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大阪から電車にのって約2時間、旅気分を楽しむにはぴったりの距離。同じ関西でありながら通り道になることも少なく、ふだんは意外と行く機会がない和歌山。お城あり、おいしいものありのわざわざでも行ってみたくなる街です。徳川御三家の紀州藩の居城・和歌山城、その附家老であった水野家が治めた新宮藩の居城・新宮城、安藤家の田辺城跡といったお城をめぐる歴史散歩に、和歌山ラーメンや勝浦マグロなどご当地グルメ満喫と、のっびり過ごす気ままな旅に出かけます。

紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に天正13年(1585)紀ノ川左岸の虎伏山(当時吹上ノ峰)に築城を命じ、近くの景勝地・和歌浦にちなみ名付けられた和歌山城は、その後、城代に秀長の家老桑山茂晴、関ヶ原の戦い後は37万6千石で入封した浅野幸長と城主が変わり、元和5年(1619)徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、18歳で紀州徳川家の初代藩主となります。頼宣は幕府から銀2000貫を賜り、城の増築を大規模に実施。西国支配の拠点を守り、紀州藩繁栄の地盤を固めました。九男・義直の尾張家、十一男・頼房の水戸家と並ぶ徳川御三家のひとつとして、約250年もの時代を支え続けた「南海の鎮」です。

虎が伏したような山、標高48mの虎伏山の頂に建つことから別名虎伏城と呼ばれる梯郭式平山城。築城の名人・藤堂高虎が本丸を手掛け、天守閣が大天守と小天守が連結された連立式層塔型3層3階の造りが特徴。姫路城、松山城と並ぶ日本三大連立式平山城のひとつで、日本100名城のひとつに数えられています。天守から見る左上部が二の丸御門櫓、右が乾櫓です。天守は弘化3年(1846)落雷により焼失、嘉永3年(1850)に再建されるも、昭和20年(現1945)の若山大空襲で焼失。絃在の天守は古写真や絵面図を元に昭和33年(1958)外観復元されたものです。本丸の北に二の丸、その外に三の丸が配されています。

城内の石垣は自然石を切り出してそのまま積む“野面積み”、石の表面を粗く加工してはぎ合わせて積む“打ち込みはぎ”など時代によって石の種類や積み方が異なり、特に紀州特産の青石(緑泥片岩)がふんだんに使われていることも石垣好きには魅力。この石は縦方向にもろいため横長に積まれていて、ほかの石垣とは異なる印象を与えています。豊臣時代の石は緑泥片岩が、浅野時代の石は和泉砂岩が多く、刻印も多種多様に及んでいます。本丸に近づくに従って雑多な石による野面積みになっているのも、本丸造営時がまだ戦国時代であったことを彷彿とさせて興味深い。

和歌山市の中心地にある和歌山城はその敷地である公園一帯が国の指定史跡であり、市民の憩いの場となっています。一の橋、大手門から入城します。

大手門(追手門)は城の内郭に入る正門です。羽柴時代は岡口門が大手門でしたが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後に和歌山城主となった浅野幸長は、城の大改築を行い、内郭の北東部のこの位置に橋を架け、門を設置して大手としたのです。紀州徳川家も引き続きここを大手としましたが、橋を「市之橋」、門は「市之城御門」と詠んでいました。それを寛政8年(1769)から「大手御門」と改称し、橋は「一ノ橋」に変えました。

大手門は高麗門形式の門で、土塀や多門が連なり、西の石垣上には月見櫓が建っていて、一の橋には高麗擬宝珠が付けられていました。『紀州国名所図会』を見ると、登城する重臣たちは橋の手前で駕籠や馬から降りなければならず、同道した重臣の家来は槍を立てかけて待合所で待機しています。大手門は明治42年(1909)に倒壊しましたが、昭和57(1982)3月に再建され、翌年3月には一の橋が架けかえられました。

大手門を入ると右側の二の丸石垣群の上部には幹の周囲7m樹高25mの巨大な樟樹。樹齢400年以上と考えられ、四方にのびた太い枝は約35mにおよび、その姿が神々しい。

大手門をくぐると二の丸です。右手に巨大な二の丸石垣群が奥の方まで続き、圧倒されます。石垣に沿ってやや上りながら進むと虎口になり、虎伏山にちなんだ伏虎像に出ます。写真の一中門の石垣は、花崗斑岩を多角形に加工した亀甲積の石垣です。

右折して進むと最初にみた石垣群の上に出たことになり、今は緑と木々に囲まれた二の丸庭園です。江戸時代にはここに二の丸御殿があり、城内の武士たちが政務をおこなっていました。

大奥や中奥のあった二の丸から御橋廊下を渡って西の丸へ。御橋廊下は平成18年(2006)に復元されたもので実際に通り抜けができます。長さは約27mで、幅約3m。二の丸のほうが西の丸より3.4mほど高いところにあるため、橋が傾斜しています。

