秩父三社「三峯」「秩父」「宝登山」をめぐるパワーチャージの旅

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自然豊かな山間部に位置する埼玉県の西端に位置する秩父には、歴史ある神社が多く、なかでも日本武尊と山犬の伝承で有名な「宝登山神社」、秩父地方開拓の祖が祀られる、日本屈指の歴史を持つ「秩父神社」、日本武尊が東国を巡った際に立ち寄った山に座する「三峰神社」の三社が「秩父三社」と称されます。その由緒もさることながら、歴史ある社殿や彫刻の美しさ、周囲の自然の美しさなど魅力に富んでいます。そんな関東屈指のパワースポット3社を巡ります。

宝登山神社はライン下りで有名な長瀞町にあり、長瀞駅を出ると一の鳥居が目の前にあり、まっすぐな道が山へと向かっています。この山が標高497mの宝登山です。宝登山は秩父山塊の中でも数少ない独立峰で、山の上に奥宮があります。徒歩で登れば1時間、宝登山ロープウェイに乗れば麓駅から山頂駅までの全長963mを約5分の空中散歩で山頂手前まで運んでくれます。

今から約2000年の昔、第12第景行天皇の皇子・日本武尊が東国平定の折に突然の山火事に遭った際、山犬たちが現われ瞬く間に火を消し止めたことから、日本武尊は山の神が御眷属の山犬を遣わして自分たちを救って下さったと悟り、景行天皇40年(110)、祖先の神武天皇である神日本磐余彦命・大山祇神(山の神)・火産霊神(火の神)を祀り創祀されたのが「宝登山神社」の始まりです。また山の名を「火を止める山」と表し「火止山=ほどさん」と定め宝登山神社の基いとし、後世ふもとの泉から宝珠が飛翔した神変から「宝登山」と改められました。秩父三社の一社で、火防・盗賊除・諸難除の霊験あらたかな神社として崇敬を集め、ミシュラングリーンガイドの一つ星を獲得する日本有数のパワースポットです。

境内入口にあるのが昭和天皇のご成婚を奉祝し、大正13年(1924)に植えられた黒松・赤松で、仲睦まじく寄り添う姿から「相生の松」として縁結びのお守りや相生の絵馬になっています。相生の松の前を通りいよいよ宝登山神社の鳥居をくぐり石段を登った先に本殿があります。

相生の松そばにある二の鳥居をくぐり石段を上れば社殿まですぐです。

現在の社殿は、江戸時代末弘化4年(1847)~明治7年(1874)に再建された、本殿・弊殿・拝殿よりなる権現造りです。

拝殿の正面には立派な龍の彫刻が施され、左右の欄干には「二十四孝」の内8話の親孝行が描かれているなど本殿をはじめ拝殿の随所に多くの彫刻がなされています。これは熊谷在武州明戸の彫刻師飯田岩次郎による彫り物で、御鎮座1900年を奉祝した平成21年(2009)の大改修により鮮やかな美しさを取り戻しています。

 

社殿の後ろには出世を表す「登竜門」の彫刻が描かれています。妻に下がる黒く塗られた「懸魚」と呼ばれる板が下がり、左右には雲形の鰭が従い花弁を思わせる意匠の六葉・樽の口から構成されています。棟木と虹梁をつなぐ太瓶束を挟んで右に逆巻く水瀬を泳ぐ鯉の姿を、左には龍へと姿を変えて激流を泳ぐ「登龍」の状があらわされています。

本殿向かって左の御垣内にある「みそぎの泉」は、日本武尊が宝登山に登られる前に身を清めたと伝えられる泉です。玉の泉とも称し、日照りの続く時や雨の降り続く時でも一定の水位を保ちながら湧いています。

また境内奥には文政5年(1822)伏見稲荷社から勧請した「宝玉稲荷神社」があり、木々に囲まれた小経を通っていくため、景色がいいです。失くし物をしたときに御参りするとでてくるといいます。

