徳川家のルーツ・家康生誕の地岡崎で岡崎城と城下町をめぐる

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愛知県は西の尾張国と東の三河国が合体してできた県ですが、その三河国の地理的中心に位置するのが、「厭離穢土 欣求浄土」の八文字を座右の銘として戦の旗印に用いた徳川家康の生誕地、岡崎です。城跡に整備された岡崎公園には岡崎城天守のほか、神社や産湯の井戸、三河武士のやかた家康館などがあり、岡崎城から西へ八丁の旧街道沿いには黒板張りで白壁の味噌蔵が並ぶ八丁蔵通りがあります。幼き家康を育み、若き家康に進むべき道を示した天下人のふるさと・岡崎。家康の足跡をたどる歴史散歩にでかけます。

岡崎城の起源は享徳元年(1452)~康正元年(1455)に菅生川(乙川)北岸の龍頭山(標高24m)と呼ばれた半島状段丘の先端に三河国仁木氏の守護代であった西郷頼嗣によって砦が築かれたのが始まり。その後享禄4年(1531)に松平清康(家康の祖父)が奪い、本格的な城郭に拡張し、ここが岡崎城と称されるようになりました。家康は天文11年(1542)12月26日松平広忠の子としてここ岡崎城内の坂谷の邸(現在の二の丸から坂谷曲輪周辺)で生まれました。

龍頭山の岡崎城は、山頂に本丸が置かれた平山城として築かれましたが、家康が関東に移封された後、豊臣家時代の田中吉政よって近世城郭に姿を変え城下町を堀で囲む総構えとし、徳川譜代の本多康重ら本多3代にわたる改修によって平城となっています。関ヶ原の戦い直後の改修、すなわち緊張感の高い時代に築かれたものだとわかり、この城は家康の生誕城というだけでなく、徳川領国の防衛拠点の一つとして極めて堅固な構えを持っていました。最も特徴的なのは、天守を本丸の防御正面に配置し、見せる天守ではなく戦う天守という点を強く打ち出しています。さらに馬出という逆襲陣地を連続させ、攻防兼備の綱張りとなっている点も見逃せません。

存城当時、東海地方の城では3番目に数えられる規模であった岡崎城は、本丸の北方に清海堀を隔てて持仏堂曲輪、その北方に二の丸、その北方に北曲輪、二の丸の東側には三の丸(二輪駐車場)と東曲輪(バス優先駐車場)、その東に備前曲輪と大手門があった浄瑠璃曲輪、本丸と二の丸の西方下に坂谷曲輪、その西に白山曲輪と搦手口にあたる稗田門があった稗田曲輪、本丸の南は、菅生川沿いに菅生曲輪(多目的広場)があり、それに本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀を巡らせていました。

岡崎に行ったら、まず岡崎城にいきます。城跡一帯は明治時代初期の岡崎公園として整備されました。多目的広場に隣接する乗用車駐車場に車を置き、南切通しを東隅櫓を左手に見ながら上ります。この東隅櫓は、かつて東曲輪だった場所(現バス優先駐車場)の南東角に位置し平成22年(2010)3月に再建されました。城の中核となる二の丸に繋がる切通しを守る最後の砦で、明治初期まで存在していました。望楼式二重櫓と呼ばれる木造二階建て壁は白漆喰塗りで高さ9.4m。入母屋造りの屋根は、岡崎藩主を務めた本多氏の家紋立ち葵が刻まれた本瓦葺きです。同時代の松山城の野原櫓などを参考に、城内で発掘された石材を使い、空積みの石垣も築き江戸時代の工法を忠実に再現しています。隣接して長さ45mの城壁も合わせて整備されました。

平成5年(1993)地元産の御影石の石垣に江戸物本瓦が葺かれた入母屋造りの屋根が付いた岡崎城の大手門が木造復元されました。高さ11m、幅16.4m、奥行6.3mの岡崎公園の表玄関にふさわしい建物です。本来の岡崎城大手門は、現在の浄瑠璃寺の南(北東約200m)にあり、江戸時代の記録によれば大手門は桁行十間、梁行二間四尺でした。

表玄関に位置する大手門をくぐり、二の丸にある「三河武士のやかた家康館」を見学。

ここは、徳川家に仕えた武将・大久保彦左衛門が著した『三河物語』の内容をベースに、家康の生涯を紹介する施設。全国各地に収蔵されている家康関連の資料のレプリカが展示されているほか、関ヶ原の戦いを時系列順に再現するジオラマは各武将の布陣がおもしろい。