当時藩主と限られたお付きの人だけしか通行が許されなかった二の丸と西の丸を行き来するためのもので、斜めにかかる廊下橋としては全国的に珍しい。床がノコギリの刃のような形状になっているのは、滑らないための工夫といいます。いったん靴を脱いで橋の中を進むと西の丸庭園です。

西の丸庭園は、別名紅葉溪庭園とも呼ばれ、楓や紅葉など秋の紅葉が美しい庭園として知られています。徳川頼宜が自身に隠居場として西の丸御殿とともに作庭したという説と浅野氏時代に家臣の上田宗固が作庭したという説がありますが、どちらにしても内堀を利用し、すり鉢のような急斜面を巧みに生かした池泉式回遊庭園で、起伏ある造りが特徴的な国指定の名勝です。写真の頼宣が作ったとされる鳶魚閣と和歌山市の名誉市民、松下幸之助氏が昭和48年(1973)寄贈した茶室紅松庵とともに楽しむことができます。

鶴の渓は、砂の丸から二の丸へと通ずる道で、天守閣が建つ虎伏山ち吹上砂丘の間の間に位置し、くぼんだ地形になっています。浅野時代に鶴を飼っていたこちから鶴之渓と名付けられました。鶴の溪の石垣は結晶片岩を自然石のまま積んだ野面積みで、隅角部の算木積みも未発達ながら緩やかな勾配をえがいています。浅野家以前の桑山家の普請だと考えられています。石垣の上には山吹が植えられていました。丁度紅葉渓庭園南側石垣沿いを山吹渓といい、春には石垣の上に山吹が花開き、紀伊国名所図会に当時の風景が残っています。

砂の丸広場を抜け追廻門へ。西から和歌山城(砂の丸)に入る門で、大手門の反対側の搦手に位置します。門を出て道を隔てた城外の扇の芝に、馬術を練習する追廻があったので、この名が付いた高麗門形式の門です。元和5年(1619)に紀州徳川家初代頼宜が入封し、和歌山城の二の丸を拡張するために西内堀の一部を埋め立て、砂の丸や南の丸を内郭に取り込みました。当然追廻門もその際に建立されたもので、岡口門とともに旧藩時代の数少ない遺構です。追廻門は藩主が座る二の丸御座之間の南西に位置し、陰陽道の裏鬼門にあたるので、除災のため朱色に塗られたと考えられています。

追廻門を右に見ながらまっすぐ進むと和歌山県護国神社、それを過ぎると左手に石垣群が見えてきます。新裏坂周辺で坂に西方に続く石垣をよく見ると何やら紋章のようなものが刻まれています。石垣の刻印のデザインは多種多様で40種類以上が確認されていて、家紋やその省略文字であったり、方位や日付、人名と考えられるものもあります。何のために刻印されたかについては、石材所有者の表示、石質チェック、鬼門除けなど呪術的使用など諸説があり、はっきりとはわかっていません。和歌山城の刻印のある石垣が和泉砂岩に限られ、浅野家が城主だった時代(1600~1619)に修復された石垣にしか使われていないことなどから、浅野家の家臣が主家の城普請に協力したしるしとして刻印したとされます。

本丸に向かう石垣と山をぐるりと巡るように進むと駐車場があり、これを越えた場所に不明門址が見えてきます。通常は閉じられたままだったため昔は「あかずごもん」と呼ばれていました。遺体や罪人などを出す不浄門として使われたとされ、名古屋城や岡山城などにも同名の門があります。元和5年(1619)徳川頼宜が入国し、同7年に幕府より銀2千貫を贈られて城を拡張しました。城南側の砂丘を掘り割って東西の道(三年坂)を造り、掘と石垣を築いて砂丘を内郭に取り込み、砂の丸・南の丸としました。城造りで有名な藤堂高虎が、羽柴(豊臣)秀長の普請奉行として和歌山城の最初の築城にかかわった縁もあって、頼宜が城を拡張する際にも派遣されて助言したといわれています。不明門もその時に建立されたとされものです。

不明門には建築物はないのですがかつて門ががあった場所は枡形虎口になっています。いったん門を出て左折し、三年坂通りに面した不明門址付近の空堀はつつじ園です。

空堀が終わり水堀に変わると見えてくるのが岡口門で、空襲の際に難を逃れた江戸時代前期から残る岡口門と土塀は国の重要文化財に指定されています。真壁造りの櫓門である岡口門は、上部に櫓を置く堂々たる門構えで、天正13年(1585)の築城時は南東部の岡口門を正門である大手門とし、広瀬通り丁が大手筋で、熊野街道につながっていました。和歌山城の東側の地域は、中世では雑賀庄の岡と呼ばれていたのでこの名がつきました。慶長5年(1600)浅野幸長が城主となり、この時代に大手を一の門に変えましたが、引き続き重要な門として機能しました。元和7年に城を拡張した際、現在の門に整備したと考えられています。徳川時代、城の内郭へ入る門で二階建ての櫓門形式の門は、岡口門と吹上大門だけでした。門の二階部分は北側に蔵が、南側には二階建ての櫓が続いていましたが、現在では取り払われ、切妻のような形になっています。

