木曽川のほとりに名城あり!串グルメも楽しむ犬山城下町散策

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愛知県の北西部、木曽川が濃尾平野へと流れ出る所に位置する犬山市は、古くから交通や物流、政治の要所として栄え、戦国時代には数々の合戦の舞台となりました。犬山城は姫路城・彦根城・松本城・松江城と並ぶ国宝五城の一つで、現存する日本最古の木造天守閣に見守られた城下町の町並み歩きも楽しい。。犬山駅から犬山城までは、徒歩約20分。あちこちに残された江戸時代の風情を感じながら、ぶらりのんびりとした散策はいかがですか。 お城前の広場には犬山のユルキャラ「わん丸くん」が出迎えてくれていますよ。

国宝5城の一つ「白帝城」とも呼ばれる「犬山城」。江戸時代の儒学者・荻生徂徠が、城の情景が李白の詩にある長江に臨む風光明媚な白帝城に似ていることを讃えて名付けたといわれる。望楼型三層四階の美しい天守が川のほとりに緑に包まれてそびえる姿は、確かに「三国志」の舞台となった古城を思わせなくもない。高さ19m、天守台を含めても約24mとさほど高くありませんが、木曽川南岸にある固いチャート(堆積岩)で形成された標高約85mの断崖上に立つ姿は凛としています。犬山城は、最北の丘陵のもっとも高いところに本丸を置き、南に向かって杉の丸、樅の丸などの5つの曲輪が階段状に並ぶ構造です。天守は本丸の奥まった場所にあり、北(搦手)を木曽川と断崖が守る後堅固(うしろけんご)の平山城で、こちら側は愛知(尾張)で対岸は岐阜(美濃)。国境に位置する犬山は、戦国時代には争奪が繰り返された国盗りの要所でした。4万石に満たない犬山の領地だが、中山道と木曽川による交易、政治、経済の要衝にあり信長、秀吉、家康ら天下人がこの城を欲し奪い合ったといいます。

まずは木曽川の畔からその雄姿を眺めようと、名鉄犬山遊園駅で下車して川沿いに歩く遊歩道からアプローチしてみます。さわやかな風に吹かれながら、川べりの散歩はのんびりして心地いい。しかしやがてゆったりとした木曽川の流れを後ろに、断崖絶壁の上に聳え立つ犬山城天守が遠くからでもくっきりと目に飛び込んできます。2009年の発掘調査では、山を垂直に削った人工の崖が発見されたとのことですが、木曽川に突き出した急峻な崖の上に天守が立ち、攻め上がってくる敵を睨み下ろすかのようにいかめしく、上から攻撃されたらひとたまりもなさそうです。美濃の山間部と尾張の平野部との結節点という要地にあり、戦国武将たちも重要視していたというのも頷けます。春には遊歩道は桜プロムナードとなり、満開の桜並木の下、犬山城へといざなってくれます。城に桜はベストマッチと春には400本の桜が咲き誇り、美しく天守閣を彩ります。

山を巻くように歩いて城の正面へ。犬山城への登り口にあるのが歴代城主が崇敬したという濃尾の総鎮守とされる針綱神社」で、尾治針名根連命を祀る尾張五社の一つでユネスコ無形文化遺産に登録されている犬山祭はこの神社の祭礼です。

犬山城は今から490年程前天文6年(1537)織田信長の叔父である織田与次郎信康が近くの木之下城を移したことに始まる。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの舞台の舞台となり江戸時代初期には「一国一城令」が制定されましたが、尾張藩の付家老成瀬家が譜代大名格であり、元和3年(1617)犬山城初代成瀬正成が2代徳川秀忠より直々に城を拝領したため破却されず、成瀬家が理事長を務める財団法人犬山白帝文庫の所有になる平成16年(2004)まで日本で唯一個人所有の城だったのです。

犬山城前広場の登城口から、石畳の大手道を上る。戦国時代の城は相手が簡単に本丸まで到着できないようにつくられている。表門に続く道は、曲がりくねっていて、敵が直進できないようになっている。江戸時代、この場所には大手道の第三の門「黒門」が大手道をまたいであり、今も礎石が残っています。この場所で敵を食い止められるとともに、道具櫓(現在の神社社務所の位置)や樅の丸から攻撃できるなど、攻守に秀でた構造となっていました。徳林寺(丹羽郡大口町)に移築

しばらく、坂道を登っていくと入城窓口があり、入城料を払って表門をくぐると国宝犬山城が威厳をもって出迎えてくれるのです。

石段を登ると白い土壁と黒瓦の対比が鮮やかなな安土桃山期の古い天守に到着です。外層3層、内部4階、地下2階の構造で最上階の望楼は展望台になっています。高さは19mと天守は小ぶりですが、独特の意匠にあふれています。古式の美と格式を高めているのが、扉を上から吊るす突上戸、望楼の下の北側と南側にある大きな唐破風。鐘型の華頭窓が、窓枠を象っただけの装飾なのも工夫の一つです。城好きで知られるロンドンブーツ淳が2010年より犬山観光特使をしています。