家康館前の広場には高さ約6mのからくり時計塔。能を舞う家康の人形が登場し見る人の心をなごませます。9~18時の毎時00分と30分に能を舞い、遺訓を語ります。

近くには三方ヶ原の戦いの敗戦を肝に銘じるために描かせたという絵画、世にいう「しかみ像」を基につくられたの石像が。浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、」負け戦となって多くの家臣を失った家康が自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられています。しかしながらこの逸話が近年の研究によって創作話であるとのこと。

また本多平八郎忠勝公銅像も立っています。徳川四天王のひとりで、「家康に過ぎたるもの二つあり唐の頭に本多平八」とその天下無双の勇士を賞賛された武将で子孫は岡崎城主となりました。この像は鹿角兜と甲冑で身を固め、名槍蜻蛉切を構えています。

二の丸があった場所には本格的な能楽堂が建てられています。

その能楽堂の脇を下り、次に向かったのが、坂谷曲輪にある石囲いの中央に残る深さ5mほどの「東照公産湯の井戸」です。天文11年(1542)12月26日家康が誕生した時に産湯に使った水を汲み上げたといわれる井戸が、当時のまま遺されています。かつて井戸の隣には産屋があり、そこで於大の方が家康を産んだとされます。産湯は松平発祥の地である松平郷や産土神である六所神社からも届けられたと伝わります。著名な人物の産湯に使われた井戸は後世に神聖視されました。

現在は井戸の横に、ポンプで汲み上げた井戸水に触れることができる水場があり、出世運が上がるといわれ“出世のパワースポット”として人気があります。

東照公産湯の井戸から150mほど伊賀川沿い南に歩くと「東照公えな塚」がありますが、この本丸から二の丸の西側に位置し、伊賀川沿いに南北に細長い曲輪が坂谷曲輪です。天守からほぼ真西の位置に坂谷門があり、門の前方には攻防の要となる半円形の馬出がありました。現在は門の石垣が残るのみですが、石垣には大きな石材が使用され、風格の高さを感じさせます。

東照公えな塚」のえな(胞衣)とは、へその緒と胎盤のことで、古来日本ではえなを壷に入れて埋め、子どもの成長と出世を願いました。かつては本丸南にあったものを移したといわれ、えなを埋めた場所には塚や碑がつくられ、信仰の対象となる場合もあり、ここもパワースポットとして安産や子宝、厄除けを願う人が多いといいます。

東照公えな塚から岡崎城本丸に向かう登城路では、野面積みの石垣を間近で見られます。本丸に四カ所ある虎口(出入口)の一つ「本丸埋門」は門の外側にも枡形があり、二重の枡形に守られた厳重な構造でした。現在のスロープ部分は階段であったと考えられます。埋門は石垣の間に埋もれるように門が構築され、石垣には門の横木が架け渡されていたことを示す痕跡が残るほか、「卍」や「井」の刻印も見られます。

元和3年(1617)本多康紀のとき、本丸に三層三階地階一階で東に井戸櫓、南に附櫓を持つ複合連結式望楼型天守が建てられました。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(広季系統)、水野氏、松井松平氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となり、石高こそ5万石前後と少なかったが、大名は岡崎城主になることを誇りにしたと伝わる。現在の天守は昭和34年(1959)に再建されたものですが日本100名城に選ばれています。

天守内は、1階が岡崎城天守を支えた天守台石垣の穴蔵と心礎が江戸時代の姿を伝えます。2~4階は、城の特徴や城下町の様子を伝える興味深い展示が充実している歴史資料館。そして5階が展望室で三河の山々や岡崎市内を一望できます。

天守から眺める際、ぜひ確認したいのが北側から遠くに見える大樹寺の三門です。岡崎城から北に3km離れた場所にある徳川家にとって重要な地であとで向かいます。また西側からは八丁蔵通りが望めます。

