全国屈指の湯量を誇る上諏訪温泉と宿場の歴史を色濃く残す下諏訪温泉。諏訪湖畔は風光明媚な観光スポットだけでなく、日本最古の神社と言われる諏訪大社をはじめ歴史浪漫溢れる史跡も多い。江戸時代、中山道、甲州街道の重要な拠点として諏訪氏が諏訪一帯を支配し、拠城としていた高島城もそのひとつ。当時は諏訪湖の島を利用して築城されたため「諏訪の浮城」との呼ばれていました。好奇心いっぱい、いろんな顔をのぞかせる歴史浪漫の宝庫・諏訪のお城と城下町を歩きます。
諏訪の地は平安時代から諏訪氏が支配し、2007年放映のNHK大河ドラマ「風林火山」で信濃攻略諏訪攻めの舞台となる、ヒロイン由布姫ゆかりの城です。天正18年(1590)の小田原征伐後、徳川家康が関東に移封になると、家康に従っていた諏訪頼忠も武蔵国に移動。代わって、豊臣秀吉の家臣だった日根野織部正高吉が諏訪に転封、2万7千石を与えられ諏訪の領主となりました。大阪城や伏見城の築城にも携わった築城の名手としても知られた日根野高吉は、諏訪湖東南海岸の高島と呼ばれた微高地に目をつけました。高島は当時諏訪湖畔に島状を呈していたと思われる場所で「浮島」とも呼ばれて、ここには主に漁業を営む村落があったと記録に残っています。高吉は当該地にあった漁村を移転させ、文禄元年(1592)に着工、7年近い歳月を費やして慶長3年(1598)に完成させました。
総石垣で8棟の櫓、6棟の門、3重の天守などが建て並べられ近世城郭の体裁が整えられましたが、軟弱な地盤のため、木材を筏上に組み、その上に石を積むなどの当時の最先端技術が用いられました。城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから別名「諏訪の浮城」とも呼ばれ、また「諏訪の殿様よい城持ちゃるうしろ松山前は海」と歌われた名城です。その後、関ヶ原の戦いで徳川軍に属した諏訪頼水(頼忠の子)は、慶長6年(1611)家康の恩恵によって旧領諏訪に帰り藩主となり、以後10代に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇りました。定番のアングル、冠木門と冠木橋と天守のセットを水堀越しで撮影(春)
城の北側には城下町が設けられ、甲州街道が中をつらぬく宿場町(甲州道中上諏訪宿)を兼ねていた城下町から城までは、衣之渡川・中門川などの川を堀とし、諏訪湖と阿原(沼沢地)に囲まれた1本の縄手の道しかありませんでした。、大手門の先に北から衣之渡郭、三の丸、二の丸、本丸の順に曲輪が一直線上に連続配置した連郭式で、敵が侵入しても曲輪を一つひとつ陥落させないかぎり本丸にたどり着けません。湖水に細長く突き出して諏訪湖と数条の河川に囲まれた、水を守りとする難攻不落の水城でした。江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われましたが、浮城の異名を持っていたことから日本三大湖城のひとつに数えられています。※松江城(島根)・膳所城(滋賀) 定番のアングル、冠木門と冠木橋と天守のセットを水堀越しで撮影(冬)
明治4年(1871)の廃藩置県により明治8年(1875)に撤去され二の丸、三の丸は開発の手が入りましたが、本丸は明治9年(1876)高島公園として整備され一般に開放されました。本丸の石垣および北側と東側の堀が残り、昭和45年(1970)天守閣、冠木門、隅櫓などが復興され、平成18年(2006)続日本100名城に選定されました。
天守閣の石垣と本丸の正面と東側の石垣は規模が大きいが、西側と南側の石積は簡単なものでした。衣之渡郭・三の丸・二の丸などの石垣も比較的小規模です。石垣は、野面積みで、稜線のところだけが加工した加工した石を用いています。
冠木門跡には「冠木橋を渡ったところに冠木門があった。冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫を渡しただけの簡単な門のことをいうが、高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門と呼ばれる屋根付きの門であったことがわかる。おそらく、当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、名称のみ残されたものであろう」と書かれています。
かつての天守は独立式望楼型3重5階です。外観は下見板張り、初重を入母屋の大屋根とし2重の望楼が載せられた形状で、2重目の南西面に入母屋破風出窓、3重目には南北面に華頭窓をもつ切妻破風出窓と東西面に外高欄縁が設けられました。各所に華頭窓が用いられ、屋根は杮葺でした。天守をはじめ主要な建物の屋根が杮葺きだったのは、湖畔の軟弱地盤で重い瓦が使えなかったからとか、寒冷地である諏訪では凍み割れてしまうからとか言われています。現在の復興天守は、取り壊し直前撮影の明治時代の写真をもとに復元されましたが窓の大きさや位置、数などの細部が異なり、屋根には銅板が葺かれています。
天守閣内の展示品は約300点。1階の企画展示室にある「御枕屏風」は江戸時代前期の城周辺を描いた絵図で、城が諏訪湖に面していたことがわかります。2階資料室には、諏訪氏の家紋「梶葉紋」入りおわんなどの食器類や江戸時代の火縄銃、幕末の洋式銃などに実物を展示。3階の展望台からは諏訪湖を一望できます。
現在庭園として整備されたところは本丸御殿があった場所です。家老など重職との接見や重要な行事が行われた表御居間・御次・下御次・下段之間があり、御納戸・中御納戸・御祐筆部屋・大納戸部屋など藩主の身の周りの世話をする部屋が付属していました。奥には藩主の私生活の場である御休息居間・同二之間・同三之間があり、江戸城でいえば、大奥にあたる長局と呼ばれる部屋が隣接していました。また御用部屋や郡方、御勝手方など藩政の中枢となる部屋も備えられていました。
春にはさくらやフジの花、秋には紅葉が見事と四季折々の花や景観が楽しめます。
本丸に三の丸御殿裏門(川渡門)が昭和63年(1988)所有者から市に寄贈され移築されています。ここはかつて御川渡御門(御川戸門)と呼ばれた門があった場所です。城が湖に面していたころは、ここで湖の舟に乗ることができました。移築されたこの門があった三之丸御殿は、藩主の別邸で、吉凶その他の儀式に使われていました。また藩主がくつろぐところでもあった(現在の高島1丁目八番地付近)
諏訪湖周辺は諏訪大社下社が鎮座し、街道筋の面影が残る温泉どころ下諏訪町や、諏訪大社上社がたたずむ静かな神宮寺周辺などさまざまな歴史の顔をのぞかせてくれます。 「諏訪に鎮座する神々を巡る!信濃國一之宮諏訪大社と諏訪信仰」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/4342