河畔に鉄櫓が佇む吉田城!東海唯一の路面電車が走る街・豊橋

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愛知県南東に位置する豊橋市は、南に太平洋、西は三河湾に面し、古くから伊勢神宮に縁の深い港町として栄えてきた自然豊かな東三河の中心都市です。今なお路面電車が行き交う光景が見られれるこの街は、東海道の宿場町であるとともに、三河吉田藩の城下町。吉田城跡には戦前、歩兵第十八聯隊が置かれ、戦後豊橋公園が整備され、国の登録文化財の「豊橋市公会堂」や手筒花火発祥の地「吉田神社」など歴史を感じるスポットもあります。路面電車の豊橋鉄道市内線を利用すれば、手軽に徒歩でも見どころをめぐることができるのも魅力的です。歴史やグルメに豊橋市を全身で体感すれば、充実感溢れる休日が過ごせます。

吉田宿は、江戸時代には東海道五十三次の江戸側から数えて34番目の宿場で、現在の豊橋市中心部と重なります。吉田藩の城下町と豊川の舟運や伊勢詣での船旅の湊町を合わせた宿場町で大変な賑わいを見せました。「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が」などの俗謡が広く知られています。東海道は吉田城の惣構えの堀に沿って道筋が通され、町家が並んでいました。明治2年(1869)、宇和島近郊に吉田藩があるため、新政府から改名を迫られ、また同年に街を流れる豊川の橋が改築されました。「豊橋」とはこの橋の別名で、豊川の河畔に三河吉田藩の吉田城が睨みを利かせていました。太平洋戦争末期の豊橋空襲でその街並みは失われましたが、各所に城下町を思わせ地名や地形が残っています。

東海道五十三次の有力な宿場町であった豊橋。現在も豊橋駅には鉄道路線とバス路線が集まり、東三河の交通の要になっています。 この街が発展した背景には、明治時代、吉田城跡一帯に歩兵第十八聯隊が置かれたことが大きい。NHK朝の連続テレビ小説「エール」で主人公の妻の出身地として描かれていました。なかでも城下町めぐりに便利なのが豊橋鉄道市内線です。市内線は正式名称を東田本線と呼び、駅前-運動公園前を運賃は200円均一で結んでいます。大正14年(1925)に豊橋電機軌道により開通し昭和57年(1982)に井原電停-運動公園前電停が開業、豊橋駅前から路線を延ばしてきました。市街地をほぼ東西に走る併用軌道線(路面電車)は5.4kmと短いですが、沿線には豊橋の歴史、自然などの見どころが点在しています。

路線の前半は、にぎやかな町なかの駅前大通りを走ります。札木と東八町電停間の900mは、天下の街道・国道1号線に線路が敷かれ、急ぎ足の車の群れもどこ吹く風とばかり、電車は悠然と進んでいきます。市役所前電停で下車。

地上13階建ての豊橋市役所周辺一帯が吉田城址で、主要部が豊橋公園になっています。 電停近くには中世ヨーロッパの建築、ロマネスク様式が印象的な、美しい外観に目が奪われる「豊橋公会堂」があります。豊橋市制25周年を記念して昭和6年(1931)に建てられた鉄筋コンクリート造3階建てで建築面積は1202㎡。静岡市庁舎本館や静岡銀行などを手がけた浜松出身の建築家・中村與資平が設計しました。玄関には巨大なコリント式の列柱を並べ、その両脇には四方に羽ばたく大鷲の彫刻で飾った半球ドーム屋根の階段室を置いており、堂々とした正面の構えに特徴があります。正面入口列柱上の半円アーチ、3階の2連アーチ窓、丸窓の用いられるステンドグラスなどから、全体的にロマネスク様式を感じさせますが、、半球ドーム屋根はモザイクタイルを用いており、中近東風の建物を思わせます。イスラム風のドーム頂上までの高さは16mもあります。

また豊橋公園南側、公園入口近くに建つ緑の屋根と白い外観のコントラストがきれいな「豊橋ハリストス正教会」は大正2年(1913)の建築。西を正面とし、吹き出しのポーチをおき、続く玄関はその上に八角形の鐘塔をのせ、階段室を兼ねています。東西方向を軸線として、ポーチに続いて玄関、啓蒙所、聖所の三つの部屋を、規模を拡大させながら東に向かって一列に配置しており、聖堂の東端に至聖所を配置する形式となっています。設計者は河村伊蔵で、聖堂建築のため地元の大工は、京都まで赴き京都正教会を手本にして西洋風のドームを建築したといわれます。この聖堂は装飾の少ない簡素な建築ですが、保存状態は良好で、明治大正期の木造形式による代表的なハリストス正教会聖堂として高い評価を受けています。(説明板より)※現在改装中

吉田城の前身となる今橋城は、明応5年(1496)に今川氏親の命により豊川の一色城主牧野成時(古白)によって築城されました。その後戦国時代の騒乱の最中に今橋の名は吉田に改められ、多くの勢力による争奪戦が繰り広げられました。永禄8年(1565)松平(徳川)家康の三河統一により、豊川を後背地とする背水の陣となるのを嫌ったのか、本城とせず徳川四天王のひとり酒井忠次が城代を務め、、さらに天正18年(1590)、豊臣秀吉の天下統一後、家康の関東移封によって池田輝政が15万2千石で城主となりました。輝政は吉田城および城下町の大改修や吉田大橋(豊橋)の架け替えを行いましたが、整備は11年間にわたって行われ、関ヶ原の戦いの翌年慶長6年(1601)に輝政は姫路移封されたので、現存する城跡は近世城郭ですが江戸時代になってからのものです。