岡崎城の隣には、家康と本多忠勝を祭神として祀る龍城神社が鎮座する。出世開運や心願成就などの御利益があるとされます。

境内には家康が誕生した朝、城楼上に雲を呼び風を招く金の龍が現れて昇天したという龍神伝説が残る「竜神の井」があり、こちらも開運スポットになっています。

本丸と持仏堂曲輪(創業120年を超える和食の老舗八千代本店がある)とを隔てる清海堀は、岡崎城を最初に築いた西郷頼嗣の法名である清海入道に因み名付けられました。本丸の北防衛のために設けられていて、歴史的にも価値の高い空堀です。城内でも古い時代に構築されたと考えられる幅が狭くて深い曲線的な空堀です。本丸側は家康時代の急斜面の土塁のままですが、対面側は天正18年(1590)に城主となった豊臣秀吉の家臣・田中吉政の改修によって石垣が築かれたもので中世城郭から近世城郭へと築城の変遷がみられます。

本丸北側の位置する持仏堂曲輪は、家康が所持した阿弥陀仏を安置した堂があったことに由来します。場内で最も強固な防御を誇る曲輪で、二の丸から侵入した敵は、180度方向転換をして狭い帯曲輪を通らなければ本丸大手虎口に行けず、側面からの横矢を受けることになります。持仏堂曲輪には家康公・竹千代像ベンチが置かれています。石都岡崎と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と、地元産の良質な御影石を使い、造り上げられたこのベンチに座り、天下人を生んだ岡崎の魂を感じてみては。

持仏堂曲輪と天守台を繋ぐ橋で、大正9年(1920)に現在のアーチ型石橋に改修されていますが、江戸時代は屋根付きの廊下橋が架けられていました。曲輪から天守へ直結する橋は珍しいものです。廊下橋を渡った正面の天守台石垣には鏡石(幅2.1m、高さ1.8m)が配置されています。

二の丸から持仏堂曲輪に通じる櫓門で、現在は門の石垣を残すのみの太鼓門です。江戸時代には城下に時を知らせる太鼓が置かれていたことから太鼓門と呼ばれています。岡崎城下の出入口(籠田総門、松葉総門)の開閉時刻を知らせるため、毎日この場所で太鼓を打っていました。

隠居曲輪を通って駐車場に戻る途中、龍神堀から神橋を望みます。龍神堀は本丸南を守る水堀で、木々の緑の中に神橋の朱色が美しく映えています。

駐車場から約90mのところに「菅生神社」があります。起源は景行天皇の西暦110年、日本武尊が東国平定のために菅生の地を通過した際、高石(現在の菅生河畔の満性寺あたり)にて矢を作り、神風にて一矢を吹き流し、その矢を以って伊勢大神を勧請し、神社を建て「吹矢大明神」と称したとされる岡崎市最古の神社です。

菅生神社は武門の神と尊ばれ、松平一族の崇敬篤く、岡崎城主代々に祈願所でした。永禄9年(1566)2月12日、家康25歳の厄年に厄除開運祈願をなされ、同年12月に松平から徳川へ姓を改められました。「立志改名」した家康は後の慶長8年2月12日に江戸幕府を開府したのです。

極彩色の楼門が美しい六所神社は「安産の神様」として信仰を集めます。37代斉明天皇の勅願により、奥州塩竈六所大明神を勧請され創立されたと伝えれています。家康のルーツとなる松平氏との縁が深く、家康誕生の際の産土神と伝わる。楼門は貞淳5年(1688)五代徳川綱吉公の造営。

徳川家光の命により寛永11年(1634)から13年にかけて社殿および神供所を造営。この時の造営により本殿、幣殿、拝殿を連結し、華麗な彩色を施した権現造の社殿が完成しました。緑豊かな丘に鮮やかな朱塗りの建造物が並びます。

天守から見えた岡崎城の3㌔北には、文明7年(1475)松平家4代親忠により創建された松平・徳川両氏の菩提寺となる大樹寺があります。この寺には、今川方の一武将だった家康が、桶狭間の戦いから逃げ帰り、自害しようとした時、登誉上人から死を選ぶのではなく、生きて民のために泰平の世を目指せと諭され「厭離穢土 欣求浄土」の言葉を授かって自害を思いとどまったという逸話が残る徳川家にとって重要な地。

ここには天文4年(1535)家康の祖父・松平清康が建立した国の重要文化財の多宝塔のほか、寛永年間に建てられた三門、歴代将軍の位牌、家康73歳の時の木像など見どころも多い。3代将軍・家光が寛永3年(1636)に三門を造営した際、「祖父が生まれた城を望めるように」と伽藍を配置、設計したのが始まりで、本堂から三門、総門越しにまっすぐ正面に岡崎城が望め、この約3kmの直線は「ビスタライン」と呼ばれ、この間には眺望をさえぎる建物がない。歴代城主は天守から大樹寺を拝礼するのが毎日の習わしだったとか。

