
本州のほぼ中央に位置し、東西に長い静岡県。かつての伊豆国、駿河国、遠江国の3ヵ国にまたがっていて、さまざまな歴史の舞台となってきました。全国の大名がしのぎを削る下克上の時代に生まれた徳川家康。生誕地である三河(岡崎)、人質ながらも英才教育を受けた駿府(静岡)、武田信玄の侵攻に備えて城を築いた遠江(浜松)。そして天下人となって平和の世を実現した後に戻り、終焉の地となった駿府。家康公のお墓のある久能山東照宮からスタートして家康公の人生を遡る静岡・浜松ゆかりの地を巡る“どうする家康”旅に出ます。
元和2年(1616)4月17日、徳川家康は隠居城である駿府城で75歳の生涯を閉じました。家康の遺体はその日の夜に駿府城の東に位置する久能山に移されました。同月19日には吉田神道を率いる神道界の実力者である神龍院梵舜の手によって、家康は「神」として久能山に設けられた「御廟」に葬られました。亡くなる半年前、家康は長年ブレーンとして仕えた京都南禅寺金地院の僧侶・以心崇伝、日光山を拠点とする天台宗の僧侶・南光坊天海、そして晩年の家康の側近として重きをなした本多正純を呼び寄せて遺言を伝えました。
「自分が死んだら遺体は久能山の納め、葬礼は徳川家の江戸における菩提寺である増上寺で行うこと。位牌は先祖松平氏の菩提寺である三河岡崎の大樹寺に建て、一周忌が過ぎたら日光の山内に小さな堂を建てて、自分を神として祀ること・・・」家康は死後もなお江戸幕府と、ひいてはこの国の守護神となることを願いました。
標高216m久能山は眼下に駿河湾を見下ろし、東に伊豆半島を西は遥かに御前崎を一望できる雄大な景色が広がっています。久能山の歴史は推古天皇の御代(7世紀頃)秦氏の久能忠仁が初めて山を開き一寺を建て、観音菩薩の像を安置し「補陀落山久能寺」と称したことに始まります。平安時代末期から鎌倉初期にかけて興隆を誇り大寺院となりましたが鎌倉時代中期の嘉禄年間(1225~1227)山麓の失火によって類焼し昔の面影がなくなりました。永禄11年(1568)駿河に侵攻した武田信玄はこの地が要害であることを聞き、、久能寺をを近くの北矢部(現鉄舟寺)に移し、山上に城砦を設け久能城と称しました。天正10年(1582)武田氏が亡びて駿河国一帯が徳川氏の領有するところとなり、久能山も徳川氏のもとなりました。慶長11年(1606)榊原清政が城主となり、次いで其の子照久があとを継ぎました。家康は久能山が要害の地であることに早くから着目し、薨去の際、榊原照久に「久能山は駿府城の本丸と常に思召す」と言われたと伝わります。
久能山はいちごで有名で、明治29年、久能山東照宮の松平健雄宮司より託された苺苗を玉石の間に植え、石の輻射熱で栽培し、甘く香りのある実をつけることを実証したのが始まりです。駿河湾に面した国道150号の久能海岸沿いは別名「久能いちご海岸ストリート」と呼ばれ、道の脇から久能山の麓まで海に向いた南斜面に石垣イチゴのビニールハウスが建ち並びます。日当たりのよい斜面で育ったイチゴは大粒で色も濃く、味がしっかりしているとのこと。久能山下に車を駐車し、家康公を祀る全国100社以上の東照宮の創祀といわれる久能山東照宮を目指して表参道を登ります。
麓の石鳥居から始まる石段は、本殿前まで17曲がり1159段あり、その数字にかけて「いちいちご苦労さん」と愛称されているとのこと。見上げても目に入るのはジグザグにつけられた急な石段だけで、石段の段差が一定でないのでなかなか手強い。山の斜面には石垣が積まれかつて要塞であったことが窺えます。
909段上ったところにある「一の門」は城門のような堅牢な造り。実際久能山は東照宮が建てられる以前は武田信玄が築いた「久能山城」という山城で、伊豆の北条氏の動きを監視するためにあったといい、久能山城大手門跡にあるのが東照宮一の門で、元は櫓門だったといいます。一の門から見える建物は門衛所で警護を担当した与力の詰所になります。
一の門からの眺望は、駿河湾が視界いっぱいに広がり、ここで深呼吸して清々しい潮風を体いっぱいに吸い込んでみます。
一の門を過ぎると、右手に久能山東照宮伝世の宝物や家康の日常品が収蔵された博物館が見えてきます。その先の久能山社務所で拝観料500円を払い先に進みます。先に見えるのが楼門で楼門前の石段が1159段の中で一番きつい石段です。楼門の2階部分には二代秀忠の娘を中宮として迎えた後水尾天皇が自ら命名し書かれた「東照大権現」の扁額が掲げられ、勅額御門とも言われています。
