南紀勝浦でマグロも!熊野灘と熊野川を臨む自然の要塞・新宮城

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大阪から電車にのって約2時間、旅気分を楽しむにはぴったりの距離。同じ関西でありながら通り道になることも少なく、ふだんは意外と行く機会がない和歌山。お城あり、おいしいものありのわざわざでも行ってみたくなる街です。徳川御三家の紀州藩の居城・和歌山城、その附家老であった水野家が治めた新宮藩の居城・新宮城、安藤家の田辺城跡といったお城をめぐる歴史散歩に、和歌山ラーメンや勝浦マグロなどご当地グルメ満喫と、のっびり過ごす気ままな旅に出かけます。

JR白浜駅から新宮駅を目指して出発します。写真は名称「パンダくろしお『Smileアドベンチャートレイン』」の特急くろしお号のコラボ列車です。JR西日本発足30周年、アドベンチャーワールド来年開業40周年を迎えるにあたり、「京都駅」から「新宮駅」間を運行する特急「くろしお」号にアドベンチャーワールドのシーンをラッピングしています。

新宮城のある新宮市は、熊野川の河口の西側に位置し、熊野三山のひとつである熊野速玉大社の鳥居前町として栄えてきました。また熊野本宮大社への入口として、熊野川の舟運を利用した杉や檜など熊野材の集積地でもありました。海と山に囲まれた豊かな土壌の上に、古くから黒潮の海流や熊野詣などえお通じて、外との往来が闊達だった和歌山県と三重県にまたがる熊野地方の中心都市なのです。また同じ紀州藩内とはいえ和歌山城下から遠く離れていることから、むしろ盛んに経済交流のあった江戸を身近に感じていた土地です。

新宮城は市街地の北、紀伊半島最長の河川、熊野川の河口山上に築かれ、東に河口を越えて太平洋を一望できることから「沖見城」とも呼ばれる紀州藩新宮領統治の拠点となっていました。新宮城は別名「丹鶴城」とも呼ばれます。名前の由来は、築城前にここに六条判官源為義(八幡太郎義家の孫)の娘である丹鶴姫が建立し、晩年を過ごしたという東仙寺があったからといわれています。丹鶴姫は新宮十郎行家の姉で、源頼朝や義経の伯母にあたる新宮が生んだ女傑です。第18代熊野別当湛快の妻となり、後に第21代熊野別当となる湛増(弁慶の父)を産みます。源平合戦に揺れ動く新宮において、強力な熊野水軍を源氏の味方につける大きな役割を果たしました。ちなみに熊野速玉大社は、古来より熊野の本宮に対して「新宮」と呼ばれてきたことがこの地の由来です。

新宮城は関ヶ原の合戦の後、和歌山城主となった浅野幸長の家臣浅野忠吉が新宮領を与えられ、慶長6年(1601)に築城を開始しました。元和6年(1615)の一国一城令で一旦廃城となりますが、同4年再建を許され築城を再開します。元和5年(1619)徳川頼宣が紀州55万5千石の藩主として入国するに従って、徳川家康の母方の従弟にあたる水野重仲も附家老として新宮に入り、忠吉の築城工事を継続し、寛永10年(1633)近世城郭が完成します。同じく附家老として田辺領主となった安藤直次とともに、紀州徳川家を補佐した安藤・水野家の地行所は、田辺領(3万8千石)と新宮領(3万5千石)と呼ばれ、両家は、幕府から見れば陪臣で、大名の列に並ぶことはありませんでしたが、尾張、水戸の附家老と同様、待遇は大名に準じ、将軍に拝謁することができました。水野氏は江戸定府。

JR新宮駅前の新宮市観光協会で地図をもらい、駅前商店街、丹鶴商店街を抜けてあること10分、続日本100名城に選出されている新宮城入口に到着します。かつての城域は東西約324m南北約198mで城門6、櫓門5、二層櫓4、単層櫓9とあり、本丸には大天守と小天守が築造されていました。

新宮城跡入口左手、隣接する現在保育園となっている場所は「二の丸(南曲輪)」といい、領国支配の行政機関があったところで、登城のための大手道は、二の丸の北側(市民会館横)に入口がありますが、現在は民家で塞がれ通行止めです。県道42号線沿いの二の丸石垣を外から見学します。

簡素な冠木門の入口から斜面をまっすぐに登っていく階段は、途中で本来の江戸時代の大手道となり松の丸に通じています。この城は独立丘陵(丹鶴山)上にあり、東の最高所に「本丸」と「天守台」が、その南西に「鐘の丸(二の丸)」と北東に「松の丸(三の丸)」が配置され、その下に二の丸(南曲輪)を設けています。まずは大手道が至る松の丸西門跡へ。山上の曲輪群の入り口として、正面玄関らしく石垣にも堅牢さがうかがえ、2つの門を組み合わせた防御スペース枡形虎口が設けられています。

石階段を登り松の丸へ入るとすぐ右手に鐘の丸への虎口、鐘の丸渡櫓門跡があります。櫓門(多門)としての偉容を誇り、枡形虎口で防御を固めていました。現在は切込ハギ布積みの石垣が残っています。正面右奥には厄除けと城主の威厳を示す鏡石が設置されています。