靴を脱いで城の中に入る。入口は実際は天守の地下1.2階部分で穴蔵になっていて梁や石垣の一部がむき出しになっています。

また城の中の階段は急勾配で、一段あがったら90度角度をかえてまた急勾配の階段をあがるという形で、これも敵が侵入してきた時に一気に攻め込まれないよう配慮されているためです。

天守の中は板張りの床、手斧で削った跡が見える極太の柱や梁と、薄暗く飾り気がない武骨さがうかがえる。そんな空間の1階の一角(写真左手)には、一段高井い空間に畳が敷き詰められた書院造りの城主の部屋「上段の間」があります。城主が家臣と対面した部屋で、脇には城主の護衛が身を潜めた「武者隠しの間」もあります。今にも軍議が開かれそうな戦国のムードです。

急な階段を次々上り、歴代城主の肖像画や写真が居並ぶ望楼の最上層へ。

途端に明るく四方の視野が開ける。望楼は3間×4間のこじんまりとした空間で、外に巡らされた高欄は70cmの膝丈しかなく、一周しながら下を見るとちょっと怖い。現存天守では唯一、廻縁を一周でき、高欄の手摺りが継ぎ目のない一本の材で作られていることもこの天守の自慢だとか。成瀬正成の時代に回廊が設けられたとのこと。

最上階からは木曽川を望む絶景を見ることができ、眼下に木曽川や山並みの眺望が素晴らしい。すぐ北には雄大な木曽川が流れ、南には名古屋市内まで見渡せる濃尾平野と小牧山、遥か東から北東にかけては御嶽山までを望め天下を取った気分になるというものです。

南西側(木曽川下流)を見ると眼前、木曽川の対岸に伊木山が見えます。かつては伊木山城があった場所です。伊木山城は、永禄8年(1565)織田信長が尾張から木曽川を越えて美濃国に攻め込む際、斎藤方の鵜沼城、猿啄城を攻めるため、まず伊木山城を攻略し、足掛かりとしました。伊木山城はもともと斎藤方の城であり、これを池田恒興の家臣・香川長兵衛(後の伊木清兵衛忠次)が攻め落としました。天気が良ければさらに遠くに岐阜城のある金華山や、滋賀県との県境にある伊吹山系を望む絶景スポット。木曽川がゆったりと濃尾平野に流れ込んでいく様子が分かります。

北西側(木曽川上流)を見ると犬山橋の左端袂に戦国時代、木曽川に面し、四方は断崖絶壁の標高95mの城山に鵜沼城がありました。織田信長の美濃国侵攻に際し、伊木山城が築かれたことで、城主の大沢次郎左衛門は降伏しています。

城を堪能した後は、針綱神社参道から石垣の残る道を下り、三光稲荷神社の朱の鳥居をくぐりながら下りて犬山城下町へ。針綱神社から三光稲荷神社のあたりは、江戸時代には松の丸という曲輪があり、松の丸御殿と呼ばれる御殿がありました。この場所には本丸げ続く大手道から松の丸に出入りするための「松の丸門」が建っていました。明治初めに浄蓮寺(一宮市千秋町)に移築。

創建は明らかではないが天正14年(1586)の伝承がある。かつて三狐山(三光山)に鎮座し、江戸時代以降、犬山城主成瀬氏の守護神とされます。

近年は縁結びの神様として広く知られる三光稲荷神社の絵馬掛けには、ハートの絵馬がたくさん並ぶ。

犬山城の東側に広がる有楽苑は、現存する国宝茶席三名席の一つ「如庵」などの貴重な建物が、美しい庭園に配置されたぜいたくな空間です。如庵は織田信長の実弟、織田長益(有楽斎)が建てた茶室です。有楽斎は、千利休に学んだ茶人で、本能寺の変の後は、豊臣秀吉の配下となり、京都建仁寺に設けた隠居所の旧正伝院書院の中に、元和4年(1618)頃如庵を造りました。明治以降、如庵は各地を転々とした後旧正伝院書院とともに有楽斎の故郷、犬山に移築されました。

入苑口から順路に沿って進み岩栖門から有楽苑へ。文明年間(1469~1486)に細川満元が京都新町頭に建立した武家屋敷岩栖院の唐門として伝えられています。屋根は桧皮葺で構造は船底天井、室町様式初期の貴重な建造物です。

 

正面には元和4年(1618)如庵に隣接して建てられた有楽斎の隠居所・旧正伝院書院が移築されています。入母屋造の温和な外観を示し、南側の主室は茶座敷にもふさわしい構えとなっています。内部には長谷川等伯・狩野山雪などの襖絵が残ります。

三井家の大磯別邸にあったといえわれる含翠門越しに見る庭園は、門が額縁のような効果を生み、庭園がひときわ美しく見えます。

改めて萱門から如庵へ。萱門は三井家の大磯別邸にあった千家写しの門で、書院南庭入口の門となっています。門に高さが抑えられており、頭うぃ低くして入るように造られています。