北側にある延長40mの土塀には珍しい日干煉瓦で囲った鉄砲を撃つための銃眼が12ヵ所見て取れます(写真中央)。

岡口門を入り、南の丸の大きな石垣群を見ながら表坂から登城です。この石垣は後に八代将軍となる五代藩主、吉宗が18世紀初頭に改修したとされる石垣で不明門脇の高櫓台とともに高さ約16m、反りのある勾配が美しく、角石に熊野地方産の花崗班岩が用いられ、石と石の間にすき間のない切込ハギで積まれています。

表坂からは山麓を縫うように時計回りで登っていくと和歌山城本丸に着きます。

和歌山城天守は、浅野家時代は黒板下見張りの天守でしたが、第十代藩主徳川治宝の時代に現在の白亜の壁に塗り替えられました。また天守曲輪は桑山重晴時代の石垣の上に、さらに石が積まれた二重石垣です。

本丸へは、天守二之御門(楠門)から入ります。

天守の特徴は、天守曲輪内側から大天守を見ると、小天守や櫓も含めて石垣の築城技術が未熟だったため、それぞれ一階平面がきわめていびつな不等辺四角形になっていて、それを二重目から方形に整えているので2階、3階がそろっていません。そのため下階から上階まで同じ平面が規則的に漸減させて積み上げる層塔型のように見えて、実は平屋の上に二重の望楼を載せた望楼式天守といえます。また過剰なまでに配置された破風など古式がさまざまな点で踏襲されていますし、一方屋根の妻壁には青海波紋が打ちだされた銅板が使用されていますが、これは江戸城や名古屋城の建物とも共通する徳川の城の特徴です。

和歌山城天守は楠門から時計回りに、二之御門櫓、多聞櫓、乾櫓、多聞櫓、御台所、小天守、大天守、多聞櫓そして楠門へとつながる長屋形式の多聞櫓でつなぐ連立式天守で、内部をぐるっと一周する形で見学します。天守の内部は資料館となっていて、武具や衣装など紀州藩ゆかりの遺品が展示され、最上階の天守から眺めると、紀の川の河口から青々とした流れが紀淡海峡へと注ぎ込み、水平線に浮かぶのは淡路島と四国。紀伊半島北西端に位置する和歌山市は古くから海路の要衝。2代将軍・秀忠が紀州に弟頼宣を置いた理由がよくわかります。

裏阪を下って大手門からJR和歌山駅方面に戻ります。

和歌山といえば和歌山ラーメン(地元では中華そば)。その名を全国に広めた店が「井出商店」です。開店と同時にひっきりなしにお客さんが訪れ、あっという間に店内はいっぱいになり活気づく。

ややにごった豚骨しょうゆ味のスープは一見こってりしているようですが、一口飲むとコクと旨味はしっかりあるのに意外なほどさっぱりしています。しつこくないまろやかなスープがやや細めのストレート麺との相性もよく、トロトロのチャーシューも絶品。初めて食べる新鮮な味わいなのに、どこか懐かしさも感じるから不思議です。一度食べたらまた食べたくなる忘れられない美味しさです。早寿司(一ヶ100円)も是非ご一緒に。

今日は紀伊田辺泊まりでJR紀伊田辺駅で下車。駅前には武蔵坊弁慶像がたっています。なざなら熊野三山の別宮的存在の地元の闘鶏神社の熊野別当湛増が武蔵坊弁慶の父であると伝えられているから。闘鶏神社の名の由来は、平家物語壇ノ浦の合戦の故事によるもので、源氏と平氏の双方より熊野水軍の援軍を要請された熊野別当湛増が、どちらに味方をするかの神意を確認するため、神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせたことによります。

幼少期から徳川家康に仕えた安藤直次は、慶長8年(1603)に家康が征夷大将軍となると、本多正純や成瀬正成と共に幕政を取り仕切るようになります。慶長15年(1610)には家康の10男、頼宜の附家老に、元和5年(1619)、頼宜が紀州和歌山城に移ると、それまでの掛川城(2万石)から同国田辺城(3800石)の所領を与えられました。頼宜が全幅の信頼を寄せた附家老安藤直次が田辺城主となった以降、安藤家が居城した田辺城は、別名錦水城と呼ばれ田辺市街の西南端に位置し、会津川の河口左岸と海に隣接していました。現在は水門跡だけが遺構となっています。

翌朝新宮へ向かいます。「南紀勝浦でマグロも!熊野灘と熊野川を臨む自然の要塞・新宮城」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/16318

 

 

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