鐘の丸には昭和29年(1954)当時旅館業が営まれていたこともありました。

本丸虎口へは通路を何度も折り曲げて二重の虎口を設けています。鐘の丸から鐘の丸東門跡をを通ります。仕切り石垣の一部が残り、ここに門や白壁が建造されていたと思われます。

正面の石垣の上のトイレ右横から天守台に上がる道がありますが、天守台はなぜか中央部が破壊されてしまっています。

本来の左手から本丸を目指します。石段を上ると城門跡があり、鐘の丸東門から本丸へと曲輪間の遮断。出入口として高麗門のような門があったと言われています。

さらに本丸渡櫓門跡へ。枡形虎口になっていて、巨石を利用した堅牢な石垣は高度な切込ハギのどっしりとした門跡です。

本丸跡には、新宮を2度訪れた与謝野寛(鉄幹)の歌碑が建ちます。明治39年(1906)北原白秋らと来訪の折に詠んだとされる『高く立ち 秋の熊野の海を見て 誰そ涙すや 城の夕べに』と刻まれています。

本丸の東、丹鶴姫の碑の横に設けられた搦手門。城の裏門で石垣は面取り、谷目地に石表面を高く膨らませた、当時最高の石化粧法で作られています。現在はここからは降りれなくなっています。

本丸の北には「出丸」があり、熊野川の河口、上流方向が良く見通せる。全国でも珍しい独立した曲輪で、本丸とは橋でつながっていました。

本丸の南東部に突き出た一画があるが、櫓が建っていたであろうと思われる。

出丸への通路は整備がされておらず塞がれていましたが、本丸北西側の石垣越しに出丸を見てみると、通路上が水野時代の切込ハギの石垣ですが、通路下は浅野期の野面積みの石垣がみられます。

最後に松の丸まで戻り、北側の降り口から熊野川岸の「水の手曲輪」に。

水の手というと、井戸や溜池があることが普通ですが、ここではお城では珍しく、城の中核部分「舟入」を守るように縄張りされていて、熊野川に面した舟屋という港湾施設になっています。洪水に備え、川に面して6m近い石垣が築かれていますが、城内からはわかりにくです。

船着き場と一万俵余りの炭が収納できる大規模な炭納屋が設けられ、熊野川流域の備長炭を集積し、江戸などに出荷する拠点となっていました。江戸の炭消費量の約3割を賄っていたといわれ、また三輪崎や太地で鯨を捕らせ、鯨油などを集め、これも江戸に売っていました。鯨油は貴重で行灯の油として欠かせませんでした。この二つの燃料提供者であった水野家は他藩が羨む大富豪だったのです。

水の手曲輪を熊野川沿いに西へ歩くと丹鶴ホールが見えてきますのでそのまま住宅地を南に進むと二の丸(南曲輪)に戻れます。

新宮駅から約2分のところに、極彩色豊かな中国風楼門を配した徐福公園があるので立ち寄ります。徐福は今から約2200年前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めてこの熊野に渡来しました。徐福一行は、この地に自生する「天台鳥薬」という薬木を発見しましたが、気候温暖、風光明媚、更には土地の人々の温かい友情に触れ、、ついにこの地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙漉き等の技術をこの地に伝えたといわれています。

公園の中にはクスノキの巨木と天台烏薬に囲まれた「徐福の墓」や徐福の重臣7人を祀る「七塚の碑」などがあります。

JR新宮駅から紀勢本線でJR那智勝浦駅で下車、お目当てはマグロです。魚の王様と言えばマグロ。その大きさだけでなく、味、人気、価格とも並ぶものがありません。延縄漁法による生まぐろの水揚げ高日本一の勝浦漁港。大きくなれば体長3m、体重400㎏を超えるマグロの生息域は広く、北緯50度から南緯50度に及びます。また泳ぐ速度は時速100kmを越すともいわれ、その泳力の源となる筋肉が、全身の赤身なのです。熊野ではマグロのことを「シビ」と呼びますが、これは今から1200年もの昔、平安時代から続いている言葉です。勝浦漁港に入港するのはマイナス0.4~1.0度に冷やした漁倉で鮮度を保持する延縄漁船のみ。そのこだわりが質の高さにも繋がり、街のあちこちでおいしいマグロをいただくことができます。

マグロのお造り、マグロ丼、マグロのステーキ等食べ方は多種多様ですが、今回は駅前の鮮魚と和食をベースにした創作料理のお店「bodai」の人気No1メニュー「鮪中とろカツ定食」をいただきます。モダンな店内で落ち着いた雰囲気ですが、お客様はひっきりなしに入ってきます。新鮮なメバチマグロを中心に、刺身で食べたいくらいのマグロを油に落としてさっと高温で約10秒。小気味よく揚がったカツは、表面がサクッと衣をまといながらも中はジューシーな生マグロのもちっとした食感が楽しまる逸品です。とろけるような食感のレアなカツを昆布だしで旨味を加えたオリジナルのおろしポン酢でいただきます。

元気をいただき一路大阪へ。

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