江戸幕府大工棟梁の中井大和守正清の代表的遺構のひとつとされる御社殿は、拝殿と本殿、その二つつなぐ石の間で構成された元和3年(1617)建立の「権現造」と呼ばれる建築様式です。拝殿がこの世、本殿があの世、その間の石の間が三途の川を表していると言われていて、このような造りを家康公の権現様から権現造と呼ばれています。全国各地の東照宮の社殿に用いられていますが、この久能山東照宮のものが最古のもであるとされ、国宝に指定されています。国宝社殿は、総漆塗りの極彩色で飾られ、美しい彫刻や金飾りが施され、組物など細部に至るまでため息がでるほどに豪華絢爛。神君として崇められた家康の威光を今なお伝えています。本殿にはあまり知られていませんが、家康の隣には豊臣秀吉と織田信長も祀られています。
特に注目なのは拝殿正面の蟇股部「司馬温公の甕割り」の彫刻です。中国北宋の温公(司馬光)が子供の頃父が大切にしていた甕を割って、甕の中で溺れている友人を救ったという故事を表したもので「人の命をなによりも重んじよ」という家康のメッセージが込められているといいます。また拝殿の屋根の垂木には、葵の御紋が1つだけ逆さまになっているので探してみるのも楽しいものです。これは「逆さ葵」といい、完璧に作ってしまうと、あとは壊れていくだけであることからあえて完成させないこととで建物を崩壊から守る魔除けの役割があるとされています。
拝殿に手を合わせ、石畳の参道を歩いて、社殿の背後約50mの所にある家康の墓「神廟」へ。参道には諸侯奉納の石灯籠が並んでいます。元和2年(1616)家康の亡骸が遺命により生誕地である岡崎や豊臣家の拠点であった大阪を望む西向きに久能山に葬られました。その亡骸を容れたのが石厨子で高さ5.5m、外廻り8mあり、厨子を囲む門の内側には入ることができません。社殿が並ぶ華やかなエリアとは一線を画したモノトーンの空間には神聖な雰囲気が漂い、凛とした空気に思わず身が引き締まります。家康公は一周忌を過ぎて御霊を移せと言っただけで遺体を日光に移せとは言っていません。また家康公が亡くなった当時は、豊臣方の大名も数多く残っていたことからも、遺骸を久能山から日光へ改葬されたのではなく、日光へは神霊を遷す勧請であったともいわれていて、今も座ったまま西の方角に向けて埋葬さてていると言われています。現在の神廟は3代将軍家光によって巨大な石塔が立つ。
東照宮を巡る聖なる三本のラインというものがあります。一本目のラインが、楼門から本殿までは一直線。その直線を延ばすと富士山の山頂、さらに延長上に群馬県の世良田東照宮(徳川氏祖先の地)を経由して日光東照宮にたどり着きます。また二本目のラインは、御神廟から直線を延ばすと真西に駿府城、さらに延長すると鳳来寺山東照宮(松平広忠公夫妻が鳳来寺に祈願して家康公が出生)、更に延長上の岡崎城(家康公生誕の地)を経由して京のお都に睨みを効かせています。そして三本目のラインが日光東照宮の真南には江戸城、南面に建つ陽明門の真上には不動の北極星が輝き、星々はこれを巡ります。江戸城、日光東照宮、北極星を結ぶ南北線を中心に、この世の全ては運行するのです。このご神廟には、御社殿の華やかさとは対照的に、荘厳な空気が流れ、静かなる力を感じる場所です。
駿河湾に面した温暖な気候で知られ、江戸時代までは「駿府」という地名で呼ばれていた静岡。駿河国の国府が置かれたことが地名の由来です。家康が生涯愛した地・駿府は、8歳から19歳までの約12年を今川家の人質として、そして五ヵ国を治める戦国大名として約5年、さらに天下統一後、隠居して大御所となって幕府の実権を握った66歳からの約10年と、75歳の生涯のおよそ1/3の3度計25年をここ駿府で過ごしました。まずは市街地の中心に位置する現在駿府城があった場所は、駿府城公園として整備されています。写真は巽櫓と東御門
東御門橋を渡り東御門から城内に入ります。東御門は駿府城に二の丸の東に位置する主要な出入口でした。東御門の前が安藤帯刀直次(紀州藩附家老)の屋敷があったことから「帯刀前御門」、また台所奉行であった松下淨慶にちなんで「淨慶御門」と呼ばれ主に重臣たちの出入口として利用されました。
