
本州のほぼ中央に位置し、東西に長い静岡県。かつての伊豆国、駿河国、遠江国の3ヵ国にまたがっていて、さまざまな歴史の舞台となってきました。全国の大名がしのぎを削る下克上の時代に生まれた徳川家康。生誕地である三河(岡崎)、人質ながらも英才教育を受けた駿府(静岡)、武田信玄の侵攻に備えて城を築いた遠江(浜松)。そして天下人となって平和の世を実現した後に戻り、終焉の地となった駿府。家康公のお墓のある久能山東照宮からスタートして家康公の人生を遡る静岡・浜松ゆかりの地を巡る“どうする家康”旅に出ます。
「徳川家康が眠る聖地・静岡。久能山東照宮で家康の思想に触れる旅」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/18438
駿河湾に面した温暖な気候で知られ、江戸時代までは「駿府」という地名で呼ばれていた静岡。駿河国の国府が置かれたことが地名の由来です。家康が生涯愛した地・駿府は、8歳から19歳までの約12年を今川家の人質として、そして五ヵ国を治める戦国大名として約5年、さらに天下統一後、隠居して大御所となって幕府の実権を握った66歳からの約10年と、75歳の生涯のおよそ1/3の3度計25年をここ駿府で過ごしました。市街地の中心に位置する現在駿府城があった場所は、駿府城公園として整備されています。写真は巽櫓と東御門
東御門橋を渡り東御門から城内に入ります。東御門は駿府城に二の丸の東に位置する主要な出入口でした。東御門の前が安藤帯刀直次(紀州藩附家老)の屋敷があったことから「帯刀前御門」、また台所奉行であった松下淨慶にちなんで「淨慶御門」と呼ばれ主に重臣たちの出入口として利用されました。
この門は二の丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南および西の多聞櫓で構成される枡形虎口です。要所に石落とし、鉄砲狭間、矢狭間をもつ堅固な守りの実践的な門で、戦国時代の面影を残しています。慶長年間に築かれた東御門は寛永12年(1635)に天守、本丸御殿、巽櫓などとともに焼失し、寛永15年(1638)に再建されました。現在の建物は寛永年間再建時の姿を目指し平成8年(1996)に復元されています。
巽櫓は駿府城二ノ丸の東南角にもうけられた二重三階の隅櫓で、十二支であらわした巽(辰巳)の方角に位置することから「巽櫓」と呼ばれました。駿府城には二ノ丸西南の角に「坤(未申)櫓」もありました。櫓は戦闘時には戦闘の拠点となり、望楼、敵への攻撃、武器の保管などの役目をもっていました。焼失後、寛永15年(1638)に再建された巽櫓は幕末の安政地震によって全壊してしまったと考えられ、現在の建物は、平成元年(1989)に復元され、全国の城の櫓建築でも例の少ないL字型の平面を持っています。
内部は資料館となっていてゾーン1~7まであり、駿府城の歴史や構造を時代別に学ぶことができます。特に駿府城復元模型は、断片的残る遺構から全容を想像することができます。また所々に人型のパネルが置かれ、戦闘時の様子もうかがえます。
竹千代手習いの間(原寸復元)は家康公(幼名竹千代)の勉強部屋です。天文18年(1549)から12年間、8才から19才の時に今川義元の人質として駿府で生活していました。家康は人質の間、臨済時のこの部屋で今川家軍師の臨済寺住職太原雪斎和尚から学問を学んだと伝えられています。
雪斎は駿河の豪族・庵原氏の一族に生まれ、14歳のときに出家して富士の善得寺に入寺。その後京都五山第三位の名刹建仁寺で修行を積みました。当時から雪斎の秀才ぶりは広く知られ、今川氏親が芳菊丸(義元の幼名)の教育係として駿府に招いたと言われます。写真の天井の龍の絵は狩野派絵師の作と伝わります。
駿府城の曲輪は同心円状に配置された「輪郭式」です。本丸を本丸堀(内堀)が囲み、その外側に二ノ丸、二ノ丸堀(中堀)、三ノ丸、三ノ丸堀(外堀)が順番にめぐります。巽櫓の前に公開されている本丸堀も南東隅の一部だけ公開されているので、ぱっと見はただの池のようにしか見えませんが、駿府城の三重堀の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいました。幅約23m~30mで深さは江戸時代には約5mありました。石垣は荒割した石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方です。角の部分は「算木積み」という積み方で横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしています。この内側が本丸の範囲と思えばかなり広いことも察しがつきます。
本丸堀と二ノ丸堀をつなぐ二ノ丸水路もよくできた水路です。珍しい石敷きの水路が構築され、本丸堀の水位調整をしていました。この水路は巴川と合流して清水までつながっているので、清水港に集まる荷物を米蔵などに運び込んでいました。
江戸時代には、方位に十二支を用いて北を「子」として時計周りに割り当てていました。二ノ丸坤櫓は城の中心から見て南西の方角にあるためそのように呼ばれていました。富士山が美しく見通せる角度にあり、家康のお気に入りの場所だったようです。櫓は矢倉とも書かれ、武器庫や戦の際の物見の役割を持つ重要な建物でした。そのため、城の四隅や御門周辺に設けられています。坤櫓も安政地震(1854年)後も再建されず平成26年(2014)に日本の伝統的な木造工法によって復元されました。
復元は宝暦年間(1751~1763)の修復記録が記された「駿府御城内外覚書」を基に行い、不足している情報は、同じ徳川家の城んである名古屋城の西南隅櫓など現存する建築物を参考にしています。内部は各階の床板と天井板を取り外していて、櫓の構造を見通すことができます。
