡に立ち寄ります。主郭尾根の最先端にある曲輪です。独立した砦となっていて、上下二段の曲輪と土塁からなります。小谷城を守る最前線の砦で、城下を見下ろすように設けられています。
再び追手道の登山道に戻り登って行くとやがて間柄峠址と刻まれた石柱が現れます。大永5年(1525)7月、江南の六角高頼が小谷城へ来攻した際、浅井亮政を助けるため越前より朝倉氏の軍奉行朝倉太郎左衛門教景(宗滴金吾)と武将真柄備中守直隆が来援しました。越前軍が布陣した地がそれぞれ、金吾丸、真柄峠と称されますが、地元では古くから間柄峠として伝わっています。
さらに望笙峠という西方に琵琶湖を望める小じんまりとした広場にでます。小谷山の中腹にあるこの峠は、小谷城を東側から支える軍用・生活道路として機能し、戦国時代には軍事戦略や物資輸送の要となる欠かせないルートでした。遠くに琵琶湖に浮かぶ竹生島が望め、笙の字が「竹」かんむりに「生」と書いて「竹生」になることから竹生島を望める峠なので望笙峠かと納得です。
追手道を登り金吾丸を経て番所跡に到着です。金吾丸は大嶽城を真正面に見る南北に四段の曲輪と土塁からなる。土塁は低めで城郭構造にメリハリはなく、大永5年(1525)以降新たね修築はなされていません。金吾丸への登り道は二叉に分かれた厳しい坂道を右手に上っていくのですが、左手にそのまま進めばを金吾丸の西側を通り番所跡に到着します。
小谷城は、小谷山の稜線に沿って、出丸、金吾丸、御茶屋、御馬屋、大広間、本丸、中丸、京極丸、小丸、山王丸と、麓から山の複雑な地形を利用しながらいくつかの曲輪を配していますが、ここから尾根伝いに小谷城の城郭主要部の防御施設が設けられています。番所跡はかつて登城者の検問所があり、城郭主要部への入口でした。番所は平時は、城下からの登城者や客の出入を管理する場所であり、戦時には城門の防衛線の一端を担う重要な警備拠点となりました。登城道に面して南北に細長く石垣を組み、周辺には腰曲輪が点在します。遠方からは見えず、間道も皆ここに集まる要所に位置し、遺構としては、曲輪状の平坦地や石垣の痕跡が残る程度ですが、数段の削平地があり、ここに相当な兵が詰め、登城する人々を検分したり、警備に当たったりしていたのでしょう。
少し進むと虎御前山展望所があります。織田信長が小谷山の浅井長政を攻めた際、元亀3年(1572)最前線として陣を構えた場所です。古くは長尾山ともいわれる標高225.5mの虎御前山の尾根上には、信長をはじめ木下藤吉、柴田勝家、堀秀政、滝川一益、丹羽長秀などの陣地跡が並んでいます。中野山、八相山とも呼ばれますが、「虎御前」という名の由来は虎姫伝説にちなむとされています。

御茶屋は、番所跡のすぐ上にある曲輪で、主郭の最先端に位置します。比較的広く、曲輪の真ん中に前後に分ける低い土塁が見られます。「御茶屋」という風雅な名前に似つかない軍事施設ですが、西側のすみには庭があったと思われ、現在でも庭石が残っています。
御馬屋という曲輪は三方を高い土塁に囲まれています。本丸の前面にあり本丸を守るための曲輪です。名称通り馬小屋があったかは不明。石積みで囲われた馬洗池がありますが、湧水ではないが、飲料水を貯める池で、水は貴重なので馬を洗ったというのは伝承にすぎません。西隣には土塁で囲った馬屋があり北の柳の馬場に通じていて、馬関係の一角です。
ここから清水谷側の斜面に本丸跡後方まで帯曲輪が設けられています。
その先には、天文2年(1533)六角氏に内通したかどで初代亮政によって殺害された今井秀信の首を晒したといわれる首据石があります。
首据石付近で登山道を振り返ってみると横山城址・姉川古戦場展望所があり、遠くに伊吹山を見ることができます。姉川の戦いは元亀元年(1570)に約18000人の浅井・朝倉軍と約28000人の織田・徳川軍が姉川を挟んで軍を敷いた戦いです。徳川軍の横掛けで浅井・朝倉軍は小谷城へと敗走しまし、この姉川合戦から3年後小谷城は落城したのです。横山城は小谷城の西側を通る北国脇往還のすぐ脇に立地し、小谷城から6~7kmほどの距離しかない最前線基地でした。姉川の戦いの後すぐさま横山城を攻略し、時の城主三田村左衛門尉国定、野村直隆、大野木土佐守秀俊らが降伏し落城、秀吉を城番としています。