この門は二の丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南および西の多聞櫓で構成される枡形虎口です。要所に石落とし、鉄砲狭間、矢狭間をもつ堅固な守りの実践的な門で、戦国時代の面影を残しています。慶長年間に築かれた東御門は寛永12年(1635)に天守、本丸御殿、巽櫓などとともに焼失し、寛永15年(1638)に再建されました。現在の建物は寛永年間再建時の姿を目指し平成8年(1996)に復元されています。
巽櫓は駿府城二ノ丸の東南角にもうけられた二重三階の隅櫓で、十二支であらわした巽(辰巳)の方角に位置することから「巽櫓」と呼ばれました。駿府城には二ノ丸西南の角に「坤(未申)櫓」もありました。櫓は戦闘時には戦闘の拠点となり、望楼、敵への攻撃、武器の保管などの役目をもっていました。焼失後、寛永15年(1638)に再建された巽櫓は幕末の安政地震によって全壊してしまったと考えられ、現在の建物は、平成元年(1989)に復元され、全国の城の櫓建築でも例の少ないL字型の平面を持っています。
内部は資料館となっていてゾーン1~7まであり、駿府城の歴史や構造を時代別に学ぶことができます。特に駿府城復元模型は、断片的残る遺構から全容を想像することができます。また所々に人型のパネルが置かれ、戦闘時の様子もうかがえます。
竹千代手習いの間(原寸復元)は家康公(幼名竹千代)の勉強部屋です。天文18年(1549)から12年間、8才から19才の時に今川義元の人質として駿府で生活していました。家康は人質の間、臨済時のこの部屋で今川家軍師の臨済寺住職太原雪斎和尚から学問を学んだと伝えられています。
雪斎は駿河の豪族・庵原氏の一族に生まれ、14歳のときに出家して富士の善得寺に入寺。その後京都五山第三位の名刹建仁寺で修行を積みました。当時から雪斎の秀才ぶりは広く知られ、今川氏親が芳菊丸(義元の幼名)の教育係として駿府に招いたと言われます。写真の天井の龍の絵は狩野派絵師の作と伝わります。
駿府城の曲輪は同心円状に配置された「輪郭式」です。本丸を本丸堀(内堀)が囲み、その外側に二ノ丸、二ノ丸堀(中堀)、三ノ丸、三ノ丸堀(外堀)が順番にめぐります。巽櫓の前に公開されている本丸堀も南東隅の一部だけ公開されているので、ぱっと見はただの池のようにしか見えませんが、駿府城の三重堀の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいました。幅約23m~30mで深さは江戸時代には約5mありました。石垣は荒割した石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方です。角の部分は「算木積み」という積み方で横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしています。この内側が本丸の範囲と思えばかなり広いことも察しがつきます。
本丸堀と二ノ丸堀をつなぐ二ノ丸水路もよくできた水路です。珍しい石敷きの水路が構築され、本丸堀の水位調整をしていました。この水路は巴川と合流して清水までつながっているので、清水港に集まる荷物を米蔵などに運び込んでいました。
江戸時代には、方位に十二支を用いて北を「子」として時計周りに割り当てていました。二ノ丸坤櫓は城の中心から見て南西の方角にあるためそのように呼ばれていました。富士山が美しく見通せる角度にあり、家康のお気に入りの場所だったようです。櫓は矢倉とも書かれ、武器庫や戦の際の物見の役割を持つ重要な建物でした。そのため、城の四隅や御門周辺に設けられています。坤櫓も安政地震(1854年)後も再建されず平成26年(2014)に日本の伝統的な木造工法によって復元されました。
復元は宝暦年間(1751~1763)の修復記録が記された「駿府御城内外覚書」を基に行い、不足している情報は、同じ徳川家の城んである名古屋城の西南隅櫓など現存する建築物を参考にしています。内部は各階の床板と天井板を取り外していて、櫓の構造を見通すことができます。
櫓内では厭離穢土欣求浄土の旗差しと桶狭間の戦いの頃着用したと伝承される金陀美具足とともに記念撮影ができます。