如庵は杮葺の端正な外観を示し、内部は二畳半台目で床脇にウロコ板を入れ斜め壁を作っていることから「筋違いの囲」といえわれる。古暦を腰貼りにした暦貼り、竹を詰め打ちにした有楽窓、躝口の位置等随所に独創的な工夫が凝らされている茶室を外から内部を鑑賞することができます。

元庵は有楽斎が大阪・天満に構えた茶室を古図にもとづいて復元したもので、三畳台目の茶室内部は、奥に深い間取りで、亭主床と呼ばれる床構えになっています。

本町通りへ出ると昔懐かしい商家の家並みで、窓から張り出す出格子と灰色のしっくい壁、その四隅のくぎ隠しの金具が往時の隆盛ぶりを伝える。犬山城下町は総構えと呼ばれる、城と城下町の外周を掘で囲い込んだ城郭構造をそのまま残した町で、江戸風情残る城下町のあちこちに見つけたのは、天井の高い蔵、江戸時代から続く「犬山祭」に使われる車山を収めた「車山蔵」や旧磯辺邸など古い町屋などが、点在している。「車山(やま)」と呼ばれるこの山車は、13の町が保存・保管するもので、すべて江戸時代から伝わる「からくり人形」を備えている。八代将軍徳川吉宗が推し進める倹約政策に反発するかのように、犬山では庶民の喜びを最優先し、豪華でド派手な祭りが催された。目立たない所にもお金をかける犬山の〝粋〟を知ることができる。毎年4月第一週の土・日曜日に行われるのが「犬山祭」です。江戸時代から続く針綱神社の祭礼で13輌の車山が錦絵さながらに市内を練り歩き、からくり人形が華麗な技を披露されます。13輌が並ぶ「車山ぞろえ」は圧巻です。夜は各車山の提灯に灯がともされ、幻想的な光景が広がります。

犬山城下町は今もなお昔の情緒が残る町並みが城から南へ真っすぐに伸びる本町通りを軸に、現在も江戸時代と同様の碁盤目状の区画が残ります。築城とともに整備されたもので、さすがに建物こそすべて昔のままということはないものの、旧磯部家住宅や奥村邸、小島醸造の本宅など風格ある建物が点在しており、町角には大本町、魚屋町、鍛冶屋町など昔の町名の案内看板もあって往時を偲ばせてくれます。本町通り沿いにある、かつて江戸時代に呉服商を営んでいた旧磯部邸。緩やかなふくらみのある「起り屋根」は犬山市内の町家で唯一現存しているもので、間口が狭く奥行きが長い町家独特の造りは、江戸時代の税金が間口の広さで決まっていたためです。蔵に展示されている鬼瓦や柱は、もともと犬山城の櫓に使用されていたもので、明治初期の解体時に町衆が材料を買い取り、自宅の建築材に再利用したとのこと。

今では歴史的建造物を改修したカフェや土産物店が軒を連ね、数ある食事処、甘味処では、味わい、素材、彩りに工夫を凝らした「串グルメ」に出合えます。様々な店が並び城下町らしい賑わいを見せる本町通りで、甘いもの、辛いもの、色とりどりの串を片手にここの散策もまた、楽しいひとときです。気に入った串を食べ比べてみてください。串グルメで人気の「山田五平餅店」やカフェ等町家を生かした店も多く、歩くほどに、角を曲がるたびに楽しい発見があります。写真は人気の山田五平餅店

古い町並みから少し外れた、本町通りの裏手、郷瀬川を渡った閑静な住宅街にあるのが、和と洋が溶け合ったおしゃれなカフェ「豆腐かふぇ 浦嶌」。店名「浦嶌」は犬山祭伝統の車山の名前で、センスのいい小物が配された窓から差し込む心地良い光と和の空間で、ゆったりと寛げます。

オーナーの家族が経営する老舗豆腐店が製造する豆腐を使ったヘルシーな料理が味わえます。串に刺した固めの豆腐に自家製の赤味噌だれえを付けて香ばしく両面をじっくり焼きあげた犬山の名物「でんがく」は「玉手箱ランチ」のほかにも単品でも提供しています。

犬山城下から足をのばして名鉄犬山遊園駅より車で10分ほどのところ、木曽川に沿って寂光院と桃太郎神社があります。白雉5年(654)南都元興寺道昭和尚が孝徳天皇の勅願を以て創建と伝えられる尾張最古刹・厄除千手観音霊場が継鹿尾山八葉蓮台寺寂光院です。通称は継鹿尾観音とい紅葉で有名です。

桃太郎の伝説は、日本各地に伝えられていますが、犬山もその一つです。その桃太郎すなわち桃の実の精霊で大神実命を祀っているのが桃太郎神社です。飛騨木曽川国定公園の中でも「河川美日本一」と称される日本ライン沿岸に位置します。古来より子供の守り神として広く崇敬されている神社の境内には、物語の主なシーンを再現したユーモラスな像が点在しています。近くには「鬼が島」などの伝説にちなんだ地名も残されています。

 

 

 

 

 

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