学問の神様「天満・天神社」があります。

荒川の河岸段丘に広がる秩父市街の中心部、秩父駅から徒歩5分のところに「秩父神社」があります。アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』や映画の舞台になったことでも有名です。また毎年12月3日に行われる「秩父夜祭」は京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。

創立は凡そ2100年前、第十代崇神天皇の御代(3世紀後半頃)知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世孫で秩父地方開拓の祖神・知知夫彦命が祖である八意思兼命を祀ったことが創建とされています。その後允恭天皇年間に「知知夫彦命」など三柱の神々を祀り、秩父の総社として柞之杜(ははそのもり)に鎮まる古社です。2006年に「知知夫国新一の宮」に認定されています。

秩父神社」は、永禄12年(1569)武田信玄の焼き討ちで荒れたままになっていたものを、徳川家康が天正20年(1592)9月に大旦那となって代官である成瀬吉右衛門に建造させたのが現在の社殿です。本殿、幣殿、拝殿が一つにまとめられた権現造り様式の社殿には、東西南北に見事な極彩色の彫刻が施されています。昔から日本人は家や地域の四方を青龍・朱雀・白虎・玄武という神使が守っていると信じられてきました。

数ある彫刻の中でも有名なのが左甚五郎作といわれる本殿東側虹梁の下の『つなぎの龍』と南側の壁にある『子育ての虎』です。その昔、秩父札所15番少林寺近くに「天ヶ池」という池がありました。その池に棲みついた龍が夜ごと田畑を荒らし、暴れた際には、必ずこの彫刻の下に水溜まりができていたことからこの彫り物の龍を鎖で繋ぎ止めたところ、その後龍は現れなくなったという不思議な伝説があります。その鎖で繋がれた青い龍の彫刻こそこの伝説に語られた「つなぎの龍」の姿です。

徳川家康が寅の年、寅の日、寅の刻生まれということで、拝殿前は四面にわたってすべて虎の彫り物が施されていますが、特に拝殿正面左より二つ目の、子虎とたわむれる親虎の彫刻「子育ての虎」は、甚五郎が家康公の威厳とご祭神を守護する神使いとして彫刻したものです。虎の図柄は、一豹に群虎という狩野派の手法で、母虎があえて豹として描かれているのが特徴で、古くから子授け・子育ての象徴として祈願者が絶えません。改築時に「飛騨匠」という墨書きが見つかっていて。甚五郎作の根拠になっています。

西側には「よく見る」「よく聞いて」「よく話そう」の逆三猿「お元気三猿」もあります。三猿といえば日光東照宮が有名ですが、同じ徳川家ゆかりの神社ではありますが日光とはまったく違った表情をしています。

本殿北側中央に彫刻された梟は「北辰の梟」といって、菱川師宣描く有名な浮世絵「見返り美人」よろしく、体は正面の本殿に向き。頭は正反対の真北を向いて昼夜を問わずご祭神をお守りしています。ご祭神の妙見様は北極星を中心とした北辰北斗の星の信仰で、この梟の見ている方角に妙見様が出現することからも梟は特に縁りの深い瑞鳥であると言え、神使として社殿北面に施されたものです。

秩父神社は武蔵国成立以前に栄えた知知夫国の国の一之宮であり武蔵国併合後武蔵国四ノ宮とされています。本殿奥に昔から境内に鎮座する天神地祇社は、全国の一之宮を中心として計75座の神々をお祀りしています。全国的にみても珍しいものですが、これはご祭神八意思兼命が多くの神々の意見を纏められ、折々の聖断を下される神様として神話に語られていることなどからお祀りされていると伝えられています。