本丸に向かう追手道の途中、黒金門跡の手前を右側に折れる小道が、赤尾屋敷跡に通じるわずか100mの細い岨道です。黒金門から討って出た長政は織田軍の兵に攻められ本丸(鐘ヶ丸)に帰ることができず、武運に見放された浅井長政が最後の場所として選択したのが、家臣の屋敷では最も本丸に近い赤尾美作守清綱の屋敷でした。天正元年(1573)9月1日29歳の短い生涯を閉じたこの場所の「浅井長政公自刃之地」の石柱が建ちます。
馬小屋の上方、大広間の前にある曲輪が桜馬場で、細長く左右に段からなります。大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」のロケの中心地。虎御前山城と向き合う城内随一の大パノラマが広がっています。琵琶湖畔に長浜城が遠望できます。
小谷城址碑、浅井氏家臣供養塔があります。
ここまで見てきた遺構がすべて土造りだったのに対して、ゴツゴツとした石で築かれた石段が現れます。両袖に巨石群を構えた御門跡は黒金御門といい、いかめしさに圧倒されます。黒金門の先には浅井氏の居住空間であった大広間があり、その城門である黒金門を格式を高める石造りにすることにより、権威性を見せつけています。周囲には巨石が転がり、秀吉による破城の跡が往昔を物語っています。
黒金門を通って大広間へ。浅井長政の妻・お市や三姉妹が居住したとされ、「千畳敷」とも呼ばれ、南北85m・東西35mもの城内で最大の広さを持つ曲輪です。浅井長政が政務や儀式を行い、家臣たちと会議を開いたとされる重要な場所でした。
その奥には一段高く本丸が控えています。鐘の丸ともいい、南側の大広間と本丸の間に石積みが残り、この石垣の上に2段構造になった本丸があり、北側には大堀切が見られます。南面に石垣をめぐらした約12mの高所に南北約40m、東西約25mの広さをもつ落城するまで城主浅井長政が居住していたところです。天守など、城の中心となる建物があったと推定され、本丸に建立されていた天守が、後に移築されて彦根城西の丸の三重櫓になっているといいます。
曲輪としては本丸よりも大広間の方がかなり大きい。写真は本丸跡から見た大広間
本丸の脇を通り、大堀切へ。堀切とは、尾根を断ち切って尾根伝いに敵が移動できないようにした防御施設のことで、この本丸と中丸の間の大堀切は、ほかの城ではなかなか見ることのできないほど規模が大きい。深さ約6m、幅約20mのこの堀切を境に曲輪の構造に変化が見られます。大堀切より北の曲輪群の多くは虎口が中央に設けられていますが、それに対して本丸までの曲輪は敵がまっすぐ抜けられないように側面から入る動線になっています。
普通の城は本丸が一番の高所にあり、防御の最後の拠り所ですが、小谷城の本丸は最高所になく、さらに北側に大堀切を経て中丸、京極丸、小丸、山王丸と曲輪が連なっていきます。小丸には長政の父・久政が居住し、本丸の長政と小丸の久政とで大堀切に迷い込んだ敵を挟撃する防御体制を採っていたと思われるが、なぜ京極丸が間にあったのでしょうか。またこの大堀切は本丸と小丸方面とを分断していて、小谷城の弱点にもなりえたと考えられ、秀吉の小谷城攻めに際しての攻略法になったと考えられます。
中丸は、長政が守る本丸と父の久政が居る小丸の中間に位置する重要な拠点です。大堀切の北にある三段からなる曲輪には、石垣が見られるものの土塁は設けられず、虎口を左右に振り分けそれぞれ横矢を設けています。守将は浅井七郎井規・三田村左衛門尉国定でしたが寝返ります。最上段の刀洗池を抜けた先に京極丸が広がります。
京極丸は、小谷城の西側尾根上に築かれた防御拠点で、南西からの敵の侵入を防ぐ要所となっていました。南北4段の構造を持ち、小谷丈最大規模を誇る高さ3mごどの土塁がありました。発掘調査で、石垣や土塁、堀切などの防御設備の一部が確認されていて、京極丸が防衛ラインの一翼を担っていたと考えられています。小谷攻めの際、秀吉が水の手谷からここ京極丸虎口に攻め上がってきたといわれます。古図では、京極丸と水の手谷の間に大野木土佐守茂俊の屋敷(砦)がありました。越前忍道へ通じる大嶽城へ伸びる横掛道や清水谷にあった土佐守屋敷から上れる搦手道とも交差する要の場所を守備していましたが、秀吉が調略し寝返りました。須賀谷側(東側)に造られた高さ3mほどの土塁は小谷城最大の規模を誇ります。
京極丸という名称は、浅井家の元の主筋にあたることから、形式上京極氏を敬う姿勢を保ち、本丸よりも上位の曲輪に迎え入れていました。しかしながら傀儡であったため近江を離れます。後の浅井三姉妹の次女・初(従兄弟)を妻とした京極高次はここ京極丸で父京極高吉・母浅井マリア(浅井久政の娘)の長男として永禄6年(1563)に生まれました。(1570)には父高吉の人質として織田信長の元に人質として送られています。