城下町岡崎の礎を築いたのは、、岡崎城を近世城郭に改築した秀吉の家臣・田中吉政でした。吉政は10年をかけて城下町をつくりあげ、東海道を城下へ引き入れました。その際、外敵から防衛を有利にするため、東海道に曲がり角を数多く造り、城までの距離を伸ばすように整備し、「二十七曲り」の城下町と呼ばれるようになりました。江戸時代には東海道五十三次第38番目の宿場町として栄え、3軒の本陣と脇本陣があったといいます。

大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、独特の風味を持ち、現在に至るまで岡崎を代表する名産です。矢作川沿いであるという立地条件から、原料大豆・塩などの仕入れが便利で製品の出荷にも舟運が利用でき、矢作川の伏流水が醸造によくて、また気候、風土にも適しているといわれています。江戸時代以来、早川家と大田家の二軒が製造販売する豆味噌は、岡崎城から西へ八丁(約870m)の八丁村(現岡崎市八帖町)で造られたことから「八丁味噌」と名が付き、特に有名となり、地元周辺のみでなく江戸にも多く積みだされ、その名を髙らしめました。現在も両家は旧東海道をはさんで向かい合い「カクキュー」「まるや」の商号で今なお昔ながらの製法で伝統の味を守り続けています。写真の「まるや」は延元2年(1337)創業で、始祖・弥治右エ門がその名の由来。

城下町歩きの目玉は、江戸時代から続く八丁味噌の味噌蔵。岡崎名物といえば八丁味噌といわれ、江戸時代初期から2夏2冬以上天然醸造させる伝統製法で造られる豆味噌は、栄養価の高い濃厚なコクと色味、その中に感じられるわずかな酸味と渋味が特徴です。「摺ってよし、摺らずなおよし、生でよし、煮れば極よし、焼いて又よし」といわれる八丁味噌は、三河武士・農民・町人たとの常食・兵食として親しまれ、一日も欠くことのできない食品でした。また天正十八年(1590)徳川家康の関東移封により、三河譜代の大名、旗本によって全国的にその名が知られ需要が高まり、矢作川の舟運や江戸廻船の発達に伴い、三河木綿の運搬との相乗関係によって、伊勢・江戸を中心に販路が進展拡充しました。それが「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」という吉田松陰の詠歌となり、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて喰うも」という斎藤茂吉の短歌などに記され、江戸時代以来、岡崎城下の名産として賞賛されてきました。

この味噌蔵を舞台にしたNHK連続テレビ小説『純情きらり』で宮崎あおいなど人気役者が岡崎の地でドラマを繰り広げました。蔵元が立ち並ぶ「八丁通り」や近くの「きらり通り」には、ドラマ出演者の手形モニュメントが設置されているので、散策の途中に探して辿ってみるのも一興です。

江戸初期の正保2年(1645)創業の「カクキュー」は始祖・久右衛門がその名の由来。初代当主は元は今川家臣だったが、武士をやめて味噌造りの道に。現当主早川久右衛門は19代目。本社の建物は昭和2年(1927)に完成したバシリカ式教会様の木造建築。

八丁味噌の里では工場見学や併設の食事処で巨大な杉樽が並ぶ味噌蔵を見ながら味噌煮込みうどんや味噌カツなどのグルメが味わえます。一つの木樽に6tの味噌を仕込み、職人の手で3tの重石をのせています。

八丁味噌仕立ての汁にコシの強いいどんを入れて煮込んで作られる「味噌煮込みうどん」。ほかの味噌と比べて栄養価の高く、三河の地において、その健康効果も踏まえた赤味噌文化が強く根付いていました。そのため赤味噌を使った郷土料理が愛知県には多数存在し味噌煮込みうどんmpその代表的な料理の一つです。

愛知環状鉄道中岡駅にある「釜春」は釜揚げうどん発祥の店とされ、近年岡崎エリアで注目されているおかざきめしのひとつ“もろこしうどん”がいただけます。

城下町には史跡が少ないものの、二十七曲りを歩けば当時の入り組んだ町の形や広さを体験できます。東海道を往来した旅人に思いを馳せながら、散策してみてください。戦乱の世を耐え忍んで生き抜き、天下人にまで上り詰めた徳川家康。その生涯の地は、まさしく「開運の地」であり、歴史好きでなくても楽しめる要素が盛りだくさんです。

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