西武秩父線に沿って車を走らせ、秩父山中へ入っていき、秩父湖を形成する二瀬ダムを渡り、九十九折の急カーブを幾度も曲がると、やがて視野が一気に開けます。雲取山、白岩山、妙法ヶ岳の3つの峰が連なる三山に囲まれた標高約1102mの奥秩父三峯山山頂の地に立つ古社が「三峯神社」です。三峯の名前は神社の東側の美しく連なるこの三つの峰に由来するそうです。約1900年前に日本武尊が訪れた際、あまりに清く美しい風景に魅せられ、この国の平和と人々の幸せを祈り、国生みの神である伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉册尊(イザナミノミコト)の2神をお祀りしたのが始まりとされています。室町時代から天台修験の関東総本山として崇拝され、江戸時代には、三峯講が組織され、近年では多くの著名人や起業家、アスリートがパワーを授かったことが広がり“関東最強”と称されるパワースポットと呼ばれています。

三つの鳥居を組み合わせた全国でも珍しい三ツ鳥居の一種「三峯鳥居」を潜って境内に入ります。

境内には神の使いとして随所に狛犬の代わりにオオカミ(山犬)像が阿吽の形相で対を成して鳥居脇などに鎮座しています。眷属とは神様の霊力を受け、神様と同じ働きをするものとして仰がれる動物の総称を眷属と言います。稲荷神社のキツネ、八幡神社のハトをはじめ、シカやカラス、ウサギ、サル、ニワトリなど昔の人々が身近に見かけた動物が多い中、三峯神社の眷属(お使い)は、寶登山神社と同様オオカミ(山犬)です。これは日本武尊を助け、道案内をしたことからで神にもっとも近い眷属といわれています。

「三峯鳥居」をくぐり神社境内に入ると、途中で参道が左右に分れます。左手の表参道から隋神門へと通るのが古来の正参道です。石燈籠が建ち並ぶ参道の先にある彩り鮮やかな隋神門は、元禄4年(1691)建立、現隋神門は寛政4年(1792)再建のもの。扁額は増山雪斎の筆跡です。

参道から本殿に向かう石段を上ると正面に弘化2年(1845)に建立された「青銅鳥居」。江戸深川の堅川講中からの奉納されたもので、荒川を筏で曳いてきたといいます。奉納者の中に初代塩原太助の名も刻まれています。

拝殿前の石段下、右手には安政4年(1857)に建立された珍しい大型の木製飾り灯籠「八棟灯籠」が目に留まります。高さ6mあり、その精緻巧妙な彫刻に驚かされます。

左手には嘉永6年(1853)に4年の歳月をかけて江戸深川堅川講中奉納により建立された「手水舎」があり御参りするために手を洗い口をすすぐ施設です。間口3m、奥行き2.6mあり、八棟灯籠や拝殿に劣らない見事な精巧な龍の彫刻が施されています。

石段についても下の石段は嘉永2年(1849)神領三峯村の木村家の奉献であり、上段は昭和41年(1966)東京築地市場講奉献とあります。三峯神社が鎮座する奥秩父は、東京湾に注ぐ荒川源流の水源地で、荒川は甲武信岳の山腹約2000mから湧き出て、東京湾まで流れる約169kmの河川です。この荒川はかつて三峯神社・秩父と江戸・東京とを結ぶ重要な水路で、現在も地名として残る東京の深川木場(江東区)は、荒川を伝って秩父から運んだ材木を集積した場所です。深川木場の商人たちは、木材供給地である秩父のここ三峯神社に火災のご利益を求めたといい、神楽殿は明治41年に深川木場の堅川講から奉納されたものです。

また肥沃な三峯山系から流れ出る荒川の清流は、東京湾に注ぎこみ、豊漁をもたらしました。荒川を繁栄の源とした漁師や魚河岸関係者たちは、遠く離れた三峯神社を崇拝したといいます。江戸から大正まで存在した日本橋の魚河岸はもちろん、移転先の築地市場内でも三峯講が組まれ、三峯詣でが盛んに行われていました。そのため講からの奉献が随所にみられます。