小谷城は、小谷山の稜線に沿って、出丸、金吾丸、本丸、中丸、京極丸、小丸、山王丸と、麓から登山道を正攻法で攻め上がってくる敵を想定した防御構造となっていて、山の複雑な地形を利用しながらいくつかの曲輪を配し、その曲輪に籠って寄せる敵を迎え撃つ戦略です。攻撃側は蛇行する細く険しい登山道をたどりながら、一つずつ曲輪を撃破していかなければならず、どんな大軍であっても登山道は道幅が狭いので細く長い隊列にならざるをえない。そのため間延びした戦線を左右から攻撃すれば、少ない勢力でも効果的に守備ができるという、まさしく難攻不落と称される所以でした。
しかし秀吉は約3000人の部隊を率いて、長く標高差のある浅井の防御線の真ん中に位置する京極丸を西側の清水谷方面から登山道を経由しない急峻な水の手谷といわれる断崖をよじ登り、横から衝いたのす。これによって小丸にいる久政と本丸にいる長政を分断し、麓から正攻法で攻上がる信長本隊とに本丸の長政は挟み撃ちにあってしまったのです。
京極丸の一段高い位置に小丸があり、長政の父、浅井久政が引退した後に居住していましたが、敗戦を悟った久政がここで鶴松太夫の介錯により49歳で自害しています。
さらにその上が標高400mの山王丸となります。小谷城の詰めの丸で、南側に馬出を配し、鎌刃城と同形態の石垣で固められた虎口を二重に備えています。南側の小口は破城の痕跡が現在も明瞭に残り、石垣が散乱して登山の障害となっています。中央の曲輪には山王権現が祀られていましたが、現在小谷神社と名称が変わり、小谷寺の一角に祀られています。南側正面の石垣の石は小谷城で最大の大木さを誇り、東側斜面に残る大石垣がその名残です。
山王丸へ上る手前の石垣の石が散乱している所から東へ回り込むと目の前に現れるのが大石垣です。山王丸の東側に残る高さ5m余り、長さ約20mの石垣です。山王丸には巨大な切岸が立ちはだかり、その前面にゴロゴロと巨石が転がっています。かつては数メートルの石垣が築かれていたのです。城内で意図的に巨石が使われているのは、黒金門とこの山王丸で、黒金門が浅井一家が住んでいた大広間の格式を高めていたように、山王丸の石垣も権威付けであったと考えると小谷城の本丸はこの最高所の山王丸だったと考えられます。
ここまで小谷城の主要な曲輪を尾根伝いに見てきましたが、山王丸からさらに北側に進むと、月所丸や六坊といった遺構もあります。また、小谷城から見て北西に聳える大嶽(おおずく)には、浅井亮政が大永3年(1523)に最初に築いた大嶽城が残り、さらなる山登りが強いられます。大嶽城は、朝倉軍が援軍に駆け付けた場所で、ここで打ち負かされ一乗谷へと攻め込まれました。六坊は浅井久政が、軍務や政務を司る六つの寺院が近江北部に散らばっているのは不便と感じ、この場所に集めたと云われます。
今回は六坊から浅井氏や重臣たちの居館が配置された清水谷道と呼ばれる谷筋を下り、御屋敷、家臣団屋敷跡を見ながら谷の開口部にある小谷城戦国歴史資料館に戻ります。
六坊からの清水谷の約1kmの清水谷道の途中には上方から大野木土佐守の屋敷跡が、谷道沿いの西側に位置し、西側及び谷側に石垣を二段に設けています。次いで、三田村佐渡守屋敷が同じく谷沿いの西側に位置し、谷側に石垣を設けています。さらに下ると秀吉が攻略した水の手口があります。
水の手口を過ぎたあたりから谷筋の道は平坦になります。御屋敷跡は、浅井亮政・久政・長政やお市の方とその子供たちが暮らした所と考えられています。天文3年(1534)初代城主亮政が主家の京極高清・高広親子を招いて饗応した時の記録には清水谷にあった館の様子が描かれています。敵の侵入を防ぐために高さ1.3m、幅約3.5m、長さ13mの土塁が東西にのびています。
虎ヶ谷道の西に位置するのが浅井氏の一族、浅井山城守の屋敷跡です。虎ヶ谷道は清水道から番所跡に通じる道で、両側には曲輪が多く配置されていることから他の谷に比べて防御を強くしています。このことから虎ヶ谷道は、小谷城の最も重要な道であった大手道と考えられています。※現在通行不可
浅井家の側近・木村日向守の屋敷跡が続き、最も清水谷の開口部の近くにあるのが遠藤喜右衛門尉直経の屋敷跡です。姉川の合戦では、味方の武将三田村氏の首を持って織田の武将を装い単身敵陣深く乗り込むも、竹中半兵衛重治の弟竹中久作に討ち取られます。
小谷城戦国歴史資料館に到着し、ここで御城印を購入します。