池田輝政が支配していた頃、整備された敷地は、惣構えを含め東西1400m、南北700m、面積約84万㎡ある東海道屈指の巨大な城で石垣や空堀が現在も本丸とその周辺に残ります。吉田城は北に流れる豊川に朝倉川が合流する地点に川を天然の堀とし、川を背にして本丸が、本丸を囲うように二の丸が、さらに二の丸を囲うように三の丸が配された半円状に広がる半輪郭式平城で「後ろ堅固の城」と称されています。現在豊橋公園入口の三の丸口には巨石(鏡石)を組み込んだ石垣が残ります。城主の観力を示すためや、邪気を払うために置かれたとされています。

城主の居館があった二の丸を抜け、本丸正面の虎口に築かれた枡形門から本丸に入ります。一の門が冠木門跡、二の門が南多門跡だったと考えられます。かつて本丸には豊川を背に本丸を囲むように4隅に4つの櫓が配され、中央に御殿が建てられていました。写真左手が修復された三重の千貫櫓が建っていた櫓台で吉田城址の石碑があります。

右手奥には三重の辰巳櫓が建っていました。橋の両側には内堀があります。今は空堀ですが、当時は水堀で、深さは10mほどあります。

冠木門とは別に二の丸から本丸に入るもう一つの門が裏門です。池田輝政時代に積まれたと思われる枡形構造になった野面積みの石垣が残ります。

本丸東側の外側を取り囲む金柑丸の堀と土塁。本丸裏門を守る馬出曲輪とも言われる金柑丸の土塁は深さ10mほどもあり、かなりの規模です。

現在本丸跡は広場となり、北西隅に昭和29年(1651)鉄(くろがね)櫓が復元されました。木造の本体の高さが15mで、四方に窓があり、事実上の天守だったようです。

本丸から見た豊川を挟んだ対岸の下地地区。。享禄2年(1529)、牧野一族は眼前の豊川を渡り、下地に布陣した松平清康(家康の祖父)の軍と合戦、死闘の末に壊滅しました。

豊川側にある北多門跡と内枡形虎口で奥に入道櫓が建っていました。入道櫓跡の石垣は角をなくした形になっているため、鬼門除けではないかといわれています。

吉田城の最大の見どころは、豊川に面した本丸と腰曲輪の石垣です。本丸の裏手側に設けられていた北多聞から豊川に沿って築かれた腰曲輪に下りていきます。

本丸は広大な天然の堀である豊川に守られていますが、万一、敵が渡河してきたら、城の中枢である本丸が直接攻撃されてしまうため、川と本丸の間に細長い腰曲輪をもうけ、本丸の石垣もひときわ高く築いています。本丸周囲だけでも4つもの櫓が配されていましたし、三重の鉄櫓は、池田輝政が築いたとされる吉田城最古の約9mの高石垣に建っています。

一方で左に張り出した部分の本丸武具所の石垣は打ち込み接ぎによるもので、これは慶長17年(1612)に入城した深溝松平忠利の時代に、名古屋城を築くために採取されて余った石をゆずり受けて転用したものと考えられています。豊川に面した側に折り重なるように石垣と堅牢な建造物が重ねられ、機能美につながる美しさが表現されています。

東海道の重要な防衛拠点の一つに挙げられていたため、深溝松平家や小笠原家、大河内松平家などの徳川幕府の老中・大坂城代・京都所司代格の有能な譜代大名が吉田藩城主に選ばれ出世城などと呼ばれていました。写真は豊川から見た積み重ねられた石垣群で、手前が川手櫓跡、左手前の17世紀の本丸武具所の石垣、奥の鉄櫓の池田輝政の石垣と壮観です。

緑あふれる公園はさんぽに最適。手入れの行き届いた庭が素敵な「三の丸会館」や「豊橋美術館」など文化施設も充実し、自由自在に楽しめる公園で各々が思う休日を過ごせます。

少し足をのばして、豊川の岸にある吉田神社へ。源頼朝や徳川家康にも崇敬され、代々吉田藩主に保護されてきた神社です。祭神は素戔嗚尊で、火の粉を吹き上げる竹筒を男衆が抱える火祭り“手筒花火”の発祥地とされる。

駅前周辺で食事。今全国的に脚光を浴びている豊橋の名物「豊橋カレーうどん」は100年以上の歴史をもつ「豊橋うどん」をPRするために考案されたご当地グルメです。各店で打った自家製麺、豊橋産ウズラを使用し、器の底からごはん、とろろ、うどん、カレーを順に重ねたユニークな組み合わせが特徴で、カレーうどん+カレーとろろごはんと、二つの味が楽しめます。市内45店舗で味わえ、それぞれ違った味なので、食べ比べしながら散策するのもいいでしょう。

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