拝殿脇に続く石段の両脇に、樹齢約800年のご神木が聳えています。重忠杉と言われ、三峯山の信仰が広まった鎌倉期に、畠山重忠が厚く信仰し奉納したと伝わります。全国的にも珍しくふれてもOKということから参拝者が手や顔をつけてご神木からの『気』をもらっていて、そのため木肌が赤くなっています。3回深呼吸してから触れると、よりパワーがいただけます。※現在は根元まで近寄れますが、樹に触れることはできません。

寛文元年(1661)創建の春日造りの本殿と、寛政12年(1800)建立の権現造りの拝殿が連なるように立ち、拝殿の梁や柱には龍や鳳凰などをモチーフとした極彩色の彫刻が施されて華麗そのものです。

正面に立派な大額がかかり、扁額には有栖川宮熾仁親王殿下御染筆の「三峯神社」の文字が書かれ、額上には菊の御紋も描かれています。社務所で祈祷を申し込めば拝殿内に入ることもできます。また毎月1日限定で配布される白い「気守」は浅田真央さんが所持していたことから大人気のお守りです。※現在配布中止

拝殿左手側の石畳に水をかけると浮かび上る「敷石の龍」。平成24年(2012)年の辰年に突如現れたという龍神の姿で、神社参拝者は瑞兆としています。。赤い目と細く伸びた顔はまさしく龍そのもので特に赤い目が印象的です。携帯の待ちうけにすると運気が上がると評判です。

本殿左手奥の小径を暫く進むと縁結びの木がありさらに進むと「御仮屋神社(遠宮)」があります。三峯神社の眷属であるオオカミ(山犬)=大口真神を祀っています。おいぬ様と親しみを込めて呼ばれ、諸難除・火難除・盗難除に霊験があります。

帰路、境内に入って途中参道が左右に分れたところを今度は右手に向かうと「日本武尊銅像」があります。

その入口前、随神門の丁度向かいに絶景スポットとして人気が高い遥拝殿があります。谷を挟んではるか前方、妙法ヶ岳に鎮座する奥宮神社の遥拝所で、ここから下界を一望のもとに見渡すことができます。幾重にも折り重なった秩父の山々と、はるかに広がる秩父盆地をはじめ遠く日光連山が見渡せ、季節や天候によっては、霧が立ち込める美しい雲海が峰々を包みこみ情景が望めます。

奥宮は正面岩峰の頂きにあります。平安時代には山岳修行の場だったという山肌を雲が撫でるように流れていきます。三峯神社にはその昔、修験の祖である役小角が伊豆から飛行して来て修行したという伝承もあります。胸のすくような絶景はいつもかわらず感動を与えてくれ、雲が良ければ雲海が見れます。

三峯が「天空の聖地」といわれる所以は、三峯山を構成する雲取山、白岩山、妙法ヶ岳の妙法ヶ岳山頂(標高1332m)に鎮座する奥宮からの比類なき眺めだというのでぜひ奥宮に行きたいものです。奥宮へ通じる登山道入口は「三峯お犬茶屋山麓亭」の奥にあります。神社からはゆっくり登って1時間30分程です。5月3日山開祭、10月9日閉山祭です。

無事参拝を終え、鳥居から徒歩5分、「三峯お犬茶屋山麓亭」は大丸太作りの食事処です。

ここの名物であり奥秩父の名物「中津川いもでんがく」をいただきます。地元でしかとれない『中津川芋』という品種で、じゃがいもとは違い身がしまっていて焼いてもふかしてもくずれないお芋で、自家製味噌ダレが芋の旨味を絶妙に引き立て、素朴だが忘れられない味わいです。そして何よりオープンエアな店内から見渡す雄大な山々が標高1100mの神域を取り囲み、吹き抜けていく風が心地よい。※2023年3月7日放送の【マツコの知らない世界 いもでんがく】で紹介され午前中で売り切れます。

お腹もパワーチャージして帰ります。

 

 

 

 

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