駿府城の歴史における時代区分は大きく3つあります。ひとつ目は天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、家康は織田信長から駿河を与えられ、本能寺の変を経て5ヵ国(駿河、遠江、三河、甲斐、信濃)を領有する大大名となる。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いを機に羽柴秀吉に臣従。天正14年(1586)に駿府へ拠点を移し、駿府城を築城します。
次は天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの功績から、家康は北条氏の旧領でる関八州(武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総、下野の一部、常陸の一部)に移封され、喉元を押さえるという意図があるかのように、旧領には秀吉配下の大名が配され、駿府城に14万石で中村一氏が入封し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直後まで約10年間、駿府城に在城しました。
そして最後が慶長10年(1605)将軍職を秀忠に譲ると駿府城に戻り、慶長12年(1607)から駿府城を大改修。元和2年(1616)75歳で亡くなるまで大御所政治を行い在城しました。つまり駿府城の築城は天正期の家康の築城と慶長期の家康による大改修の大きく2回といえます。写真は鷹狩に興ずる駿府城本丸跡に立つ高さ6.5mの巨大な徳川家康公之像
将軍職を譲り大御所となった家康は慶長12年(1607)に居住地を駿府に移しました。移住した理由は幼い頃から慣れ親しんだ土地であることに加え、駿府は東海道沿いに位置しているため江戸へ行き来する大名も立ち寄りやすく、当時まだ大坂にあった豊臣家を牽制する狙いもありました。家康の移住に際して駿府城と城下町は大規模に造成され、城には当時日本最大級の天守が聳え立っていましたが、寛永12年(1635)の火事により焼失し、残った天守台も明治以降、この地に陸軍の兵営が置かれるに先立って崩され、掘は埋め立てられました。この大御所時代の天守台が近年発掘され、調査の結果、日本一大きな天守台だったことが判明しました。
園内を横断し、お目当ての天守台へむかいます。家康は天正期と慶長期の2回、駿府城を築城しています。発掘調査によって両時代の石垣が発見されており、一般公開されています。慶長期の天守台の規模は、東西約61m、南北約68m。それまで日本一とされていた江戸城の天守台(東西約41m、南北約45m)を凌駕する大きさでした。写真は打込接という方式の慶長期天守台石垣
さらに新たに天守台と大量の金箔瓦が見つかりました。慶長期の天守台の南東角の下から重なるようにして東西約33m南北約37mの天正期の天守台が発見さました。新たに見つかった天守台の石垣を見ると、石材の種類や大きさ、積み方が明らかに慶長期天守台とは異なります。ある程度成形された石材を用いている慶長期天守台の石垣に対して、あまり加工していない大小さまざまな大きさの石材を積み上げた野面積みの石垣です。決定的に違うのは隅角部の算木積みの完成度で、新たに発見された天守台は算木積みが未発達です。
天正期の天守とはどのようなものだったのかは、石垣の構築技術や出土した大量の金箔瓦から、金箔瓦を使った総石垣の城は豊臣政権下の城であることが伺えます。つまり駿府城は家康の意思により単独で築かれたのではなく、秀吉が家康に命じて築かせた城であろうと考えられます。天正期の天守台があるにもかかわらず、大御所になった後、わざわざ秀吉時代の天守台を潰して新しいを天守台を建てることで天下人が代わったことを世にしめしたのでしょう。
本丸には政庁と居館を兼ねた本丸御殿があり、紅葉山庭園のある場所には二ノ丸御殿と台所がありました。二ノ丸から三ノ丸へは東御門を含めて五つの門(北御門、御水門、清水御門、二ノ丸御門)が設けられていました。写真は北御門
二ノ丸堀を渡り北御門を入ると石垣により枡形風の空間を通り。二ノ丸内部へと至ります。二ノ丸へ入るとすぐ西側には石垣造りの食い違い土手構による馬場先御門があり、その先には馬場がありました。