櫓内では厭離穢土欣求浄土の旗差しと桶狭間の戦いの頃着用したと伝承される金陀美具足とともに家康愛用のシダの前立兜を着用しての記念撮影ができます。
駿府城の歴史における時代区分は大きく3つあります。ひとつ目は天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、家康は織田信長から駿河を与えられ、本能寺の変を経て5ヵ国(駿河、遠江、三河、甲斐、信濃)を領有する大大名となる。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いを機に羽柴秀吉に臣従。天正14年(1586)に駿府へ拠点を移し、駿府城を築城します。駿府は安部川、大井川が流れ、背後には富士山や箱根山がそびえる「国堅固」の守りやすい地形でした。
次は天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの功績から、家康は北条氏の旧領でる関八州(武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総、下野の一部、常陸の一部)に移封され、喉元を押さえるという意図があるかのように、旧領には秀吉配下の大名が配され、駿府城に14万石で中村一氏が入封し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直後まで約10年間、駿府城に在城しました。
そして最後が慶長10年(1605)将軍職を秀忠に譲ると大御所となった家康は駿府城に戻り、慶長12年(1607)から駿府城を大改修。元和2年(1616)75歳で亡くなるまで大御所政治を行い在城しました。つまり駿府城の築城は天正期の家康の築城と慶長期の家康による大改修の大きく2回といえます。写真は鷹狩に興ずる駿府城本丸跡に立つ高さ6.5mの巨大な徳川家康公之像
移住した理由は幼い頃から慣れ親しんだ土地であることに加え、駿府は東海道沿いに位置しているため江戸へ行き来する大名も立ち寄りやすく、当時まだ大坂にあった豊臣家を牽制する狙いもありました。家康の移住に際して駿府城と城下町は大規模に造成され、城には当時日本最大級の天守が聳え立っていましたが、寛永12年(1635)の火事により焼失し、残った天守台も明治以降、この地に陸軍の兵営が置かれるに先立って崩され、掘は埋め立てられました。この大御所時代の天守台が近年発掘され、調査の結果、日本一大きな天守台だったことが判明しました。
園内を横断し、お目当ての天守台へむかいます。家康は天正期と慶長期の2回、駿府城を築城しています。発掘調査によって両時代の石垣が発見されており、一般公開されています。慶長期の天守台の規模は、東西約61m、南北約68m。それまで日本一とされていた江戸城の天守台(東西約41m、南北約45m)を凌駕する大きさでした。写真は打込接という方式の慶長期天守台石垣
さらに新たに天守台と大量の金箔瓦が見つかりました。慶長期の天守台の南東角の下から重なるようにして東西約33m南北約37mの天正期の天守台が発見さました。新たに見つかった天守台の石垣を見ると、石材の種類や大きさ、積み方が明らかに慶長期天守台とは異なります。ある程度成形された石材を用いている慶長期天守台の石垣に対して、あまり加工していない大小さまざまな大きさの石材を積み上げた野面積みの石垣です。決定的に違うのは隅角部の算木積みの完成度で、新たに発見された天守台は算木積みが未発達です。
天正期の天守とはどのようなものだったのかは、石垣の構築技術や出土した大量の金箔瓦から、金箔瓦を使った総石垣の城は豊臣政権下の城であることが伺えます。つまり駿府城は家康の意思により単独で築かれたのではなく、秀吉が家康に命じて築かせた城であろうと考えられます。天正期の天守台があるにもかかわらず、大御所になった後、わざわざ秀吉時代の天守台を潰して新しいを天守台を建てることで天下人が代わったことを世にしめしたのでしょう。
本丸には政庁と居館を兼ねた本丸御殿があり、紅葉山庭園のある場所には二ノ丸御殿と台所がありました。二ノ丸から三ノ丸へは東御門を含めて五つの門(北御門、御水門、清水御門、二ノ丸御門)が設けられていました。写真は北御門
二ノ丸堀を渡り北御門を入ると石垣により枡形風の空間を通り。二ノ丸内部へと至ります。二ノ丸へ入るとすぐ西側には石垣造りの食い違い土手構による馬場先御門があり、その先には馬場がありました。
静岡の豊かな食文化は、家康との深い関わりによって培われたともいえます。漢方に精通していた大御所時代の家康が好んで食したと伝わるのが“とろろ汁×麦飯=とろろめし”です。『歌川広重の東海道五十三次』に描かれ、松尾芭蕉の俳句や十返舎一九の『東海道膝栗毛』にも登場する丸子宿の「元祖 丁子屋」の創業は、家康が生きていた慶長元年(1596)。
名物のとろろ汁は、約400年前から変わらない素朴で自然な味。静岡産の自然薯に、自家製の味噌、焼津産削り節で作った味噌汁、新鮮な卵を合わせた逸品。麦飯にかけて食べれば、身体に滋養が満ちてくる心地がします。家康はより精がつくよう、蓮根と自然薯をすって食していたとのこと。江戸時代の旅人も数ある東海道名物の中に「丸子のとろろ汁」をあげています。だからこそ丁子屋一番の定番メニューは「丸子」1760円で決まりです。丁子屋流のとろろ汁の食べ方は、茶碗に盛った麦飯にたっぷりとかけ、薬味をのせて食べます。とろろ汁と麦飯に空気を含ませるように混ぜるのがコツで、ザーザーと音を立てて流し込むのが丁子屋流とのこと。
滋養をつけて諏訪原城を目指します。